第4話
チロチロと、弱々しい炎が目の前で燃えている。
ヨハンは昨夜作った兎の燻製を炙りつつ、口に運ぶ。いくら噛み締めても、なんの味も感じられない。燻製独特の煙臭さも甘みもない。まるで、板のゴムを囓っているかのようだ。
「良いですよ、ヨハンさん。止血はすみました」
出発時に支給された救急キットを使い、手早くシシリィは肩に受けた傷を処置してくれた。ヨハンの血を見て顔色は悪いが、それでもシシリィは気丈に笑みを浮かべてくれていた。
「ありがとう、シシリィ。君も食べるかい?」
「いえ、私は結構です。木の実を食べますから」
そう言って、シシリィはルージュの横へ戻った。
時刻は正午を少し回った時分だ。木々に覆われ空は望めないが、今頃太陽は最も高い場所に位置しているのだろう。外の世界は光に溢れているのかも知れないが、ククルの森は相も変わらず深い霧と薄闇で覆われていた。
食事を取っているのはヨハンとアリアスだけだった。ルージュとシシリィは、やはり昨夜と同じように「兎なんて食べられない!」と言い、木の実を口に運んでいる。あんな食事で後二日間持つのだろうかと思ったが、無理矢理二人に食べさせるわけにも行かず、ヨハンはアリアスと二人で食事を進めていた。
「………」
温くなった水で肉を胃の中に流し込む。
先ほどの出来事を思い出しただけで、悪寒が背筋を上ってくる。とても、食事を取る気分には慣れない。
『お前は温すぎるんだよ』と、ヨハンの弱さを嘲笑う心の声が聞こえてくるが、それを認めることはヨハンには出来なかった。襲いかかってきたとしても相手は人間だ。話も聞かず、問答無用で殺す事は出来ない。もっとも、話を聞いた所で、ヨハンに相手を殺せるかどうかは別問題だが。
先ほどの興奮が未だ冷めず、あの時の恐怖が頭にこびり付いて離れなかった。
ショックを受けるヨハンに対して、他の三人はどうだろうか。アリアスは、いつも通り黙々と肉を囓り、ルージュとシシリィは笑顔で雑談を交わしながら木の実を口に運ぶ。それは、先ほど人を殺したことなど無かったかのような雰囲気だ。
ヨハンの視線に気が付いたのか、ルージュが木の実を口に運ぶ手を止め、こちらに非難の眼差しを向けてくる。
「ヨハン、貴方それでも男なの? 情けないったらありゃしないわ。市井の出だから、ああいう野蛮なことは得意かと思っていたけど、それすらまともに出来ないのではね。本当に使えない奴ね!」
「ゴメン。人間とは戦ったこと無いんだよ」
「気にしなくてもいいですよ、ヨハンさん。ヨハンさんが戦闘で役に立たないのは、予測の範囲(カテゴリー)でしたから」
「……重ね重ね、ゴメン」
シュンッと項垂れるヨハン。ヨハンは、チームのためになんの役にも立っていない。武家と言う事もあり、アリアスは剣の腕、魔晶術の扱いに掛けては超一流と言っていいだろう。ルージュは口も悪く性格もきついが、冷静で頭の回転も速い。彼女の魔晶術を組み合わせた弓術は、恐ろしく強力な武器だ。オットリしているが、シシリィは博識強記であり槍術も一級品だ。そして何よりチームのまとめ役でもあり、いつの間にか皆から頼られる存在となっている。
それに比べ、自分はどうだろう。故郷にいる時は、自分は何でもこなせると思っていた。事実、故郷でヨハンは大人以上の仕事をこなせたし、皆からの信頼も厚かった。だが、此処ではどうだろう。ヨハンは何も出来ない事をアピールし続けることしかできない。
項垂れるヨハンに、アリアスは「くだらねー」と呟きそっぽを向く。ルージュもヨハンには呆れている様で、視線すら合わせてくれない。
「ヨハンさん、気を落とさないでください。私達、貴族は暗殺者に狙われることは、決して珍しくないんですよ。だから、私達は武術に秀でているし、いざというときの覚悟も出来ているんですよ」
シシリィはお下げを弄りつつ、優しく微笑んでくれる。横では、「貴族だからって、安全で毎日ノホホンと暮らしてるわけじゃないのよ」とルージュが、付け加える。
「……うん。役に立たなくて、ゴメン」
もう一度、誰にともなしに謝ったヨハン。
パチッと焚き火が爆ぜる。火が巻き起こす微かな風の音が、やけに大きく聞こえてきた。お昼を過ぎ、更に霧が濃くなったククルの森は静寂に包まれていた。
「さて、そろそろ行きましょうか」
立ち上がったシシリィが火を消した時、ヨハンはあることに気が付いた。
「待って!」
鋭く叫び、ヨハンは周囲を見渡す。霧に包まれたククルの森。視界が効くのはほんの十メートルほど。それから先は、真っ白な霧に飲み込まれている。
「どうしたのよ?」
リュックを背負う手を止めたルージュは、怪訝な表情を浮かべてアリアスに確認するが、アリアスも何も感じていないようだ。
「森が、静かすぎる……。今はお昼を少し回った頃だ。それなのに、静かすぎる。鳥の鳴き声も、猿の声も聞こえない」
「そう言えば、そうですね~。今まで、ずっと騒がしかったですものね」
ザワザワと、鳥肌が立つのを感じる。人ではない何かが、この場に近づいてくる。それも、もの凄い勢いで。
ヨハンの予感が的中したのか、突如として森に轟音が響き渡った。地面を踏みしだくその音はみるみる大きくなり、木々を薙ぎ倒し倒木を踏み砕いてくる。
「来る! オークだ!」
迷うことなく腰からナイフを抜きはなったヨハンだったが、他の三人の反応は、先ほどとは比べものにならないほど緩慢な物だった。
「お、お、オ、オークゥ? ちょっと! どうして魔物が襲ってくるのよ!」
「知るかよ! ヨハンに聞け!」
「え、え、え? オークって、何が効果的なんでしたっけ!?」
その時、目の前にあった木々を薙ぎ倒し、霧の中から鼠色の肌をしたオークが姿を現した。一体、二体、三体、四体と、霧の中からオークの一団が押し寄せてきた。ずんぐりむっくりした巨大な体に、小さな頭。体とのバランスが取れないほど巨大化した腕には、棍棒や錆びた大剣が握られていた。
「クソッ! みんな! 逃げて!」
オーク。それはアルビスが生み出した、人に似せた魔物だった。ただ、似せたと言っても五体があるだけで、他は似ても似つかなかった。毛が数本しか生えていない頭に、まん丸な瞳、つぶれた鼻に、横に広がった巨大な口からは、卒倒しそうな異臭が放たれている。
「逃げろって! 此処ではぐれたらアウトじゃない!」
反論しながら、ルージュは弓をつがえた。
「仕方ねー! やるぞ!」
剣を抜きはなったアリアスがオークに斬りかかる。流石アリアスという所だろう。オークの分厚い皮膚を切り裂き、肉を断つが、それでもオークの突進は止まらなかった。薙ぎ払う腕でアリアスを弾き飛ばし、更に突進を続ける。その先には、槍を構えつつも、どうにも動くことの出来ないシシリィがいた。
「シシリィ! 逃げるんだ!」
ヨハンの足が動いた。それとほぼ同時に、ルージュが一本の矢を番えた。
「私に任せなさい! シシリィ!」
四つのビットが展開され、照準をオークの小さな頭へと合わせる。ルージュが矢を放つ瞬間、オークが薙ぎ倒した木々が地面に崩れ落ち、轟音と共に風を巻き起こした。そよ風程度の風だったが、その風に乗り長い髪が矢と光り輝く弦に絡みつく。
「見てなさいアリアス、私の弓は、絶対に狙った獲物を外さないんだから!」
シシリィに襲いかかるオークに向け、矢が放たれた。弦に巻き付いた髪がぷつりと途切れ、宙へ舞う。
ビットを通過した矢は勢いと輝きを増し、オークの小さな頭に吸い込まれた。と思った瞬間、矢はオークの頬を掠り、深い霧を切り裂いていった。
「キャアァァァ!」
シシリィの声が響き渡った。オークはシシリィを小脇に抱えると、来た時同様、凄まじい勢いで霧の中へ走っていく。
「待て!」
ヨハンが追いかけようとした刹那、別の所からも悲鳴が上がった。
「ルージュ!」
全身を強打し、起き上がることもままならないアリアスが叫ぶ。オークはシシリィ同様、ルージュを小脇に抱えると、ヨハンとアリアスには目もくれず、元来た道を引き返していった。
それは、嵐のような一瞬だった。狂戦士と化したオークの集団が襲いかかり、ルージュとシシリィを連れ去ってしまった。
シャーロックでも、初春はオークの被害が出るが、今回のような出来事は初めてだった。繁殖期でもないこの時期に、何故オークはヨハン達を襲ったのか。いや、オークはヨハンとアリアスになんの注意も払っていなかった。オークはルージュとシシリィを狙ったのだ。
呆然と立ちすくむヨハン。
『また、何も出来なかったな』と、心の声が聞こえてきた。ヨハンはその声に小さく頷くと、「僕は、何も出来ない」と呟き、力なくその場に両膝を付いた。
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