第2話 老人と犬

結宇がこの女性専用アパートにやって来たのは、中学卒業の春のことだ。

「よく来たねぇ」

周詞すのりさん」

出迎えてくれたのは祖母の妹、つまり結宇の親類であり、アパートの大家でもある老女だった。自分と同じ名字を呼ぶのに、結宇はかすかな気恥しさを覚えた。

「今日からお世話になります」

「はい、よろしくね。でも、本当にアパートの管理をするの?」

「はい。住まわせて貰うんですから、掃除でもなんでも、やらせてください」

「気を遣わなくても……姉さんが亡くなった時には、むしろ結宇ちゃんにお世話になったくらいなのに……」

大家の表情が僅かに憂いを帯びる。老成し、死を受容しながらも身内の死を消化しきれない、そんな顔だ。

「……いえ、やらせてください」

育ての親である祖母が亡くなった時、結宇は普通の人生に戻ることを諦めた。つまり、周囲と同じように進学していく生き方を。

もとより、中学さえも通ったり通わなかったりで、追い出されるように卒業した身だ。ごく普通の生徒として毎日学校に通い、同級生と机を並べる生活は、結宇にとって最早日常ではなくなっていた。

このアパートの管理をすることで『するべきこと』が……例えば毎朝起きて、授業に出て、部活をこなし帰ってくるような、繰り返されるべき日常が生まれるならば、その方がよかった。

「ま、結宇ちゃんの好きにやってみなさい。ね」

「ありがとうございます」

一般的ではない結宇の生き方を受け入れるのは、家族愛からだろうか。結宇はそう思わない。結宇を持て余し、最終的に『見守り』という名の放任を選んだのだ。ひょっとしたら、このご時世何が起こるかわからないから、という思いからかもしれない。

いずれにしても、住む場所を与えてくれるのはありがたいことだった。

「そうだ、結宇ちゃん。犬好き?」

「え? ふ、ふつーくらいです」

突然なんだろう。

結宇が犬嫌いではないと知った大家は、嬉しそうに笑ってアパートの庭へと導く。

「犬小屋?」

真新しいそこには、繋がれた小さな柴犬が一匹。春の日差しを受けて丸まっていた。

「周詞さん、この犬は?」

「うちの犬が少し前に産んでね。一匹だけ貰い手がつかなかったもんだから、ここの番犬にしようと思って」

「番犬」

それにしては、結宇が近付いても穏やかな息を繰り返しているばかりだ。このまま撫でても起きはしないのではないかと思って手を伸ばせば、思った通り、ぴくりと毛を震わせはしたものの、飛び起きることも吠えることもなかった。

「……」

「まあ、アパート自体は女性専用だからね。男の人に吠えてもらえればいいのよ」

「はぁ」

吠えるだろうか。吠えないだろうなぁ。


思った通り、引っ越し業者が僅かな家具を持ち込む間も、柴犬は大人しいものだった。

時折あくびをしては、初対面の結宇を不思議そうに見つめ、飽きたらその辺を嗅ぎ回り、また眠った。

結宇もまたその様を楽しみながら、荷を解いていく。荷物と言っても、設置を済ませた家具に、細々としたものを揃えていくだけなのだが。

「……?」

荷を開ける手が止まる。

『ワレモノ』の箱の中から、木彫りの彫刻が出て来たのだ。手の平に乗る程のそれは、やたら古そうなことだけが分かる。

そう言えば、亡くなった祖母が随分大切にしていた置物があったが、これだっただろうか。古ぼけて見えるのは、きっと手の脂を吸って変色したからだ。つやつやと表面が滑らかなのは、祖母が慈しむように撫でさすっていたからだ。

丸い背中が思い出される。いつも結宇に向けてくれた、皺に埋もれる優しい眼差しも。

「……おばあちゃ……」

「ワンッ!」

思い出に浸った途端、感傷を引き裂く鳴き声。

さっきは犬への好感度を「普通」と答えたが、今度尋ねられたら「やや嫌い」に撤回しようと考える。

急にどうしたのだろう。一応は番犬として繋がれているのだから、不審者を見つけたのかもしれない。

「誰かいるの?」

窓を開けて小さな庭を覗く。

「ウウゥッ」

鼻先に皺を寄せ、歯を剥き出しにして唸る子犬は、結宇の方を見ていた。

「……?」

だが、子犬が見ているのは結宇ではない。手の中の置物だ。

「ワンッ! ワオンッ!」

「ちょっ、ただの置物だよ」

あまり吠えられると近所迷惑になる。どうやって大人しくさせればいいのだろう。下手に大人しくさせようとして、噛まれたら困る。毛皮の内側から覗く、白い牙は小さいながら鋭い。

「ウウゥッ、ワ……」

咆哮が突然途切れる。潤んだ黒目から表情が消え、一切の動きが止まった。

突然の変化に再び戸惑う結宇へ、細い鼻先が静かに向けられる。結宇と柴犬の視線が、ゆっくり絡んだ。

「お前が我が臣下であるか?」

次いで聞こえたのは……子犬が発したのは、人間の男の声だった。

「は?」

「長らくの魂の守護、大儀であった」

「なっ……」

「汝の名を問おう、我が臣下よ。何者であるか名乗るがよい」

「いや、そっちこそ何なんですか!?」

流暢に日本語を操る子犬を前に、結宇はやっとの思いで尋ね返す。

これは夢ではないか。犬が突然人語を話し始めるなんて、まるでフィクションだ。

ついでにこれが現実だとしたら、子犬を任せてくれた大家に何と言えばいいのか分からないではないか。

「変ないたずらなら止めてください! 迷惑ですよ!」

仕掛け人を探して視線を彷徨わせる。

いてくれればいいと思った。タネも仕掛けもあるならば、目の前の現実にも「なーんだ」と言って胸を撫で下ろせるのだ。

「迷惑とは何だ! かつて雪の大地、北海の荒波を治めた我が力を求めて呼び出したのではないのか! ……ところで」

柴犬はふいに言葉を切り、結宇のつま先から頭までゆっくりと眺めまわした。

「お前、随分大きくないか? 一体どうなっているのだ?」

「……」

同じく『ワレモノ』の箱から出て来た鏡を差し出すと、子犬はぎょっと目を剥き、

「な、なんと! 我はまた犬になってしまったのか!?」

絶望の声を上げた。

よろ、よろ。小さな足で後ずさり、ぽてっと尻もちをつく。それに可愛らしいと思う間も無く、子犬は四肢を投げ出し転がった。目から生気まで無くなっている。

「ちょっと、私の質問は? あんた誰なんですか? 大家さんから預かっている犬に、何してくれてるんですか」

結宇は周囲を見回すが、相変わらず静かなものである。

「我が臣下であれば知っておるだろう? 我が名はスエイニン」

あくまで犯人を捜そうとする結宇の前に子犬が進み出る。そして、自分こそが喋っているのだと主張するように足元に擦り寄った。

「スエ……って何なんです?」

「……ちょっと待て。……お前、術師ヘクスではないのか?」

術師ヘクス?」

「……」

「……」

訝しむ視線がぶつかった。


「……つまり、あなたはノルウェーの古い王様、ということなんですね?」

「うむ」

それだけの情報を聞き出すだけでも、スエイニンがノルウェーをノレグと言ったりするので随分時間がかかった。長らく使っていなかった世界史の資料集や地図帳を引っ張り出して来て、ようやく話が繋がったのだ。

「でも、さっき『また犬に』って言っていたのは?」

「我は古い時代に北海の地を治めていた。しかし崩御の後、どういうわけか獣の姿を得、再び玉座に迎えられたことがあった」

「……犬の姿で、国を?」

「左様。もっとも三年ばかりだったがな。この右手で判を押し、まつりごとの種々を決したものだ」

「それ、右手じゃなくて前足です」

子犬はピンクの肉球を見下ろし、「むう」と鼻根に皺を寄せた。

それにしても、動物が前足でサインをする姿は想像するだけで和むから困る。

「デンマークによるブリテン島の支配、巨大なる北海帝国の瓦解、再びデンマークと我が国の二国連合が持ち直し……目まぐるしい時代の中、有事に備えて我が魂は死後封ぜられ、再びの目覚めを待つことになったのだが……」

子犬は広げられたままの地図帳をちらりと見遣る。

「しかし、極東の島から祖国へ戻ることなく目覚めるとは驚きだ」

「ああ、ここがノルウェーではないことは分かるんですね」

「当たり前であろう」

彼曰く、魂を物に封じた状態で日本に運ばれたことは覚えているらしい。

「魂を捕らえる術はカトリック伝来以前のものだ。我が生まれた……人間だった頃には既に下火でな、カトリックと共存していた神話の神々への信仰も失われつつあった。異端として術を失うことを恐れた者たちは、我を閉じ込めた依り代を遠く異国の地へと逃すことにしたのだ」

子犬は長い夢を思い出すように目を細めた。

「いつ終わるとも知れぬ船旅末、この地に運ばれたものの我を呼び覚ます者は今日まで現れなかった。我も意識が覚醒している時間の方が短くなっていき、時折目を開いて世の変化に驚くばかりであったが……千年ほどの時を経て、再び犬の姿になったことが一番の衝撃だ」

「それは、そうでしょうねぇ」

その境遇には少しばかり同情する。

「もしかして、もともと犬に馴染みやすい性質なんじゃないですか? 以前にも犬に憑いていたようですし」

「そうなのだろうか……」

前足の間に顔を伏せ、子犬は悲しげに鼻を鳴らした。

「……だが我が魂が勝手に器を移動することなどありえぬ。ふむ、お前、もしかしたら術師の血を引いているのかもしれん」

「ええ? さあ、聞いたことないです」

「いや、この際お前の血などどうでもいい」

「どうでもいいって……」

「我が目覚めにお前とこの犬が関わった。それだけが事実だ。そして、それは偶然ではなく必然なのだ。我の魂を揺り動かすものに、偶然などあるはずがない」

子犬はぴんと尾を立てると、可愛らしい足で地面を踏みしめる。首の柔らかな毛が揺れる様は、どことなく、胸を張る動きを連想させた。

「お前が我が臣下ではないというならば、これからしてやるまでだ! このスエイニンに名を明かすがよい! さあ!」

「す、周詞結宇すのりゆう

「スノリか! 良い名だ、『ヘイムスリングラ』を書いた男と同じ名だな! 喋る犬を前に動じない根性も気に入った!」

「いえ、そっちは名字です。ユウが名前です。ついでに言うと、犬が喋るなんて今この瞬間でも信じられません」

ましてや、その正体が大昔の異国の王だなんて。夢物語もいい加減にしてほしいくらいだ。

結宇の内心など構わず、子犬はふんふんと気の赴くままに周囲を嗅ぎまわり、ついでその黒い目で結宇を見上げた。その目は、笑っているように見えた。

「なあに、名前のことは分かっておる! ニッポン暮らしも随分長いからな!」

「さっきほとんど寝てたって言っていたじゃないですか!」

適当な犬、もとい男である。今度は結宇が溜息をついた。

舌を出して短い息を吐きながら、ちょこまか動く小動物の姿であることだけが救いだ。視覚のストレスはかなり少なくなっている。

「だいたい、私は別に臣下になりたいわけではないですし」

臣下ということは、この犬……の中の人物を主人と仰いで、色々世話を焼かなければならないわけだ。

確かに、飼い猫や飼い犬に対し、自身が『飼われている』と称する飼い主は少なくないが、中身がおっさんとあっては話が違う。単純に動物を可愛がるだけならばやぶさかでないのだが。

「ふん、いいのか? 我を放っておいて本当にいいのか?」

「どういう意味ですか?」

「今までそうだったように、我が声は術師にしか聞こえぬ。恐らくはお前にも同じだろう。つまり、周囲の者にとっては、我はただの可愛い子犬だ」

「……」

「可愛い盛りの容姿を生かして、好き勝手にするぞ。思うだけ吠え、その咆哮は我が声となってお前に届くであろう。それに、庭に侵入した者に容赦なく気まぐれに接するぞ?  いいのか?」

「無駄吠えや噛みつきで近所迷惑を振りまこうって魂胆ですか? そっちこそ、保健所送りになる前に身の振り方を考えたらどうで……」

その時、背後でキッと軽い音が鳴った。ゴムとアスファルトの擦れる短い響きは、自転車だ。

「あら? あなたが結宇ちゃん?」

「え?」

思いがけず優しい声に振り返る。メガネをかけた女性が、穏やかな眼差しで一人と一匹を見つめていた。引いている自転車には、通学用らしいフェイクレザーのトートバッグが乗っている。

「えっと……はい、あの……」

「はじめまして。一〇一号室の雪田芙由です。周詞さんから、今日来るって聞いていました」

視線を合わせた親しげな微笑みに、口籠ってしまったことが恥ずかしくなる。

「す、周詞結宇、です。よっ、よろしく、お願いします……」

身内以外とまともに話すなんて、久しぶりだ。店員や近所の住人ではない、同じ屋根の下に暮らす芙由は、それなりの人間関係を築くべき他人だ。

自分の印象を良く見せようと慌てるのは、いつ振りだろう。洋服の裾を払う。ふと、かつてのクラスメートたちの顔が浮かんだ。

「こちらこそよろしくね。チャイロとも、早速遊んでいたのね」

「チャイロ?」

「周詞さんがその子犬のことをそう呼んでいたの」

体毛の色そのままとは、身内ながらなかなか安直である。

「それでね、周詞さんがこの子の名前を好きに付けていいって言っていたんだけれど、私、結宇ちゃんと決めようと思っていたの」

「わ、私と?」

「そうよ。疎開する人が増えて、アパートの住人もすっかり少なくなっちゃったし。折角、これから一つ屋根の下で暮らすから」

ダメかしら。芙由が窺うように首を傾げた。

しかしその表情は期待に満ちており、彼女が結宇の到着を心待ちにしていたことが分かる。

まだ名の無い子犬を撫でながら、結宇の到着を指折り待っていたのだろう。

「あ、お、お気遣い……ありがとうございます……」

その希望を、結宇は裏切れないのだ。

足元から、子犬の勝ち誇った気配がする。

「ふふん。我を保健所送りだと? そんなことがお前にできるものか。こんなに楽しみに待っていた女を悲しませることになるな? できぬだろう? 小市民は小市民らしく、大衆的な『善』に従い小動物を愛でるものだ」

フンフン、フンフン。柴犬は得意気なリズムを鼻息で刻んでいる。

「……」

今は止む無し。芙由のためだ。

でも我慢できなくなったら、大家に返却してやろう。絶対に。

結宇は心に刻む。

「早速だけど、結宇ちゃん、なにか良い名前あるかな?」

「そうですね、えっと……」

「よいぞ、結宇。我が名を告げるがいい。復活の礎、その第一歩だ」

子犬、もといその中に宿る魂の名を知ってはいるが、人の希望通りに名づけを行うのは何だか腹が立つ。

「す」

「スエイニンだぞ、結宇」

「末吉はどうでしょう」

「!?」

子犬が信じられないものを見るように、結宇を見上げた。

「いいわね、可愛い」

芙由は大いに賛成であるらしい。

これで二対一、民主主義的多数決は下された。

「うふふ。よかったわねぇ、末吉。名前が決まったわよ」

自転車を停めた芙由が、しゃがんで子犬を抱き上げる。柔らかな毛を撫で、よかったよかったと繰り返した。

「な、何がよいものか! 救国の主たる我が名をなんと心得るか!」

ワン、ワン!

「結宇ちゃん、末吉も喜んでいるみたい」

「それはよかったです」

「結宇! この不忠義者が!」

続く訴えを結宇は無視する。忠義者になった覚えはない。

一矢報えた。結宇は芙由の目を気にしながら、勝ち誇った眼差しをスエイニンに向けた。

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