第2話

 王都アルバレイスから続く平原は、すでに初夏の香りが漂い、太陽が顔を覗かせれば汗ばむほどの陽気だった。変わって、ククルの森は薄暗く、何処からか冷気が這い出してくるかのように肌寒かった。


 ククルの森は王都に近いが、殆ど人の手の入っていない原生林であった。と言うのも、ククルの森に生える木々は、不思議とねじ曲がってしまい、木材として使用できる代物ではなかった。そして、ククルの森にいる魔物の影響も大きかった。


 アルビスは、先兵として様々な魔物を作り出した。長きにわたり続けられた魔晶戦争も人間の勝利で幕を閉じたが、アルビスの生み出した魔物はアルビスが滅びても存在し続けた。


 ドラゴン、オーク、オーガ、フェアリーなど、様々な魔物が世界中に散っており、独自の生態系を構築して生き延びていた。


 ククルの森の支配者と言えるオークは、初春の繁殖期になると凶暴になるが、それ以外は森の奥深くでヒッソリと暮らしており、人間がちょっかいを出さない限り害はない。


 広大な面積を持つククルの森は資源には乏しいが、森から湧き出る水はアルバレイスや草原を潤し、様々な作物をもたらしてくれる。そして、ククルの森はそれだけで自然の要害となり、敵の侵入を塞いでくれる役割を果たしていた。


「………こっち、ですね」


 コンパスと地図を頼りに、先頭を行くシシリィが先を指し示す。


 人の手が入っていないと言っても、そこは王都の横に存在する森である。森を横断する道は幾本もあるが、そのどれもは獣径(けものみち)と言っても何ら問題ない道であった。


 ルージュは額に浮かぶ汗を袖で拭いながら、道をふさぐ巨大な木を乗り越えた。


「ねえ、シシリィ。もう半分くらい来たかしら? 流石に疲れてきたわよ」


「いいえ、まだ、三分の一も歩いていませんね。でも順調ですよ。このペースなら、日暮れ前には森を抜けられるはずです。全て予測の範囲(カテゴリー)です」


 その言葉を聞いたルージュは渋面を作る。顔の周りを飛び回る小蠅も、この森を鬱陶しくさせる一因だった。


 見上げてみるが、そこに広がるのは青空ではない。毛細血管のように枝葉を伸ばした木々と、うっすらと立ち籠める霧により視界は至って悪い。


 ククルの森に入って、三時間が経過しようとしていた。


 草原はカラッと晴れていたと言うのに、ククルの森に一歩足を踏み入れた時から、まるで人を遠ざけるかのように霧が漂い始めた。霧は奥に行くほど濃くなり、木々はもちろん、身につけているマントや髪まで霧により濡れていた。


「凄い大きいね! 初めは細くねじ曲がった木しかなかったけど、此処まで入ってくると、僕達が手を繋いでも抱えられそうにないほど大きな木があるんだね」


 アリアスの後に続いて、ピョンッと大木を乗り越えてきたヨハンは、面白い物を見るかのようにキョロキョロと周囲を見渡している。


「………」


 ルージュは、無言で笑顔を浮かべるヨハンを見る。昨夜、彼は落ち込んでいたようだったが、朝起きるといつも通りの元気を取り戻していた。貴族と違い、市民は心の頑丈さが違うのだろうか、それとも、単にヨハンが物事を気にしない人物なのだろうか。


「森に入って何時間経過していると思ってるのよ。まったく、良く飽きもせず、新鮮な感動を味わえるわね」


「え? ルージュは何も感じないの? これだけ大きな木があるんだよ? シャーロックは冬が厳しいから、これだけ大きな木は育たないんだ。これを薪にしたら、一体何年分になるんだろう」


「薪って……ったく、何処までも田舎者ね」


 溜息をつくルージュの横に並んだシシリィは、手袋をした手でメガネを押し上げる。


「ヨハンさん、これだけの大木があるのは、世界広といえど、このククルの森だけなんですよ。いくら南の温暖な場所に行っても、此処以上の大木が育っている場所はありません」


「え? どうして?」


 シシリィの話は、ルージュも初めて聞く内容だった。アリアスも同じようで、「そうなのか?」と、腕を組んで先を促していた。


「ここは魔晶戦争の時代、最も激しい戦いが行われた場所の一つでした。その際、アルビスを初めとする魔物達が様々な魔晶術を用い、この土地を人ではなく、魔物の住みやすい土地に変えたと言われているんです。魔物達は此処を前線基地として、幾度も人間に戦いを仕掛けたらしいです」


「これが、魔晶術で?」


「ええ、魔物の魔晶術は、私達人間のそれとは威力もスケールも桁違いですから。その魔物を相手に、勝利を収めた先人達の努力と犠牲に、私達は感謝すべきかも知れませんね」


「なるほどね。確かにシシリィの言う通りかもな。一年中、ここは霧に覆われているって言うし。未だにオークもウジャウジャいるって話だ」


「オークね。まさか、出てこないでしょうね」


 肩に掛けた弓に触れつつ、ルージュは不安そうに辺りを見渡す。人外の魔物、オーク。人に似せて創造されたと言われるその生物は、凶暴で知恵らしい知恵も持たないと言われている。筋骨隆々の体に小さな頭、手には棍棒を持っているという、典型的なイメージを抱いているルージュだが、実際は近からず遠からずと言った所だろう。


「大丈夫だよ。オークの繁殖期は、もう終わっているからね。オークも人間を襲うようなことはないよ」


「そう、なら良いけど」


 ホッと胸を撫で下ろしたルージュは、顔の周りを飛ぶ小蠅を手で追い払った。


「何よ、この虫、さっきからウッザイわね」


「汗臭いんじゃないのかな?」


 アッケラカンと言いつつも、ヨハンも顔の周りを飛ぶ蠅を追い払っている。


「汗臭い!? レディーに対して無礼千万ね! ……でも、確かにお風呂入ってないからな」


 ヨハンに指摘され、不意に体臭が気になりだした。言われなければ別に気にする事もなかったが、一度気にしてしまうと、どうしても気になってしまう。ルージュはクンクンと鼻を鳴らして匂いを嗅いでみるが、自分の匂いを自分で判別するのは難しい。


「くだらねーな」


 どうでも良いとばかりに吐き捨てるアリアスを睨み付けつつ、ポケットから取り出したハンカチで汗を拭った。


「ルージュさん、良かったらこれを使ってください」


 横でシシリィの声が聞こえたかと思うと、不意に甘い香りが森の中に広がった。


「シシリィ、その小瓶、もしかして香水?」


 見ると、シシリィの手に可愛らしい小瓶があった。親指ほどの大きさの小さな小瓶には、ピンク色の美しい液体が揺れていた。


「はい。持って来ちゃいました」


「偉い! 女の子の鏡! やっぱり、何処行く時もお洒落は必要よね」

 シシリィから小瓶を受け取ったルージュは、手首に数滴香水を垂らすと、それを擦り合わせ首筋に付けた。


「うん。良い香り」


 まるで、体に薔薇の花束を纏ったかの様な気分だった。余計な物は全て没収されるこの試験に、香水を忍び込ませるとは、シシリィは思ったより話の分かる人物なのかも知れない。


「おい、香水も良いけど、少し黙れ」


 突然、鋭い声がアリアスから発せられた。「何よ!」と眉を吊り上げたルージュだったが、真剣なアリアスの表情を見た瞬間、事態を悟った。すぐにシシリィの腕を掴むと、アリアスの元へ用心深く戻る。


「ん? どうしたの、二人とも」


「アリアスさんも、ルージュさんも、怖い顔してどうしたんですか?」


 暢気な二人の言葉に、返事はなかった。


 アリアスは右手を剣の柄に置き、ルージュは弓を左手に、矢を右手に持っていた。


 いつの間にかルージュ達は囲まれていた。殺気をみなぎらせたこの気配は、獣でもオークの物でもない。人の気配だ。


(やっぱり、来たわね)


 胸中で舌打ちをしたルージュは、横にいるシシリィに心の中で謝罪を述べた。ルージュと同じ班と言う事は、シシリィも危険に晒されると言う事だ。彼女は、ルシフルとは全く関係のない人物だ。彼女を巻き込んでしまった事は、ルージュの心に小さな罪悪感を生じさせた。


 周囲に気を配りながら、ルージュはヨハンの様子を伺う。彼はまだ自体が把握できていないようで、キョロキョロと不思議そうに周囲を見渡している。


「ねえ! みんなどうしたのさ!」


 イラッとした物を感じながらも、ルージュは頭の中でヨハンを切り捨てた。この苛つく気持ちの元凶を生み出すヨハン。彼がどうなろうと、知った事ではない。


 その時、森が揺れた。けたたましい音を立て、木の陰からいくつもの影が飛び出してきた。


「来たぞ!」


 アリアスの声が響くのと、彼が剣を抜き放つのがほぼ同時だった。

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