第9話 永らえる命
全力で、山道を駆け抜ける。
枝が頬をはじいたり、葉で手を切ったりするが、速度を緩めることはしなかった。
息が上がり目の前がチカチカしはじめたころ、視界が開ける。
神社だった。
夕暮れの黒に近い赤い光を受けて、神社はたしかに存在していた。
屋根は朽ち果て、建物の左半分が崩れ落ちている。地面にはなだれを起こした瓦や木材が散乱し、土の色に風化していた。
経年による瓦解だ。
それに、透は安堵を覚える。
消失でも恒久でもない。ただ普通に存在し、普通に時を刻み、普通に朽ちてゆくもの。そんな当たり前のものが今はひどく落ち着いた。
そして、その神社の朽ちかけた階段にアヤカは座っていた。
何事もなかったかのように無傷だった。
スケッチブックに向かって色鉛筆を振るっている。描いて、めくる。村の絵を仕上げているのだ。恐ろしいほどの速度で。
「やめ――」
止めようと声を出しかけたところで、甲高い声が透をさえぎった。
白い、小さいモノが透の足元に近づいてきた。
「あ……」
子犬だった。車に轢かれ、しかし生きていたあの子犬だ。いつの間にかいなくなってしまったと思っていたモノが、今ここにいる。
あのときと少しも変わらない姿で。
思わず透は、一歩退いてしまった。
「不気味、でしょう」
顔を上げる。アヤカが透のほうを向いていた。
「変わらぬ姿で永遠に存在する。根本的にこの世の理と相容れないモノ。それを不快と感じるのは、自然なこと。人間は、自分とは相容れないものを嫌悪するようにできているから」
何も言えなかった。
子犬が轢かれたときと同じだ。いや、反論の余地なく目の前に突きつけられている今の方が、不快感は強い。
これが、スイの力。
「あなたは、誰なんですか」
「誰でもない。ただの化け物」
スケッチブックに何かを描く。
鳴きながら透の足元で尻尾を振っていた子犬が、消えた。
唐突に現れた静寂に、耳が痛くなる。
アヤカを見る。
服は泥にまみれて汚れているが、手足は傷ひとつない。本当に、無傷だ。車に轢かれても無傷だった子犬と同じように。
「あなたも、スイに生み出されたんですね。スイと同じ能力を持って」
そもそも、彼女の姿は透のスケッチブックに描かれていた。あれは、アヤカを生み出したときの絵だろう。スイは生命を、特に人間をいたずらに生み出さない――あるいは生み出せない――と思い込んでいて、今まで気づかなかったが。
「そう。私は、描いたものを生み出すことができる。そして、消し去ることも。スイと同じように」
「やっぱり、スイにも消すことができたんですか」
「うん。でも、よく気づいたね」
透は、さっき拾ったスケッチブックを見せる。
アヤカの表情が、少しこわばる。
「それ、どこに?」
「アヤカさんが落ちた崖下から、少し離れたところです」
スケッチブックを開く。
先ほどまで描かれていたはずの村の絵が消えてしまっている。めくっても、めくっても、白紙か、あるいは風景の断片がかすかに残っているだけ。
「もう全部、消してしまったんですね」
透の声に、隠しきれていない怒気が現れていた。
最後に、アヤカの絵が残った。これだけは、他とは違う色彩画だ。
透の持つスケッチブックのアヤカの絵は、素描だったことを思い出した。
「……消すための絵は、色つきの絵を完成させることですか?」
アヤカはうなずく。
「無から生み出すときは、自分の心の中のイメージを正確に描写する。消すのは逆。目の前の光景を正確に描けば、それは消える」
「最後まで仕上げなかったのは、あとでまとめて消すため?」
「そう。ある程度完成させておけば、あとで仕上げるだけでも消すことはできる。あなたに気づかれる前に、すべて終わらせたかったけど――」
アヤカは、ため息。
「結局、気づかれてしまった」
スイはあの夏の日に、課題の絵を描くことで知らずに村を消してしまったのだ。
そして、村を生み出した。
スイを生み出した理由はわからない。一人で村全部を描くのは量が多かったから手分けした? いや、絵はすべてスイのタッチだった。アヤカのものではない。
とにかく、村を生み出したあとにスイは自分をも絵に封じ、消した。
――違う。
「スイを消したのは、あなただ」
透の持つスケッチブック――村を消してしまったときのもの――その最後のほうのページには、物憂げなスイの姿が描かれていた。
あれは、タッチが違った。
それだけは、アヤカが描いたものだ。
「……うん」
「そして今度は、村を――スイが残してくれた村を、消した」
「そのとおり」
アヤカはしれっと答え、ほほ笑みさえ浮かべる。
両手を広げながら、言った。
「憎い? 殴りたいなら、殴っていい。痛めつければいい。私は死なないし傷つかないけど、痛みは感じるから」
「そんなことしても、意味はないです」
透は気づいた。彼女の嘲笑が、作られたものだということが。
透はスケッチブックを見せる。ほとんど完成している、アヤカの絵だった。
「探してたんじゃないですか、崖から落ちたときになくしたこの絵を」
「……なんのこと?」
「本当は、さっさと村を消すべきだった。僕に気づかれる前に。さすがにあの崖から落ちても無傷なのを見られたら、ごまかせないでしょうから。だから早く、僕が崖を降りてくる前に村を消してしまいたかった。だけど、そうしなかった。なくしたこの絵を放っておくことができなかったから。ギリギリまで探し、そのために絵を仕上げきるのが遅れてしまった」
「――何言ってるの? 私はすぐにあの場を離れたし、村を消すことにした」
「嘘です」
ゆっくりと、息を整える。
「初めて、嘘をつきましたね。案外、下手なんですね。嘘をつくときまばたきが多くなる。スイと同じ癖です」
アヤカは何も言わなかった。
「あのあとすぐに村の絵を完成させていたなら、とっくに終わっているはずだ。子犬も、この神社も、そして僕も、全部消し終わっている」
「――あなたを?」
一瞬、間があった。
やがてアヤカはくつくつと笑い出す。
「何がおかしいんですか」
「もしかして、透は自分もスイに生み出された、と思ってる?」
「――違うんですか?」
アヤカが透の右腕を指差す。
血が流れていた。神社に向かって走ったときに、葉で切ってしまった部分だ。
「君だって、わかってるはず。絵に描かれて生み出されたものは、変化しない。あなたは三年前から体も成長しているもの。変わらなかったのは、傷ついた心だけ」
「じゃあ、なんで僕だけ残されたんですか。おかしいじゃないですか、そんなの」
アヤカは首を振った。
「わかった。話すよ」
アヤカが静かに言った。
「あの夏をもう一度。それが、君との約束だったしね」
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