第8話

 空に浮かぶ月は、太陽の光を受けて煌々と輝いていた。街から離れた夜空には、無数の星々が煌めいている。魔晶術を使い、不夜と化したアルバレイスではこれ程の夜空は見る事が出来ない。


 小川のほとりに座ったルージュは、タオルを水に浸した。肌を裂くように冷たい水が、疲れでボンヤリとした頭をクリアにする。


 上着を脱ぎ、下着姿となったルージュは濡れたタオルを体に押し当てる。


「はぁ……」


 腕を拭きながら、ルージュの口から溜息が漏れる。冷たい月光に照らされる肌は、それ自体が発光しているかのように白く輝いている。自慢の黒髪にも、真珠のような光の粒がいくつも生まれている。


 体を拭いながら、ルージュは背後を振り返る。遠くでは、闇の中にボンヤリと浮かぶ焚き火が見える。あの炎の周りで、他の三名は眠っているはずだ。一番早く目を閉じたルージュだったが、いつになっても眠ることができなかった。三人の寝息が聞こえてきた頃、気分転換に体を拭こうとしたのだ。


「本当はお風呂が良いけど、此処でそんな贅沢は言えないか」


 熱いバスタブに浸かり、体にまとわりつくような汗と砂を洗い流したかったが、此処ではどう考えても無理だろう。こうして濡れタオルで拭くだけでも、体に張り付いていた汗の幕は拭い去ることが出来る。



 本当は、まだ何も行動を起こしていないだけないんじゃないかな



 目を閉じると、ヨハンの声が木霊となって頭の中に響き渡る。無知で下世話で、そして貧乏で田舎者で。どう考えても、自分とは相容れぬ存在。それなのに、ヨハンに言われた言葉が胸に深く突き刺さる。


「…………」


 私だって色々とやったわよ。と、強がってみても、本当にそうだろうかと問いかける自分がいる。どんなに言葉で飾り付け、ヨハンを論破した所で、それが嘘だと言う事は自分が一番良く知っている。ヨハンに向けて放った言葉は、長年自分の中で唱え続けてきた言い訳だ。



 カツッ……



 背後で小石を踏む音が聞こえた。タオルで胸元を隠し、慌てて振り返ったルージュの前に、さめざめとした月光で白く輝く刃が見えた。


 「キャッ」と小さな声を上げたのも一瞬、その刃はキラリと煌めくと、素早く翻った。


「ゴメンなさい、ルージュさん。私です、シシリィです」


 ナイフの刃を納め、歩み出てきたのはシシリィだった。メガネを外したシシリィの瞳は、細く鋭く、少女とは違う女の顔となっていた。


「私も眠れなくて。ククルの森の近くですから、護身用にナイフを持って来たんです」


 横に座ったシシリィは、ルージュと同じように旅装を脱ぎ始めた。フワリと香水の香りが漂い、白い肌が闇の中で微光を放つ。


 「冷たい」と言いながら、タオルを水にしたし体を拭っていく。


 それ以降、特にシシリィは口を開くことなく、体を拭うことだけに専念していた。ルージュも、話しかけることなく黙々と体を拭う。


 ククルの森で虫の鳴き声が聞こえる。鳥は寝静まり、夜行性の獣は餌を求めて森の奥深くへ行ったのかも知れない。


「響きましたね……」


 体を拭い終え、服を身につけたシシリィが、突然そんな事を口にした。すでに新しい旅装に袖を通し終えたルージュは、なんのことを言っているのかと思ったが、聞き返すよりも先に、それがヨハンの事だと思い当たった。


 ルージュ同様、シシリィもヨハンの言葉に何かを感じる所があったのだろう。シシリィだけではない。アリアスも同じかも知れない。


「結局、私達は家の名前がないと、何も出来ない人間なんですよね。威張ってはいますけど、それは、『貴族』だと言うだけ。それを嫌だ嫌だと言いつつも、私達はそれを甘んじて受け入れてきた。いいえ、受け入れなければ、生きていけないと知っているんです。ヨハンさんの様に、私達は強く生きていけないんですよ。


 人生の全てを親のせいにして、列車のように先人達が作りだした道(レール)をそのまま辿る。私達に出来る事は、親の言う事を聞くか、他の逃げ道を見つけるか、それしかないんですよね」


 親の言う事を聞くか、他の逃げ道を見つけるか。アリアスは前者で、自分は後者だろう。政略結婚が嫌で、ルージュは逃げ出した。その挙げ句、今こうしてククルの森手前で野営しているのだ。


 炎に照らされた、ヨハンの寂しそうな顔が蘇る。


「……私、少し言い過ぎたかしら?」


「……ええ、少し」


「……そうよね」


 ふう、と空に向かって息をついたルージュは、遙か彼方に煌めく綺羅星を見つめてた。その横では、同じようにシシリィも空を見つめていた。

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