第9話

 ヨハンがライティングを済ませベットの中に潜り込んだ頃、アリアス・サーバインは来賓室の一つにいた。


 豪奢な来賓室にはオーク材のテーブルとサイドボード、そして大型の冷蔵庫が備え付けられていた。毛足の長いダークブラウンの絨毯が敷かれた来賓室は、重厚で高級感の漂う雰囲気に満ちていた。


 テーブルにはこの部屋の主であり、アリアスの父でもあるビヨンドがついており、アリアスはその正面に後ろ手を組んで立っていた。


「先ほど、マーリーンとルル姫と共に、今回の試験の組み合わせを決めてきた」


 微かな音を立てテーブルの上を滑る資料。アリアスは暗い瞳を手元に滑ってきた資料に走らせる。


「…………」


 チームの組み分け表の一覧が記されている資料。その中で、アリアスの所属するチームに赤く囲いがしてあった。


「ルージュ・エバーラスティング」


 四名編成のチームの中には、ルージュの名が記されていた。


「お前の役割を察したか?」


 抑揚のないビヨンドの声に、アリアスは頷く。聞くだけで背筋が寒くなるような、冷たい声。実の息子の前だというのに、ビヨンドの眼差しや物腰に隙はない。自分同様、ビヨンドもアリアスを信用していないと言う事だろうか。


 王家に次ぐ第一位の貴族、サーバイン家。代々将軍職を歴任し、王家の矛となり、盾となってきた。現党首ビヨンドも例外ではなく、軍部を纏める立場として常に王家の存続のため奔走している。


 二人いる兄も、すでにアルバレイス学園を卒業して父の元で働いている。ゆくゆくは兄のどちらかが父の跡を継ぎ、将軍職を担うことになるのだろう。


 サーバイン家が常に第一の貴族であるためには、軍部だけを統率していればいいと言うわけではない。常に他の貴族との関係を保ち、政治的にも重要な地位を占めなければいけない。一番上の兄も、同じ第一位貴族の娘を嫁にもらった。サーバイン家は武力だけではなく、政治的な駆け引きにも長けていた。


 アリアスは、父や兄の生き方を尊敬していた。己を捨て、疑問を挟むことなく、王家のために命を捨てる。王家を守るためならば、どのような汚れ仕事も眉一つ動かさずに実行する。アリアスは、王族といえども、親しくもない他人のために命を賭けられない。それに、兄や父を見ていると、将来の自分を見ているようで絶望すら感じる。


 自分の意志は関係なく、いずれはサーバイン家の一員として軍部の一部を担わされる。変えようのない分かりきった未来。それを思うだけで、全てのことが馬鹿馬鹿しく思える。この全てが決まっている世界で、どのような希望を持って生きればいいと言うのだろうか。


 絶望を溜息に変えながら、アリアスは一つの名前を指で示した。


「この女を護衛しろと言うんですね?」


 この女、ルージュ・エバーラスティング。婚姻関係でのし上がってきた、エバーラスティング家の末娘。尻の軽いエバーラスティングと陰口を叩かれ、何かと話題の絶えない貴族だ。ルシフルが王家の一員となり、エバーラスティングへの風当たりは何かと強くなった。特に、貴族派と呼ばれる、魔晶具関連の権利で成り立っている貴族などは、ルシフルを排出したエバーラスティング家こそ、敵であると思い込んでいる節がある。


「そうだ。厳密には王族というわけではないが、彼女一人の影響力がどれほど大きいが、分からないお前ではないだろう」


 傲岸不遜を地で行くルージュを思い出したアリアスは、コクリと頷く。


「ルージュの発言力と言うよりも、彼女の命、存在その物がルシフル様に大きな影響を与える、と言う事ですね?」


「そうだ。アルバレイス学園に入学してしまえば、暗殺は難しくなる。ルージュを暗殺するには、この試験のどさくさに紛れるのが一番だからな」


 アルバレイス学園の試験は危険なことでも有名だ。毎年怪我人が続出し、死人が出ることも珍しくはない。貴族といえど、試験中の出来事は不慮の事故で片付けられてしまうのが通例だった。


「それで、俺をアルバレイス学園に入学させようと言うんですか?」


 暗い光を湛えた瞳が、ユラリと揺れる。


「ルージュ・エバーラスティングの命さえ確保できれば、学園の合否など関係ない。アルバレイス学園に入学しようがしまいが、お前の行く末は決まっている。とは言っても、一応世間体という物があるからな、これを機に入学するというのも悪くないだろう」


 「そんなの、自分勝手だ!」と言う言葉が口から出せたら、どれほどすっきりするだろう。心の声に反して、口は「はい」と答えていた。アリアスに出来る事と言えば、心の中でビヨンドを罵り、自分の未来と生まれを呪うことだけだった。


「私の言葉に異論がありそうな顔だな」


 ビヨンドに問われ、ハッとアリアスは顔を上げた。テーブルの上に組まれた手に顎を乗せるビヨンド。全ての光を吸収してしまう黒い瞳が、アリアスを飲み込む。


(この目だ、この目があるから、俺は)


 歯を食いしばり、アリアスはビヨンドから目を逸らした。ビヨンドを正面から見られなくなくなったのは、いつからだろう。小さい頃は心からビヨンドを愛していたし、誇れる父だと思っていた。いつも後ろを付きまとい、その度に怒られていた。それでも、アリアスはビヨンドの後を追い回した。あの背中に追いつきたいと願い、追い越したいと思った。


「俺は……、サーバイン家の道から外れることは出来ないのか?」


 だが、今はどうだろう。ビヨンドに見つめられるだけで心と体が萎縮してしまう。ビヨンドや兄達が背負うサーバイン家の重みに、アリアスは耐えられない。変わってしまったのはビヨンドの眼差しではなく、降りかかる未来の苦難に負けた自分なのかもしれない。


「道から外れる時は死ぬ時だ。それがサーバイン家の掟だからな」


 分かりきっていたことだったが、ビヨンドの言葉がアリアスの心に突き刺さった。爪が食い込むほど強く握りしめられた拳から、鈍い痛みが走る。


 『掟』、『しきたり』、『慣習』、呼び名は数あれど、それらの言葉はアリアスにとって、呪詛以外の何物でもなかった。体を流れるサーバインの血が、この地に、この場所に縛り付ける呪縛となる。アリアスにはどうする事も出来ない現実が、目の前に突きつけられた。


 悄然と項垂れるアリアスの後ろで、午前一時を知らせる鐘の音が控えめに鳴り響いた。

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