第3話  描かれた女性

「暑い……」

 スケッチブックを前かごに入れ、透は陽炎が浮かぶ景色の中、のっそり自転車をこいでいた。

 スケッチブックは常に持ち歩いている。今は透にとって唯一の精神安定剤だ。

 とはいえ、外に出るのはむしろ好きだった。

 消失の恐怖は、逆にいえば確認の安堵をもたらす。村がたしかに存在していることを確かめるのは、透にとって心安らぐ行為だった。

 この村が、スイにつながっているからかもしれない。村のどの風景を見ても、スイとの思い出を探り出すことができる。

 ただし、今日のような炎天下では、そんな余裕もなかったが。

 青々とした稲穂の向こうに、小さく商店が見えた。

 サビが浮かんだ看板には『中根商店』と見える。店からちょうど、村岡さんが出てきたのが見えた。あの人はああやって毎日タバコを買いにきている。この暑い中にもかかわらず、大したものだ。

 もっともそれは、村人全員に言える。暑い日も寒い日も、平気な顔して田畑に出ている。お百姓さんはたくましい。

 透にはとても真似できそうにない。

「死ぬ……」

 頭上からの日光もそうだが、アスファルトの照り返しもきつい。いっそ田んぼの中に落ちれば気持ちいいかも。気持ちいいかも。気持ち、いい……。

 ガタッ――。

「うわっ」

 突然の衝撃に、朦朧としていた意識を取り戻した。

 慌ててハンドルをつかみなおし、自転車を止める。振り返ると、道路に五センチほどの段差があった。

 この村にはあちこちに亀裂や段差がある。公衆用道路としては致命的な欠点だが、それが何年も平然と放置されるほど、ここは田舎なのだ。

「あっ、絵が――」

 自転車のかごからなくなっていることに気づいた。心臓が止まりかける。数メートル先に落ちているのを見つけて、発作が治まった。

 すぐに拾おうとしたとき、道端の草の上に人が座っているのを見つけた。

 若い女性だった。シャツとジーンズのラフな格好で、全体のシルエットが恐ろしく細い。

 髪は長く、後ろにまとめている。じいさんばあさんの白髪頭ばかり見ていた透は、その黒髪に新鮮さを感じた。

 ひざに乗せたスケッチブックに向かって集中していた。

「……スイ?」

 声をかけてから、自分で驚いた。スイ? まさか。そんなはずない。

 はっとして、彼女が顔を上げる。

 ものすごくきれいな女性だった。年齢はよくわからないが、透よりは年上だろう。ガラスのように硬質な視線で見上げてくる。

 全然、スイとは違った。

 急に恥ずかしくなってくる。なぜスイだなんて呼んでしまったのか。絵を描いてる女の人、ってだけじゃないか。

 逃げだしたくなった。

 彼女が、逃げ出した。

「――え?」

 その後姿を見て、透は我に返る。一瞬でわからなかったが、走り出す直前、彼女は無機質な表情のままあんぐりと口を開いたようだった。

 とても驚いたみたいに。

「あの――」

 声をかけようとした瞬間、彼女が倒れる。

 その足元には、村中にある例の段差があった。つまずいたのだ。全身を地面にこすりつける摩擦音に、見ている透のほうが痛くなった。

「……だ、大丈夫ですか?」

 ばさ、と透の足元にスケッチブックが落ちてくる。彼女が転んだ拍子に、持っていたのが飛ばされたのだろう。スイが使っていたものと同じ、A3版のスケッチブックだ。

 なんとはなしに開いてみた。


 意識が飛んだ。


「――あ」

 そう錯覚するほど、卓越した絵だった。

 村の絵だ。村の入り口の六地蔵の絵。山に立つ高圧電流の鉄塔の絵。寂れた中根商店の絵。そして今しがた描いていたらしい、透の家の絵。

 振り返ると、たしかにここから自分の家が見える。スケッチブックと風景を重ねてみると、写真で撮ったように精巧なことがわかる。

 絵は色鉛筆で彩られているようだ。だが、安っぽさは感じさせず、宝石を砕いて絵の具にしたという昔の画家の色彩よりも輝きを放っていた。

「見ないで」

 振り向くと、絵を描いていた彼女が立ち上がっていた。服は砂にまみれて、ジーンズもひざが破けている。

 それには意に介した様子なく、透を見据えて、人間の頭ほどある石を両手で振りかざしていた。

「見ないで」

 同じ言葉を、より鋭い口調で繰り返してくる。

「ご、ごごごめん」

 あわててスケッチブックを閉じた。

 彼女は石を横に投げ捨てる。アスファルトが陥没した。

 唖然とする透の手から、スケッチブックをひったくるようにして奪っていく。

 胸にしっかりと抱え込み、にらみつけてきた。

「……すみません」

 ちょっと見ただけなのにそんな怒ることないじゃないか、と内心思い唇を尖らせる。伺うように彼女の表情を改めて見て、ふと気づいた。

 まさか、と思う。

 だが間違いない。

 毎日見ていたのだ。むしろ初見で気づかなかったことのほうが不思議だった。スイだという思い込みと、そんなことありえないと思っていたせいだろうけど。

 彼女は、スイの絵に描かれていた見知らぬ女性だった。最後の作品の、最後の肖像画の間に描かれていた人だ。

 いったい誰なのだ。そして何のために、この村にきたのだ。そう思って透は口を開きかけたが、

「あなた、何をしてるの」

 先に彼女が質問してきた。

「え、なにって……」

「高校生なのに、平日の昼間にブラブラして。サボり?」

「いや――高校生じゃないですよ。まあ、たしかに年はそれくらいですけど」

「高校生じゃないって……行ってないということ? なぜ?」

 胸が詰まる。さっきから触れられたくないところばかり突いてくる。

「そ、それよりお姉さんこそ、誰ですか。どうしてこの村に――というか、前もこの村に、来たことありますよね」

「…………」

「お姉さんの絵が、うちにあるんです。スイ――僕の幼馴染が、あなたの絵を描いてたんです」

 彼女は、無言で透のことを見つめてくる。

 一瞬だけの沈黙。

 彼女は、視線を外さずきびきびと答えた。

「たしかに。以前、一度だけこの村にいた。もう何年も前だけど、その子に絵に描かれたこともある」

 透は息を呑む。

 彼女なら、わかるのではないか。

 スイがどこへ消えてしまったのかを。

「彼女とは、どういう関係だったんですか?」

「別にどういう関係でもない」

「赤の他人ってことですか。なら、どうしてスイはあなたのことを描こうとしたんですか?」

「そんなこと、どうして私が知っているの?」

 静かな口調だが、たしかな拒絶がこめられていた。

「そんなこと、描いた本人しか知らない」

「彼女は、消えてしまったんです。三年前に。だから、少しでも知ってることがあれば……」

 わずかな期待をこめるが、彼女の表情は変わらなかった。

「とにかく、私はその子にたまたま絵を描かれただけ。それだけよ」

「……じゃあ、なぜあなたはまたここに?」

「人に頼まれて。この村の絵を描いてきてほしい、と。どの道、あなたにも関係ない」

 そういって、彼女は透に背を向けた。道の段差を踏み越えて、離れていく。

「待っ――」

 声をかけようとした瞬間、強烈なめまいに襲われた。

 すぐに、それが違和感だと気づく。

 彼女にではない。もっと別の、大きなもの。

 心がそれを見ることを拒否している。しかし同時に、視界の中からそれを探す自分もいる。

 彼女の背中。流れる黒髪。その向こう。きらめく水田。緑の稜線。雲ひとつない空――。

 何もない、村の風景。

 ――ない。

 そう、ないのだ。

 山との視界を隔てるものは何もない。本来なら、見えるはずだ。現に、つい先ほどまでは見えていた。それが今では、どこにも見えなくなっている。

 商店が消えている。

「……どうしたの?」

 いつの間にか彼女が立ち止まり、こちらを怪訝そうに見ていた。

 だが、透はもう彼女のことは見えていない。

「……消えてる……消えてる……みんな、消えちゃう……」

 ぐにゃり、と視界がゆがむ。

 そして、白くなる。

 透の意識が、白に塗りつぶされた。

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