第2話 ―生― 十余一<とお あまり ひとつ>
人は何も持っておらず、知らないことが多かった。
しかし持たないことは身軽であった。
だから人は、広大な陸地のあちらこちらに広がることができた。
そして己が無知であることを知っていた。
だから人は、己を取り囲む全てから学ぶことができた。
やがて、不毛の大地に小さな芽が吹いた。
芽は丸まった背中をゆっくり起こして双葉を広げ、ぐんと伸びをする。
人はそれを見て、慈愛の涙を流した。
その涙は大地にしみ込み、神々が与えた恩恵を溶かしていく。
細くかよわい根が、それを吸い上げた。
茎が伸び、最初の双葉が枯れ落ちた。
人はそれが別れと知り、寂寥の涙を流した。
茎は大地の色を借りて己の体を覆い、人の両腕を真似るように枝を広げた。
人はその姿を面白がり、笑いながら涙を流した。
枝は伸び、濃い緑の葉をつけ、その体躯は神々を思わせるほどに大きくなった。
人は己を見下ろされたことに怒り、悔し涙を流した。
根はいつしか大地深くまで到達し、どんな力にも倒されることはなくなった。
人は、その大きなものを『木』と名付けた。
木は、人に名付けられた最初のものとなった。
人と木は寄り添うように生き、共に成長した。
◇
「こ、こう?」
「ああ、違う。そっちの枝は……」
「きゃあ!」
「だから言っただろう。そっちの枝は細いから折れてしまうと」
「言ってない! 『そっちの枝は』しか言ってない!」
「最後まで聞かずに勝手に登ろうとしたお前が悪い」
「だってぇ」
「
「葵、がんばって!」
「分かった~、また明日がんばる~」
力無く手を振り返す葵に「もう諦めんのかよ!」と木のそばで寝ころんでいた
雫は今、自分がこの村の誰よりも高いところにいることを実感していた。きらきらと眩しい夕日が大きな防塁の向こう、森の木々の間に見え、その光が雫の髪を、瞳を、頬を橙に照らしている。いつもは見えないものが見えるということはなんて清々しいのだろう、そう思っていた。
「籐馬、そろそろ夕飯の支度だよ!」
いくつも連なる畑の向こうから、籐馬の母親の呼ぶ声が響く。
籐馬は声の方へ振り向くと、短く、分かった、と応えるように手を上げた。
高さを確かめるように覗き込んでから、枝を蹴り込み軽やかに飛び降りる。
「ちょ、ちょっと待ってよ籐馬!私、一人じゃ降りられないのに!」
「ああ、そうか。そうだったな」
「しょうがねえなー、おれが助けてあげようかぁ?」
「漉ちゃんはそこに座ってなさい。雫ー! お願い、手伝ってー!」
木の頂で物思いにふけっていた雫に、葵が救援を求める。
雫は器用に手足を動かし、枝や幹を使ってするすると降りていく。葵はそんな雫の姿を見て、以前森の中で遊んでいたオオツギザルの子どもを思い出していた。
「葵、大丈夫?」
「大丈夫じゃない、怖い」
「あはは! じゃあ無理して登らなくてもいいのに」
「だって……」
葵は不機嫌そうに口を尖らせる。
「雫、木の上ですごく楽しそうにしてるんだもの。あそこから何かいいものが見えているんでしょう? 私も見てみたい」
「……そんなに見たいの?」
「うん」
「じゃ、明日もがんばろう。明日は私がちゃんと教えてあげる」
「本当? 籐馬は丁寧に教えてくれないから、ちょっと腹が立ってたの」
内緒ね、と口元に人差し指を立てる葵に、雫は笑いをこらえながら頷いた。
「お前も、家に食べに来るか?」
地面に到達した雫に、籐馬が問いかける。
「え、いいの?」
「ああ。漉も来るって言ってる。良かったら、葵もいっしょに来い」
「じゃあ私、父様に伝えてくる。今日の夕食はみんな籐馬の家でごちそうになるって」
「なら、みんなで一度家に戻ろう。玉髄御前に、食前の禊をしてもらわないと」
「ええ~、もう今日はいいじゃないか。変なところで真面目だな、雫は」
「漉慈は大事なところが不真面目なんだよ」
四人、連れだって歩き出す。葵の肩でひらひらと揺れていたナバの葉が、音も立てずにひらりと落ちた。
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