第6話 繰り返す夏
翌日も、雲ひとつない空が広がっていた。
目線をおろすと、とうもろこし畑が広がっている。
「よく学校帰りに、スイとこの畑で遊んです。追いかけっことかですね。足は僕のほうが早かったんですけど、とうもろこしの茎は背が高いから中に入るとお互いの姿が見えなくなって、単に足が速いから勝つってわけじゃなくなるんです。逆に、スイには負けっぱなしでした」
僕は、思い出をアヤカに語った。
「そういえばスイ、ここで遊ぶたびにとうもろこし二、三本はちょろまかしてましたよ」
彼女は目の前の風景をそのままスケッチブックに描写している。
光の粒子まで閉じ込めているみたいな絵だ。
無数にあるとうもろこしの葉。その表面に合わせてたわむ太陽の形まで正確に描いている。ただの色鉛筆でだ。なぜ数百円程度の色鉛筆で息を呑ませる絵を描けるのか、目の前で見せ付けられている透にもわからなかった。
しかも恐ろしく速い。見る見るうちに、絵は色で埋め尽くされていく。
彼女は自分の絵は『絵』ではない、といった。しかし透は、たしかに感動している。現実に何かが生み出されているわけでなくとも、間違いなく、紙の上には絵という新たな世界が生み出されていく。無から生み出される有。それは単純に、すばらしい瞬間だった。
「ふぅ」
と、彼女はペンを置く。スケッチブックも閉じてしまった。
「終わり?」
「とりあえずは描けたから、仕上げはあとで」
今まで、十数か所を回ってきた。学校、一本松、お稲荷様など、スイとの思い出がある場所だ。そこでアヤカは、絵を描くのにそれぞれ数分程度しか費やしていない。速いのもあるが、仕上げる前にやめてしまうのだ。
いわく、仕上げはあとでやればいい、今は全部見て回りたい、とのことだ。
「じゃあ、今回は追いかけっこか」
「……やるんですか」
「もちろん。では、君が鬼。よーい、スタート」
言うが早いか、アヤカはとうもろこし畑に飛び込んでいった。あっという間に見えなくなる。
アヤカは描く先々で、透とスイの思い出を聞き、そのたびにその思い出を実行しようとしていた。
学校では授業風景を。一本松では木登りを。そしてここでは、追いかけっこをやろうというのだろう。
「透、遅い」
アヤカがとうもろこし畑の中から頭を突き出し、手を振ってくる。淡々とした口調はそのままだが、透の姿を見るために飛び跳ねているあたり、ほほ笑ましい。
「あの人がいちばん楽しそうだし……」
苦笑しながら、透もとうもろこしの茎を掻き分ける。
子どものころはともかく、今は肩から上が出てしまっている。これでは見つかってしまうので、中腰になって体を隠した。
湿った土のにおいが濃い。とたんに、当時の記憶がよみがえってくる。
あのときは、闇雲に捕まえようとしていたから、逆に音でスイに居場所を教えてしまっていたのだ。
だから逆にこちらはそれを聞き分ければ――
「そこだ!」
物音が聞こえたところで、立ち上がる。
日焼けした、いかついおっさんがいた。
「こンのガキが!」
「――やば」
とっさに駆け出す。
「待たんか!」
後ろから聞こえる声。
もちろん待つはずがなく、一目散に畑の中を駆け抜ける。
畑の持ち主の岩田さんだ。子どものころもたまに畑で遊んでいるのを見つかって、ぶん殴られた。この歳で捕まったら、さすがにシャレではすまない。
畑を抜け、茂みを掻き分け、山道に出た。
しばらく走った末に、道端の切り株に腰掛けた。ようやく一息。追いかけてくる気配はなかった。
「……あ! アヤカさんのこと、忘れてた」
「薄情者」
振り返ると、アヤカがいた。透の自転車にまたがって、なぜかスイカをかじっていた。
「え? あ、無事だったんですか?」
「うん。畑に飛び込んだ瞬間、あのおじさんがいたのに気づいたから。荷物回収して、逃げてきた」
「どっちが薄情ですか。気づいてたなら、教えてくださいよ」
「ごめん。教えてたら私が気づかれてた。君なら逃げられると思ってたから、あえて伝えなかった」
「だからって」
「これで、勘弁して」
そういってスイカを差し出してくる。
「どうしたんですか、これ」
「おじさんが君に注意を向けてる間に、横の畑からいただいてきた。包丁はなかったから、石で砕いてみた」
結局、透をおとりにしたってことではないか。
「ひどい……」
だが、悔しいことにちょうど喉も渇いていた。
受け取って、ひとかじりする。果汁が、粘ついた口の中に広がる。みずみずしくて、甘い。
「これで、追いかけっこと野菜泥棒は完了」
「当時も、スイカまでは盗みませんでしたよ。さすがに」
しかし本当においしいスイカだった。家で食べるのとは、格段に違う。
昔も、スイと二人で盗品を食べた気がする。あのときも自分はいさめて、それを彼女は笑顔で聞き流していた。岩田さんには申し訳ないが、ちょっと悪いことしているのが逆によりおいしく感じさせていた。
「ところで、よくここがわかりましたね」
「……さっき言っていたはず。逃げた後はここに集まるって」
「え? 言いましたっけ?」
たしかに子どものころ、野菜泥棒が見つかって岩田さんから逃げたとき、この切り株の場所が集合場所になっていた。だがそのことをアヤカに話したかどうか、はっきり覚えていなかった。
「ほんとに僕、いいました?」
「言った。じゃなきゃ、私はここにこれない」
「まあ、そうですよね」
そんなやり取りをする間に、スイカを平らげる。といっても、採ってきた本人は結局最初の一口しか食べずに、あとは全部透が押し付けられたのだが。
「じゃあ、次に行こう」
「次といっても、もうあらかた回りましたよ。しいて言うのなら、神社なんですけど……」
「けど?」
「そこ、土石流で行けなくなっちゃったんですよ。だから、行けるのはその参道の手前までです」
「そう。まあ、それでもいい。行こう」
透は自転車にまたがり、アヤカは荷台に横のりになった、
いまさらだが、やはりこの格好には慣れない。狭くて話題も乏しいだから、人に見られればあらぬ噂がささやかれるのは間違いない。
「やっぱり降りてもらえませんか?」
「鬼?」
「なんですか、鬼って」
「この炎天下で女性に歩けと言うなんて、鬼畜の所業。スイにも同じことを言ってた?」
スイならば、まさに同じような脅し文句で透をこき使ったに違いない。透は黙ることにした。
地面がむき出しになった坂道を下る。石を踏んで、車体がよろける。アヤカが手を透の体に回し、密着してきた。
「え? ちょ、ちょっと……」
汗で濡れたシャツ越しにアヤカの肌の質感が伝わってくる。
「ま、ま、待ってください! くっつきすぎです!」
「道が不安定。二人の重心を一緒にしたほうが安定する」
「それはそうですけど!」
「それにスイとはやらなかった?」
「やりましたけど……やりましたけど!」
子どもの時分に話であって、相手が年上のお姉さんとなれば別だ。
「ぼ、僕のほうは、その、恥ずかしいんです!」
「大丈夫」
「な、なにが?」
一瞬の間。アヤカの腕にぐっと力が入る。
「……私も、恥ずかしいから」
やっと聞こえるほどの音量でアヤカがつぶやいた。
なぜか透はますます恥ずかしくなる。顔中が熱くなり、自分の心臓の音がうるさく聞こえる。絶対、アヤカにも聞こえてる。
「と、とりあえず言い分はわかりました。山道で、危ないからですね。それなら、わかります。OKです。はい。行きましょう」
心音をごまかすように早口でそうまくし立てて、透は自転車をこぐ足に力を込める。そうすれば異常に高くなった心拍を運動量のせいにできるかもしれない。
「もうじき、終わる」
アヤカがつぶやく。
透もはっとした。神社に行けば、すべて描いたことになる。そうすればこれも終わり。アヤカは消える――もとい、お別れになる。
すっと胸に冷たいものが落ちた。消失への不安とは違う、もっと単純な気持ち。
透の足から力が抜けていった。
そうしながらも、透は疑問に思っていた。
なぜアヤカのほうが、透に付き合ってくれているのだろう。別れを名残惜しむようにしているのだろう。
いまさら気づくが、彼女の体は、水のように冷たかった。さっきから透は汗まみれだが、彼女は汗をかいているようには見えない。動いてるのは一方的に透のほうだとしても、少し引っかかった。
そもそも透は彼女のことをまったく知らない。
――もしかして。
アヤカはスイの幽霊で、成長した姿で透の前に現れた?
思わず笑ってしまった。
この日差しの中で幽霊も何もないし、彼女はそもそも足もあるし影もある。
アヤカは彼女自身が言ったとおり、たまたまこの村を描きにきた絵描きなのだろう。
昨日の晩、彼女自身が語ったように、透のスイとの思い出を通したこの村を描きたかったのかもしれない。今、こうしているのも、絵のため。
そしてまた、どこかへと旅に出てしまう。
「…………」
透の胸に、なんとも言えないやるせなさが募った。
道を覆っていた木々が途切れ、日差しが照りつけてくる。山道が終わった。まぶしさに目を細めた地祇の瞬間、透は急ブレーキをかけた。
アヤカの体が飛び出しそうになる。
「……どうしたの?」
止まるつもりはなかった。
ただ、思わず止まってしまった。忘れていたところで突然それが目の前に現れたから。正確には、目の前に現れなかったから。
「ここも――スイとの思い出の場所、でした」
更地になっている一画。そこは昨日まで商店があった場所だ。
やっぱり、消えたままだ。
あれは夢でも見間違いでもなく、たしかに消えていたのだ。
腹に回されたアヤカの腕に、強く抱きしめられる。
「大丈夫?」
「はい、なんとか」
アヤカの冷たい体温が、透の中で沸き起こる混乱と衝動を収めてくれている。
努めて、ゆっくりと息を吐いた。
「――もう大丈夫です」
どうにか、落ち着いた。
昨日から――正確には、アヤカと出会ってから、透の消失への恐怖はかなり落ち着いていた。少なくとも今日アヤカと回っている間は、不安で取り乱しそうになることは一度もなかった。
「ありがとうございます」
「私は、何もしてない」
一人で来ていたら、また倒れていたに違いない。
もう一度、商店が消えた跡を見る。叩き固められた黒い土がむき出しになっている。
理由はわからないが、たしかに消えている。それをもう一度胸の中でたしかめ、透はハンドルを握る。
「行きましょう」
再び自転車をこぎだそうとしたときだ。
むき出しの地面の上に、何か光るものを見つけた。
それは、硬貨のようだった。三枚の硬貨。二五〇円。なぜあんなところに。消えたときに、お金だけ残して消えたのか。二五〇円だけ? そんな馬鹿な。それとも、消えた商店にお金を払った人がいるというのか。何のために。そもそも、この商店を使っていた人なんて――
村岡さんのことを思い出した。
毎日、決まった時間にタバコを買う人だ。昨日も、消える直前の商店から出て行く姿を見ていた。
彼が、消える直前の最後のお客さんということになる。逆にいえば、消えたことは知らなかったかもしれない。今日もこの商店に来て、初めて消えていることに気づいたのだろう。
そこで、三〇〇円を置いていった。
――どうして?
店が消えたのだ。タバコなんかない。
弔いの意味を込めて、三〇〇円をおいていったのだろうか。
それに、なぜ三〇〇円なのだ。
タバコはとっくに四〇〇円以上に値上げされたと、ニュースで言っていたのに。
「大丈夫?」
あれこれ考えているうちに、神社の前についていた。
「あ、はい。大丈夫、です」
考えてもしかたがない。きっと深い意味もないのだろう。そう結論して、透は考えるのをやめようとする。
それでも、神社に着くまでの間、そのことがずっと頭の片隅に違和感となって残った。
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