3章 黒い太陽
第1話
アルバレイス学園の学園長、マーリーンの執務室は、この学園で最も作りの良い部屋の一つだった。
毛足の長い赤い絨毯に、重厚で深みのある色のオーク材の家具、壁は様々なタペストリーで彩られている。南向きの壁には大きなガラス戸が三つあり、そこからテラスへと出る事が出来た。
マーリーンが学園長となり、すでに二十年近く経過していた。彼女は毎朝執務室に香を焚くの日課としており、一日として怠ったことがない。その日の気分や天気により、様々な香を選び、それを焚く。ほんの些細なことだが、マーリーンはその事を何よりも楽しみにしていた。
ファーガスは、マーリーンが香に火を灯すのを眺めつつ、その作業が終わるのを待った。待つ事ほんの二三分。香炉の蓋をして、マーリーンは机の前に立つファーガスを見上げてくる。
「初日はどの班も無事に過ごせたようです」
「そうですか、それは良かった」
大きな机に肘をつきながら、マーリーンはニコリと微笑んだ。彼女の脇には、火を入れたばかりの香炉が置かれており、そこから白い煙が立ち上っている。今日の香は沈香のようだ。深みのある上品な香りが、部屋の中に優しく広がる。
「ルージュさんのいる班は、どうなりましたか?」
「ビヨンド様からの報告によると、貴族派の動きは何も確認できなかったとのことです」
ファーガスは、手にした資料をマーリーンの前に置く。彼女は少女のように目を輝かせ、それを手に取る。ファーガスよりも、一回りと少し年上の女性が見せる笑顔ではなかった。五五歳と言う年齢を知らなければ、まだ十代後半の少女と言っても通じてしまうだろう。
「これ、ルージュさんの班のメンバー表ですね。これがどうかしましたか? この班分けには、私達の手が加えてありますが」
上目遣いにこちらを見上げてくる表情。それは、ファーガスがまだアルバレイス学園の学生だった頃、新任教師だったマーリーンと何一つ変化していなかった。変化したのは、マーリーンの髪型と服装と立場、そして、自分が年を取り禿頭になってしまったことぐらいだ。
「ヨハン・クルロックを見てください」
資料を何枚かめくり、目的の物を見つけたマーリーンは、ヨハンの適性試験と略歴に目を通した。
「フフフ、面白い子ですね、このヨハンという少年は」
「まあ、確かに面白くはありますね。貴族出身の悪知恵だけが働く馬鹿共を相手にするよりも、よほど面白い」
一昨日、図書室で会ったヨハンを思い出し、ファーガスは頬を緩める。
「しかし」
ファーガスはいったん口を噤むと、険しい眼差しをマーリーンに向けた。
「ヨハンの後見人。何故、この方がヨハンの後見人を引き受けたのでしょうか」
ファーガスが示したのは、略歴と一所に添えられている推薦状だ。この推薦状は、受付から直接ファーガスの元へ送られてきたため、ビヨンドを初めとする軍部の者もヨハンの後見人を分かっていない。
「フム……、この後見人に、何か問題でも?」
「後見人は、ただ判を押すというわけではありません。生徒の責任者となり、生活面でも、金銭面でも、保証することになっています」
「もちろん分かっています。その点に関しても、私には何ら問題のない人物だと思いますが?」
マーリーンは、再び同じ事を尋ねてきた。同じ天然と言えば、ヨハンにも引けを取らないだろう。ただし、こちらは天然だが、恐ろしいほど頭が切れる。
「この方で、問題はないと言うんですか?」
「問題はないと判断します。誰が後見人であれ、試験には関係のないことですから。アリアスさんとルージュさんを組ませることは、私達が手を回しましたが、シシリィさんとヨハンさんがこの班に入ったのは、果たして偶然か必然か。それは少し気になります……」
資料を机の上に投げたマーリーンは、組んだ手の上に顎をちょこんと載せた。目の前を漂う煙の帯を、フッと息を吐いて掻き消す。机の上に広がる資料には、ヨハンとシシリィの調書が置かれていた。
「問題は、もっと別の事でしょうね」
「貴族派の動きですか。彼らがこのままルージュを見過ごすとは、到底思えませんな。やるとしたら、今日からでしょう。二日目は、ククルの森を抜けることになります。人目の付かないあそこでは、事を起こすには、うってつけの場所ですから」
まだ低い位置にある太陽から光が差し込んでくる。徐々に勢いをます光は、ファーガスの影を伸ばし、赤い絨毯に黒い傷を作った。
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