第2話 消せない少年
暑さにうなされて、目を覚ました。
『今日も、肌寒いくらいの気温です。今週はぱっとしない空模様が続きます。各地では農作物への影響が懸念されていて――』
どこがだ、と透は思いながらベッドから起き上がる。テレビがつけっぱなしになっていて、お昼の天気予報がやっていた。
透は部屋を見回す。
六畳の部屋だ。そのうち三分の一をベッドと棚がしめている。
床と棚には、あらゆるものが散らかっている。服も本も雑誌も鉛筆も消しゴムも萎びた四葉のクローバーもつぶした蚊の亡き骸も、あちこちに置かれていた。ただし、散乱しているわけではなく、むしろ整然としている。
服はすべてたたまれいるがタンスではなく本棚に並べられている。鉛筆は床に転がされているが、ちゃんと長い順に並べられている。つぶした蚊の亡き骸もひとつずつテーブルの端に並べてあった。
無秩序に配置されてるような部屋だが、すべて透の位置から一目で見渡せる位置におかれている。
それらが、寝る前と同じ位置にあることを確認して、透は安心する。
――蚊は、そろそろ捨てないとなぁ。
汗でシャツが張り付いていることに気づいた。部屋の熱気が尋常でない。テレビのチャンネルの上に重ねておいたエアコンのリモコンを取る。テレビはつけっぱなしで消すことはないので、リモコンの土台代わりになっている。
エアコンを最強にして、テレビに目を向ける。
『さて、次の話題です。景気の上向きを受けて人手不足が騒がれる一方で、はじめから働くことを希望しない若者、いわゆるニートが増加しており――』
消そうと思った。だが、『消してしまうこと』そのものにためらいを感じ、しかたなく我慢する。
透はまさに、いわゆるニートで、引きこもりだった。普通なら高校に通って、バイトのひとつもしていい年ではあるのだが、初めてこの村に足を踏み入れてからこっち、一歩も村の外には出ていない。
今は、十年近く顔を見ていない母親からの仕送りで生きている。息子を手放したかいがあってか、かなり出世したようだ。それは振り込み額の推移だけでもよくわかる。
もっとも、それは母の名前の口座から送金されているというだけで、母が実在しているという確証ではない。目に見えないということは、透にとって消えていることに等しい。
消えているものについては、考えたくなかった。
テレビはまだ働かない若者の話題を続けている。透は、枕元のスケッチブックを手に取った。
スイの絵だった。
すっと、周囲の音が、消えた。
これを見ている間は、すべて忘れられる。汗ではりつくシャツの感触も、テレビから聞こえる雑音も、物が見えなくなる=消えることにおびえる心さえも。
今の透は絵の中の風景――三年前のこの村へ戻っていた。
今までスイは絵を何百枚と描いてきたし、そのほとんどは透が保有している。だがその中でも、このスケッチブックの作品集は特殊だった。
スイが消える直前に描いたものなのだ。
A3サイズのスケッチブック三二ページのうち、風景画が二九点、描きかけが一点、自画像二点、肖像画が一点。すべて水彩画だ。
もとは、スイが夏休みの課題として提出するつもりの作品だった。色をつけて絵を描くのは初めてだったらしい。素描だけでも色どころか動きまで見えるほどの描写力があるのだから、たしかに彩色しなくてもよかったかもしれない。
今回は、この村での最後の夏休みということで、カラーに挑戦したのだ。中学校は村の外にあるし、他に子どもがいなかったので透らが卒業すると廃校になってしまう。だから、この瞬間を正確に、永遠に保存できるような絵を残したい――と、語っていた。
たしかに、それは成功していた。透はこの絵を見るたびに、当時スイと駆け回った記憶を鮮明に呼び起こされる。
たとえば、村唯一の商店の絵だ。ペンキがはげてサビまみれになった『中根商店』の看板。ヒビをセロテープで補強しているガラス戸。そこからは寝てるんだか起きてるんだかわからないおばあさんがレジの前に座っていた。寝ていると思って、スイが何度かお菓子をくすねようとしたことがあるが、そのたびに呼び止められていた。
絵の中のおばあさんもまた、気を抜くと声をかけてきそうなほど精巧に描かれていた。
そうやっていくつもの村の風景が描かれている。
だがスケッチブックの最後のほうは少し様子が違った。
スケッチブックの末尾には、神社の絵と三枚の人物画が描かれていた。
神社の絵は、描きかけだった。下書きした絵を八割近く塗ったところで、唐突に中断されている。そして、大きくバツがつけられていた。
普通なら、描いている途中で気に入らなくてボツにしたのだ、と思うだろう。だがスイは、絵を失敗することは一度もなかったし、自分の絵を破棄するほど気に入らないということもなかった。実際、この絵も途中ではあるが完成度は他の絵と遜色はない。
絵の端に、ヘアピンが描かれているのも気になる。手近なものを試し描きしたみたいだ。
次の絵は、風景とはまったく異なる。ふたつの自画像と、見知らぬ女性の肖像画だ。
ひとつ目は、スイ自身の自画像だ。物憂げな表情を正面から描いている。とてつもなく精巧だが、その一方、どこか調和を欠いている気がする。
二つ目は、透が知らない女性の絵だった。年齢がはっきりわからない顔立ちだが、二十代だろう。長い髪のきれいな人で、ガラスのように透き通った表情をしている。これだけが、このスケッチブックで唯一素描のままである。
三つ目が、またスイの肖像だった。こちらには、一枚目に感じた違和感はない。完成された完璧な絵。ただ、タッチが少し違う。いつもの絵より、冷たい印象を感じた。
「スイ……」
透がつぶやいた瞬間、テレビが消えた。
同時に、気の抜ける音を残して、エアコンも停止する。
「……な」
唐突に、胸に銃弾を撃ち込まれたかのような衝撃を受けた。
強烈なめまいに襲われ、思わずベッドに倒れこむ。
消えた。
目の前で、テレビの画面が消えた。
消えてなくなってしまった!
――落ち着けっ。
透は胸を押さえ、必死に言い聞かせる。ただの停電だ。電気がこなくなったから消えた、それだけだ。それにテレビは、消えるものだ。画面が消えたからってニュースキャスターが消失したわけじゃない。日本のどこかでは変わらず存在している。当たり前だ。当たり前のことなんだ。
「……大丈夫だ、大丈夫だ、大丈夫だ……」
自分に言い聞かせながら、ぐっと、スケッチブックを抱きしめる。
たしかに存在する、ごわついた紙の感触。その存在感が透の体に染みていき、だんだんと動悸とめまいが治まっていく。
これが、透をこの村から出られなくさせている原因だった。
透はモノが消えることを異常に恐がってしまう。理屈では、モノがそう簡単に消えることがないとはわかっている。鉛筆を引き出しに入れても鉛筆が消えたわけではないし、リモコンをなくしてもこの部屋の中にあるのは間違いないし、つぶした蚊が土に還ってもバクテリアが分解しただけで質量はこの宇宙に一定に存在している。
わかっているが、それでも恐いものは恐いのだ。
だから寝るときもテレビは消せないし、トイレもドアを開けたままする。そもそも部屋を出るときでさえ、かなりの覚悟と気合いが必要だ。
そして今も、その覚悟が必要とされている。
テレビのスイッチを押してみたら、何も反応しない。停電か、あるいはブレーカーか。
充満していたはずの冷気が、刻一刻と熱に蝕まれていくのがわかる。
「……しかたない」
息を整え、なるべく平静を装って透は部屋を出た。小脇にはスケッチブックを抱えたまま。これをもっていれば多少は不安も和らぐし、あとはスイの唯一のよりどころであるこれが消えてしまう恐怖は致死に値する。
部屋の外は、ねっとりとした熱気に包まれていた。
「ぐぅ」
この暑さだけは、消えてしまっても構わないと思った。
さっそくにじんできた汗をぬぐいながら、台所のブレーカーを操作する。
が、何も反応はない。
どうやらブレーカーが落ちたわけでなく、停電になったらしい。
「……うそ」
額の汗をぬぐう。その腕も汗だくだったので、汗を皮膚に塗りつけただけになった。
粘り気に不快感を覚え、顔を洗うために蛇口をひねる。
「あれ?」
水も出ない。蛇口が咳き込んだような音を立てて震え、飛沫を何滴かだけ飛ばすが、しばらく立つとそれすらなくなる。
そうだ。この田舎には水道なんか配備されておらず、生活用水は各家庭の井戸からポンプでくみ上げている。そのポンプは、電動だったのだ。
停電の今は、水すら飲めない。
飲めないと思うと、急激にのどが渇いてきた。
冷蔵庫を開いても、こういうときに限って何もない。
庭で草むしりをしていたばーちゃんに聞いてみたが答えは、「そんなら我慢するしかねーべ」とのことだった。
しかしばーちゃんはこの炎天下の中で草むしりしていて、顔色ひとつ変えていない。昭和生まれは体のつくりが違うのかも知れない。早めに家に入るように言っておいたが。
休憩するのに冷たい水もなければやってられないだろう。
「……はあ」
炎天下の中、透は自転車を漕ぎ出した。
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