スケッチブックに永遠を

京路

第1話  生み出す少女

 あたりは真っ暗闇だった。

 透は、涙と声をひたすらこらえている。腕の上を何かがかすって、悲鳴が漏れそうになる。それがただの落ち葉だということにも気づけなかった。

 はやくホタルを見つけてお母さんに見せなければ。そうすれば喜んでくれるだろう。また一緒に暮らせるようにかもしれない。

 今、お母さんはおばあちゃんと難しい話をしていた。もうゲンカイとか、ニンチしてくれないとか、お母さんの言ってることはよくわからないが、意味はなんとなくわかった。お母さんは自分をおばあちゃんのところに預けておくつもりなのだ。

 なら、もっと自分を好きになってもらおう。

 そう思って、ホタルを探しにきた。一年前、ホタル園に行ったときは、お母さんも楽しそうに笑っていた。

 おばあちゃんの村にはホタルが出るという話は聞いていた。どこに出るかはわからなかったが、虫はなんとなく山に多そうだからそこに向かった。

 山の茂みの中を進んだが、いっこうに見つからない。日が落ちて、どんどん暗くなっていった。気づいたら帰り道がわからなくなり、すぐに目の前も見えないほど暗くなった。

 そして今は、身動きもできなくなっていた。

「……う、ぐっ……う……」

 これまでの経緯を思い出していたら、寂しさと情けなさとどうしようもなさがこみ上げてきて、こらえていた声が漏れる。

 悪い想像が広がった。きっとこのまま山から出られない。ソウナン、というやつだ。山には猛獣やお化けや人食いヤマンバがいるかもしれない。今、透を狙ってだんだん近づいてきているのかも――

「ねえ」

「ぎゃ!」

 突然声をかけられ、透は飛び上がった。ちょっとだけちびった。

「た、食べないで!」

「うん? 食べないけど?」

 落ち着いた声に、透ははっとした。

 うっすらと見えるシルエットは、透と同じくらい。声も同じくらいの、女の子のものだ。

「あたしはスイ。あんたは?」

「僕は……透」

「じゃあ透。なにしてるの? あ、迷子になって泣いてたんだ?」

 からかうような声でスイが言ってくる。急に恥ずかしくなって、目元をこする。

「な、泣いてない」

「ふーん。ま、いいけど」

「ほ、ほんとだよ! 僕はただ、ホタルを探しにきたんだ!」

「ホタル? それなら沢のほうに行かないと。こっちにはいないよ」

「えっ?」

 衝撃とともに、全身から力が消えた。

 まさか、これだけ苦労したことが、全部無駄だったなんて。

「沢って……どっちにあるの?」

「なんで私が案内しなきゃいけないのよ」

「う、そ、そんな……」

 今度こそ、泣いた。

 女の子に泣かされたみたいでみっともない、なんて考える余裕などなかった。

 スイのほうが、困惑したようだ。

「ちょ、ちょっと……泣くこと、ないじゃない」

「ホタル、いないと、お母さんが、いなくなっちゃう――」

「そう、なの? うーん」

 しばらくうなったあと、スイのほうからゴソゴソと音がした。暗くてまったく見えないが、何かを取り出したようだ。

 シュッシュと、こすれる音がする。

 その小気味いいリズムに、透が顔を上げる。

 女の子が見えた。

 淡い緑の光に包まれ、暗闇の中に浮かび上がっている。

 目を閉じたまま、手を動かしている。

 絵を描いていた。大きなスケッチブックに、見ほれるほどの滑らかさで鉛筆を走らせる。ホタルの絵だ。本物のホタルが紙に生まれたと錯覚するほど、精巧な絵だった。

 と、新たな光源が生まれる。

 宙にホタルが現れ、また少しだけ闇を照らした。

 彼女がホタルを一匹描くたびに、ひとつ光が現れる。

 すぐにあたりは、淡い光に覆われた。

 手を止めたスイが、目を開いた。

 大きな瞳。ホタルの光が叩くたびに、淡い緑色に色を変えていた。その目が細くなる。笑ったんだ。

「やっと、笑ったね」

 そういわれて、自分も笑顔になっていたことに気づいた。

「ほ、ホタル、持ってたの?」

「ううん」

 スイは再び目を閉じて、スケッチブックに鉛筆を走らせる。またしても、見事なホタルの素描が生み出された。

 と同時に、中空に淡い光が生まれる。

「あたし、絵に描いたものを、実際に出すことができるの」

「え? そ、そうなの?」

「うん。目を閉じて、心の中に思い描いたものを描き写すの。そしたら、どんなものでも目の前に現れる」

「すごい!」

 それならお菓子やおもちゃも食べ放題遊び放題だな、と素直に感心した。実際、目の前でホタルを出してくれたし、透は彼女の言葉を疑うことはしなかった。

 だが、賞賛されているスイのほうは、はかなげな笑みを浮かべている。

「これ、他の人に見せたの、透が初めてだよ」

「え? そうなの? なんで?」

「……お母さんに見せるんじゃないの?」

「あ、うん。そうだった」

 興奮して、つい忘れてしまっていた。

「……それと。嫌ならいいんだけど」

 スケッチブックを閉じて、スイは視線を泳がした。わずかに頬が赤くなっているが、透は気づかない。

「あたしと、友達になって、くれないかな。この村、他に子どもがいないの。だから、えっと――」

「え? まだ友達じゃなかったの?」

「うぇ? あ、そ、そうなの?」

 透にとっては出会って話したらもう友達だった。

 透は手近にいたホタルを優しく手の中に包むと、スイに言う。

「じゃあ僕、早くホタル見せに行かないと」

「――待ちなさいよ。帰り道、わからないでしょ」

 スイは透に先立ち、山を降りていった。

「案内してあげる」

「え? いいの?」

「と、友達、なんでしょ?」

 こうして透は、モノを創造するという力を持った少女と出会うことになった。



 透が戻ったときにはもう母はいなくなっていた。

 何のためらいもなく、透を置いて消えてしまった。

 透は泣いた。

 泣きやまない透に、スイは約束してくれた。

「あたしはいなくなったりしないから。ずっと、一緒にいるから」

 そう言って、泣き止まない透を抱きしめてくれた。痛いくらいに力強かった。

 その温かさを透は覚えている。

 彼女が消えてしまった今でも。

 スイも、消えてしまったのだ。

 その出会いから五年後。小学生最後の夏の日に、数十枚の絵だけを透に残して。


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