スエイニン王の従者

海野てん

第1話 食事の楽しみ

「我が君、今一度お考え直しを」

少女は形振りかまわず膝をついた。

「ならぬ。我の心は既に決まっているのだ」

少女が『我が君』と仰ぐ者は、懇願を一蹴し「くどい」と言うように鼻を鳴らす。

「ですが……」

「ええい! ならぬのだ! 財政がどうなろうと知ったことか!」

遂に、不機嫌も露わに足踏みまで始める始末だ。これはもう、どう言っても無駄だ。

少女は諦めたように頭を垂れたまま立ち上がり、

「ですが、安いのは『わんちゃんまっしぐら』ではないです。『お徳用わんわんもぐもぐ』でしばらく我慢です」

商品棚の中央、『大特価』の大きなPOPが付いたペットフードを二袋、買い物かごに放り込んだ。

「何と言うことだ! せめてソフトドライにはならぬのか!」

絶望の声の主は、そのままコロンと床に転がって全身で不満を表し始める。

「本来ならば、国産素材にこだわった『すくすくドッグ』を所望するところだ!」

ワン! ワン!

「我の妥協を裏切るのか!」

ワン!

吠える度に腹の毛が揺れる。

「そんな高いもの買えるわけないじゃないですか。冗談もいい加減にしてください」

ほら、行きますよ。少女が手にした紐を引く。

その先に繋がれた柴犬は、不満そうに喉を鳴らし「絶対に動くものかと」床に踏ん張っていた。ずり上がった首輪が頬の毛を持ち上げ、愛嬌のあるぶさいく顔を作る。

通り過ぎる客やエプロンを付けた従業員は、その様子にくすくす笑っていた。

「……つまらない意地で笑い者になるつもりですか?」

「む……」

柴犬は渋々立ち上がり、毛に付いた埃を払うように一度身を震わせると、今度こそ少女に従ってレジへと向かう。

「あ、ポイントカードあります」

「いつもありがとうございます」

読み取り機に『ペットショップ・パブロフ』のカードを通しながら、店員が笑顔を深めた。


最寄りのペットショップから徒歩二十分。犬の散歩にはちょうど良いその道程を、買い込んだ荷物と共に歩む。

「いいですか、我が君。今日は芙由ふゆさんのバイトがありません。恐らくはもうアパートに帰られているはずです。絶対に変なことをしないでくださいね」

「何度目だ、その話は。そもそも、我の声はお前以外に聞こえておらぬ。その上失態を犯すなど、このスエイニンにあるはずがない」

「知っていますよ。この前ビール缶を開けようとして、必死の形相で噛みついてたのを。夏菜かなさんたちと騒いでいたから気付いてないと思っていたんですか?」

じっと柴犬を見つめると、誤魔化すように前足で顔を洗った。

「そうですね。そうやって、犬らしい仕草を心掛けてください」

もう帰るアパートが見えてきた。

二階建て合計六部屋、駐車場なし、一階は庭付き。『女性専用』である以外は一般的な共同住宅である。

結宇ゆうちゃん、お帰りなさい」

庭に回って犬小屋にリードを繋いでいると、二つ隣の窓が開いた。

一〇一号室の住人、雪田芙由せったふゆだ。結宇の予想どおり、バイトのない午後をアパートで過ごしていたらしい。

「ふぁ~、末吉もお帰り」

あくびを一つ、背筋を伸ばしながら、芙由はサンダルを突っ掛け庭に下りてくる。

「ふわふわぁ~」

真っ直ぐ柴犬へ近づくと、しゃがんで撫で始めた。

「よしよし、末吉はいいこだねぇ、よしよし」

頭から首に、毛が集まっている場所へと手を滑らせながら丹念に撫でる。

「いいぞ、いいぞ……くるしゅうない……」

クーン……

末吉と呼ばれた柴犬は、気持ちよさそうに喉を鳴らし、間もなく腹を出して転がった。勿論、その無防備な姿が見逃されることはない。芙由の手はいよいよ動きを増して、柴犬の全身をもみくちゃにしていく。

「は~、このもふもふの前にはひれ伏すしかないわ~」

幸福に満たされている芙由。

「……」

結宇は、得意気な表情の末吉を見下ろし、複雑な気持ちになる。

……芙由さん。その犬、中身はおっさんなんですよ。

言うに言えない結宇を知ってか知らずか、

「ははは、我が臣下が一人増えたな」

柴犬はワンワン言って喜んでいた。尻尾はめちゃくちゃな勢いで振られている。

「そうだ、結宇ちゃん。今日はうちで晩御飯食べて行かない? 実家から野菜が送られてきたの」

「いいんですか? ありがとうございます」

祖父母が農業を営んでいる関係で、芙由の元には時折大量の野菜が届けられる。一人暮らしの大学生には多すぎるそれを片付けるために、アパートの住人は一〇一号室の食卓に招かれるのだ。


サツマイモ、カブ、白菜、小松菜。

季節ごとに変化する届け物は、冬が近いことを教えてくれる。

「ねえ、末吉、ちょっと太ったんじゃないかしら」

コンロで沸騰させた鍋を運びながら、芙由が言う。煮立った具が、賛同するようにぐつぐつ音を立てた。

「そうですか?」

食卓の上には椀と箸、レンゲが並び、料理の到着を待っている。

「さっき撫でた時にねー、そんな感じがしたわ」

「じゃあ、餌を少なくしましょう」

からん、からん。犬用の食器に、いつもの半分だけドッグフードを入れる。

「はい、どうぞ」

フローリングを滑らせて食器を差し出すと、柴犬は鼻先に皺を寄せた。

「食欲旺盛な我が身に何たる所業……心ある者の行いとは思えぬ……」

不満気に鼻を鳴らし、餌に口を付けようとしない。皿と結宇とに視線を往復させるのみである。

「あら、餌が少ないって分かるのかしら?」

鍋つかみから手を抜き、芙由は末吉に手を伸ばす。

「食べないと~、大きくなれないぞぉ」

甘やかしている口調で注意しても効果があるはずがない。

まして、中身は人間だ。状況を完全に理解している。

「しかし芙由よ、満たされないと分かっている食事にありつく理由はないだろう?」

キューン……愛情をくすぐる鳴き声に、見上げる潤んだ黒目。

中身はともかく、見た目はふわふわの柴犬だ。

結宇はひっかからないが、何も知らない芙由はあっという間に陥落してしまう。

「んもぉ~……」

芙由は下駄箱の一番上から、犬用おやつを取り出した。

「あっ、芙由さん」

結宇が咎める。

「ちょっとだけ、ね!」

もともと、多すぎない程度に末吉におやつを与えてもいいと約束していた。なので、その行為自体に文句を言うつもりはない。

しかし、そんなに良いものを用意していたとは予想外だった。国産ビーフと野菜をつかった高級品など与えたら、また味を覚えてしまうではないか。

「……! こ、これは!」

案の定、差し出されたキューブ状の塊を口にした柴犬は、ハッと表情を変えた。

犬とはこんなにも表情豊かなのだと、思わず感心してしまう。

「セミドライの野菜……固めた肉はしっとり半生……溢れる旨みはまるで総合芸術!」

ワン! ワン!

尻尾を振り、もっと寄越せとねだる柴犬。

芙由は末吉の届かない高さへ、手にした袋を持ち上げ避ける。

「ダメよ、ちゃんとご飯食べてからね~」

「ぐう……仕方がない! しかし、約束であるぞ!」

さっきまでの抵抗が嘘のように、柴犬はドッグフードを食らい始めた。

「……末吉って、たまにとってもお利口よね。まるでこっちの言うことが分かっているみたい」

「は、ははは……」

……そうなんです、分かっているんですよ。

本音は笑いで誤魔化して、人間二人も食事にありつく。

新鮮な野菜の他にまともな具がないので、小麦粉で練った具を加えたすいとん風だ。肉なり魚なりが無いのは残念だが、結宇も芙由も切らしていたのだから仕方がない。

「締めはおじやにしましょうね、卵入りの」

熱さと美味さに口の中を満たしながら、芙由の提案に頷く。

卵は二人が唯一保存していた動物性蛋白質だ。せっかくの鍋である。最良の方法で料理しなくてはならない。

「ネギも入れましょうね!」

「……!」

口の中が熱くて頭を縦に振るしか出来ないが、大いに賛成である。

柔らかくなった野菜のうま味は今や鍋全体に広がり、小麦粉に味わいを与え、次なる役目を待っている。

そこに加えられた甘い卵には、ぴりっと味を引き締める薬味がなければならない。

「はぁ、家の楽しみの四割は食事って、本当だと思うわぁ」

ひとしきり鍋の中身を減らし、満幅の溜息を溢しながら芙由が言う。

「何ですか、それ?」

「昔の小説家の言葉よ。『家庭なるものの快楽たのしみが十とすれば、少なくともその四は膳の上になければならぬ』ってね。時代背景的には、『料理上手の嫁を貰え』とも聞こえるけど」

「今ならその言葉に納得できそうです」

胃を満たされたこの幸福。

疲れを癒し活力を生み出す行為は、四割以上の価値だと断じてもいいだろう。

「我は十でも構わん」

ワン。

「ふふ、そうね。特に引っ越してきた時の夏菜ちゃんには十だったかもね」

「夏菜さん? ……ああ」

芙由の思い出し笑いに、春の日の出来事を思い出す。


上の階から変なうなり声がすると、芙由が相談を持ちかけてきたのは、まだ四月のことだった。時刻は既に夕方、ビル街の向こうに夕日が沈もうとしていた。

橙を背景に長い影を伸ばす芙由の姿。春の夕暮れが、妙に不気味だったのを覚えている。

「雪田さんの上には、今日新しい人が入ったばかりですが……」

アパートの管理人を任されている結宇は、二〇一号室の住人が今日の昼に入ったばかりだと知っていた。

「……女の人、よね?」

「勿論です! 大学生の方ですよ」

この春、めでたく進学を決めた一年生だと聞いている。

「……でも、誰かを連れ込んでいる可能性はあるかもしれません」

女子専用である以上は、男子禁制。付け加えれば、親族以外の男性はご法度だ。

規約は伝えてあるものの、守るとは限らない。過去にそれが原因で退去に至った住人もいたと聞く。

灯りの見えない二〇一の窓。その中で何が起こっているのか、ここからでは窺い知る術が無い。

「……」

住民を信用していないわけではない。だが、住民の不安を取り除くのも結宇の務めだ。

「すみません、海鉾かいほこさん? ……海鉾さん?」

呼び掛けに応じる声はしない。そして芙由の言う通り、確かに妙な声が聞こえる。

「開けますよ」

合鍵を回すと、ドアはすんなり開いた。

奥へ続く通路は暗く、併設されたキッチンはまだ使われた形跡がない。鈍い銀色に夕日が反射していた。

「海鉾さん?」

ずる、ずる。奥の部屋から何を擦る音が聞こえる。

結宇と芙由は顔を見合わせた。薄暗がりの庭では末吉が吠えている。

「何かあれば、我がすぐに駆けつけてやろう!」

ワン!

その鳴き声に背中を押され、結宇はとうとう二〇一号室に足を踏み入れた。

「!? 海鉾さん!?」

居住空間に続くドアを開けると、目に飛び込んで来たのは床に倒れ伏している女の姿だった。というより、それ以外何もない。部屋の隅にボストンバッグが一つ、それから空になった菓子の空き箱が二つ、所在なげに佇んでいるだけだった。

「どうしたんですか? 海鉾さん、しっかり!」

呼び掛けに女は低い声を上げ、苦しげに顔を歪めた。

「ひ……」

ひび割れた声が何かを伝えようとする。結宇と芙由は力を合わせ、女の体を助け起こした。

「ひ?」

「ひもじい……」

「……え?」

女は一言だけ空腹を訴えると、長い溜息をついて再びずるずると崩れてしまった。

それが、海鉾夏菜(かいほこかな)との出会いである。

引越し便の到着が遅れに遅れ、スーパーで食料を調達したものの調理することができず、かといって荷物を受け取るまでは外食もできず、ただひたすらに待ち続けている間に空腹に耐えかねたというのが、唸り声の原因だったのだ。

慌てて芙由が用意した食事で、飢えを満たす夏菜。生きるために食うとは、正しくあの姿のことだ。


懐かしい思い出にひたる結宇の前で、締めのために卵が割られる。その後の行動に、結宇は思わず待ったをかけた。

「芙由さん、卵は全部溶いちゃうんですか?」

「え、もしかして結宇ちゃん、半分派?」

冷やご飯を落として蓋。再加熱すれば、米は柔らかく膨らみ、後は卵を落とすのみだ。

その卵を、芙由は椀の中でかき混ぜたのだ。その行為は卵を米に万遍なく混ぜ込むことを意味していた。

「それじゃあ、白身が……」

「でも、卵のおじやってこうじゃない? でないと、白いご飯が残っちゃうもの」

「そっ、それがいいんじゃないですか」

黄身を纏わない淡泊な部分。米と白身は、卵の甘みに飽きた時の箸休めに必須である……と結宇は信じている。

「……」

「……」

ぐつ、ぐつ。煮え立つ泡が「どちらでもいい」と言う。

だが、それを食べる二人にはどちらでもいい話ではない。

どちらでもいいのかもしれないが、お互いに何だか譲れない微妙な空気になってしまった。

その時、末吉の耳がぴくっと動いた。

結宇がそれを視界の隅で見留めてすぐ、カーテンの向こうに影が現れ、

「うー……疲れた、疲れたー。開けてー……」

バシン、バシン。影は手の平でガラスを叩き始めたのだ。

「か、夏菜ちゃんってば、もう!」

闖入者を認めた芙由が、慌てて庭に面した掃き出し窓を開ける。

「あっ、良い匂い!」

漂い出た鍋の香りに誘われるまま、夏菜は窓から滑り込んできた。足で脱いだスニーカーが落ちる。

「おかえりなさい、夏菜さん」

「やっぱり結宇もいた! 結宇の部屋の明かりが消えてたから、もしかしてと思ったんだー!」

夏菜は、コートも鞄も我が物顔で芙由の部屋に放り、当然のように食卓に自分の席を作る。彼女が遅くに帰って来た時、特に結宇と芙由が食卓を囲んでいる場合、夏菜はちゃっかり加わってくるのだ。

度々繰り返されるその行いには結宇たちも慣れたものだ。芙由などは、何も言わずに夏菜の分の食器を用意してくれる。

「鍋してたのかー。いいねぇ、季節を感じるよねぇ」

しみじみ。夏菜は卓上の椀から、鍋に溶き卵を注いだ。流れるように行われた所作。止める隙はなかった。

「あ」

「あっ」

じんわり広がって行く黄色を見ながら、結宇と芙由が短い叫びを上げる。

「え? ダメだった?」

卵おじやにするつもりだったんだよね? 夏菜が確かめるように問う。

「い、いえ……」

「大丈夫よ、夏菜ちゃん」

何も知らない彼女に、さっきまでの下りをどう言えばいいのだろう。

何も言えないお互いの姿を見て、相手もどう言えば良いのか分からなかったのだと、結宇と芙由は悟る。

「ああー、いい匂い。ひもじいよぅ。どうしてお菓子ではお腹が膨れないのか」

お玉で鍋をかき回しながら、夏菜がいつかと同じセリフを吐いた。

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