第6話
アリアスとヨハンは、深く立ち籠める霧を、掻き分けるようにして進んだ。白一色に塗りつぶされた世界をひた進のは、まるで雲海の中を歩いているかのようだった。
触手のように、地面の上を這い回る太い根に足を取られながらも、アリアスはオークの通った後を追っていた。
「おかしい」
息を弾ませながら、背後にいるヨハンがそんな事を呟いた。
「何かおかしな事でもあるのか?」
アルバレイスから殆ど外に出たことのないアリアスは、魔物に関し、一般的な教材の知識しか持ち合わせていなかった。オークの項を思い返して見ても、その凶暴性にだけ少し触れられていただけだった。
「オークの縄張りにしては、広すぎる。基本的に、オークは繁殖期に雌を探す時以外は、縄張りの中だけで生活をするんだ。狩りの時もそう。オークは縄張りから逃げた獲物は決して追わない。縄張りさえ荒らさなければ、襲われることもない。だから、不干渉を貫くことで、人間との共生も成り立っているんだ。これだけの距離を移動して、ルージュとシシリィを浚うなんて事、普通は絶対にあり得ない」
「……絶対にないか。アイツ等を浚って、どうしようっていんだ? やっぱり、食うのか?」
「当然のことだけど、繁殖に人間の女性は使えないから。……たぶん、食料にするつもりなんだとおもう。だから、急がないと」
横に並んだヨハンに頷きつつ、アリアスは足を速めた。
一歩一歩前進していく度に、胸の中に生じる不安が大きくなる。もし、これで二人を助けられなかったらと考えると、気力が萎え、前進する足が遅くなってしまう。目の前に立ち籠める霧は、迷うアリアスの心を表現しているかのようだった。
「……ヨハン。助けられると思うか?」
緊張によりカラカラになった喉を水で潤しながら、アリアスは横目でヨハンを見た。
「助けるんだ。絶対にね」
横にいるヨハン違った。目を細めてしまうほど強い光を湛えた瞳は、しっかりと正面に向けられていた。
彼は、助けられないときのことを考えていない。それどころか、ヨハンの目は未来にだけ向けられていた。アリアスは、未だに失敗したときのことを考えてしまう。漆黒の瞳は様々な方向にブレ、つい後ろを振り返ってしまう。あの時ああすれば良かっただの、こうすれば良かっただの、今となってはどうにも出来ない過去のことを考え、一人後悔の渦の中に飲み込まれる。それが、どれほど意味のないことなのか分かっているのだが、どうしても、ヨハンのように前だけを見て進むことができない。
アリアスには持っていない物を、ヨハンは心の中に秘めているのだ。
北西に小一時間ほどの距離に、オークの巣穴があった。苔むした巨大な岩肌に、大きな穴がポッカリと口を開けていた。
「アリアス、あそこがそうだ。二人を浚ったオークの軌跡は、真っ直ぐあの洞窟へ続いているよ」
「ああ」
周囲に注意を払いつつ、アリアスは木の陰から飛び出し、巣穴の横へ張り付いた。ヨハンの言う通り、それは巣穴と言うより洞窟に近かった。オークが出入りする事もあり、アリアスでも楽に出入りできる大きさがある。このサイズならば、洞窟の中で剣を自在に振り回せるに違いない。
木の陰から駆け出してきたヨハンは、ネコのように柔かな身のこなしで、アリアスの横に辿り着いた。凶手に襲われたときは、あれだけアタフタしていたのに、今は迷いない動きで横に居る。とても同一人物とはとても思えない。
「お前、こういうの慣れているのか?」
「人間は切ったことないけど、魔物なら何度も相手にしている。アリアス、オークは傷みに鈍感なんだ。だから、手や足を切っても効果は薄い。狙うなら、頭を狙うべきだ」
「さっき、効果が薄いことは身に染みて感じたよ」
先ほど交錯した際、骨に達するほど深く斬りつけたが、オークは痛がる素振り一つ見せず、アリアスを弾き飛ばしたのだ。二度目はないと、自分に言い聞かせたアリアスは、中の様子を伺おうと耳を澄ませるが、何も聞こえてこなかった。
洞窟の入り口からは、腐敗臭に似た異臭が、生暖かい風に乗って這い出してくる。
深呼吸をし、胸の動悸を沈めたアリアスは、意を決して洞窟の中へ入ろうとした。しかし、そこにはすでにヨハンがいた。彼は体制を低くし、壁に張り付くようにしながら、ジリジリと奥へと進んでいた。
(おい! 先に行くな!)
小声で怒鳴りながら、アリアスはヨハンに追いついた。
洞窟は緩やかな下りとなっており、至る所から湧き出る水が足下を滑りやすくしていた。薄暗いククルの森から入ってくる光は少なく、洞窟の中は歩きづらい。光が届かなくなり、洞窟が深淵の闇に飲み込まれた時、遙か前方で光が見えた。
「松明、あそこにいるのか」
松明の光を頼りに、アリアス達は洞窟の中を進む。異臭が強くなり、物音が洞窟の中に響き始めてきた。話し声と言うよりも、唸り声に近いオークの会話は、壁に反響してワンワンと鼓膜を振るわせた。
松明からほど近い所で足を止めたアリアスは、明かりにより明確になった足場を確かめつつ、ゆっくりと近づいた。
松明のすぐ横には、大きな穴が口を開けていた。呼吸を止め、気配を消してチラリと中を覗いたアリアスは、ハッと息を飲んだ。
洞窟の中には、十匹近くのオークが生息していた。中には子供と見られる小さいオークや、雌のオークも数匹混じっていた。大きな部屋の中央には火が上がり、その脇には半裸状態のルージュとシシリィが横たわっている。
二人とも意識があるようで、恐怖で引きつる顔を燃えさかる炎へ向けていた。
「良かった、無事みたいだね」
ひょっこりと、頭の上から顔を出したヨハンは、二人の無事を確認してホッとした様子だった。しかし、喜んだのも束の間、オークの群れの中から二人を助け出す難しさに、唇を噛み締めた。
こちらの手数は二人だが、ヨハンは正直使い物にならないだろう。しかし、彼がここにアリアスを導いてくれただけで、ヨハンの役目は終わったと言っていい。後はアリアスの仕事だった。
手持ちの道具は、剣が二振りと、攻撃に使える魔晶石が一つ。やることもやれることも、決まり切っていた。生きている二人を確認した今、選択の余地は無かった。
「良いかヨハン。俺がオーク達を引きつける。オークの注意が俺に向いたら、二人を助けてやってくれ」
「一人で大丈夫なの?」
「全部を倒すわけじゃない。お前が二人を助けたら、俺も逃げるつもりだ。正直、お前を守れる余裕もなさそうなんでな。ミスるなよ」
アリアスの言葉に、ヨハンは素直に頷いた。
頷き返したアリアスは、ここに導いてくれたヨハンに感謝の意を込めて、肩を叩いた。
「行ってくる」
そう言って立ち上がったアリアスは、剣を両手に携えると、オークの集団へと躍りかかった。
「ハァァァァー!」
叫び声を聞き、オークが一斉にこちらに向き直る。アリアスはジャンプすると、一番手前にいた雄のオークの頭に剣を振り下ろした。確かな手応えと共に、目の前でオークの頭が潰れる。オークの肩に足を掛け、すぐさま別のオークに斬りかかる。
一対多だが、勝機はあるはずだ。相手が体制を整える前に、出来る限り多くのオークを屠る必要があった。
目にも止まらぬ早さで、二体目のオークを切り裂いたアリアスは、錆びた剣を振り上げ、襲い来る雌のオーク目がけて、剣を投げつけた。剣はオークの右目に突き刺さり、そのまま巨体が炎の中へ崩れていく。
「三体!」
洞窟の中を走りつつ、リングに嵌った魔晶石に指を走らせた。巨大な火球が左手に生じ、アリアスは近づく二体のオークに向けて放った。大きな爆発が起こりオーク二体を飲み込むが、倒す事は叶わない。黒こげになりながらも、オークはアリアスに向けて突進してくる。
「アリアス!」
「アリアスさん!」
二人の声が、アリアスを奮い立たせた。不安と戦いながらも、自分の意志でここにいる。その事が、アリアスに生を実感させた。今まで死んだように実行してきた親の命令とは違い、此処には命が、光が溢れていた。
視界の隅に横たわるルージュとシシリィ。その二人にヨハンが駆け寄るのを、アリアスは確認した。
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