第7話

 丁度、シシリィがバルザックと向かい合っているサロンの真下。アルバレイス学園の上層階に位置する来賓室には、アルバレイス学園の出資者達が各々の部屋をあてがわれていた。その中には、ルージュの実兄であるルシフルと、ルルの宿泊する来賓室もあった。王城はアルバレイス学園の隣に位置しているため宿泊する必要はないのだが、ルシフルは決まって学園の試験期間中は、この来賓室に寝泊まりすることにしていた。


「お兄様!」


 樫作りの重厚な扉を開けたルージュは、満面の笑みを浮かべてルシフルの胸に飛び込んだ。


「こらこら、ルージュ。もう年頃なんだから、そんなはしたないマネは止しなさい」


「良いじゃない。お兄様に飛びつくんだから」


「まあ、それはそうだが」


 苦笑いを浮かべながら、ルシフルはルージュの細い肩に手を置くと、優しくその体を引き離す。ワインレッドのイブニングドレスを身につけたルージュは、首から肩に掛けて艶やかな稜線が露出しており、照明の柔かな明かりを受けて輝いていた。


「所で、お姉様は?」


「今、学園長の所に行っている。ルルに用か?」


「ううん、特に用事はないの。そっか、お姉様いないのか」


 胸の前で手を合わせ、ニコリと微笑むルージュ。事前にルルがこの部屋にいないことは確認済みだ。ルルがいないからこそ、ルシフルに会いに来たのだ。


「それよりも明日の試験、準備は出来たのかい?」


「バッチリに決まっているじゃない。あんな試験、どうせ形だけの物でしょう?」


 ルシフルはルージュに椅子を勧めると、自らお茶の準備を始めた。流れるようにお茶の準備をしていくルシフルを、ルージュは目を細めて見つめた。


 数多くいる兄弟の中でも、特にルシフルをルージュは尊敬していた。


 如何にエバーラスティングが飛ぶ鳥を落とす勢いだとしても、元々位の低い貴族であったルシフルが、王女と婚姻できるはずがない。この婚姻は、現国王からもたらされた物だった。


 ルシフルは父の反対を押し切り、一人でアルバレイス学園に入学し、見事な成績で卒業。内務省に勤務しすぐに頭角を現した。ルシフルは国王の目に止まり、国王の下で国政を手伝うことになった。そこでルルで知り合い、二人は恋に落ちて結婚した。


 国王も女王も、二人の婚姻に反対はしなかった。ただし、ルシフルはエバーラスティング家の名を捨て、アルバレイドの名を継ぐ事が条件とされた。


 兄妹の誰もが父の呪縛を断ち切れずに政略結婚をしていく中、ルシフルだけは自らの力で今の地位にまで上り詰めた。ルシフルはエバーラスティング家の誇りであり、兄妹の希望の星だった。


 ルージュがルシフルに対する念は、尊敬を通り越し崇拝の域にまで達していた。


 家を出てルシフルの為に働こうと思ったのも、兄を敬愛しているためだ。


「油断はするなよ? いかにエバーラスティング家の名前を背負ってるからと言っても、そこまで校長は甘くない。それに、私はこの学園のあり方にこそ問題があり、メスを入れるべきだと思っている」


「校長は何て言ってるのよ? 出資してる貴族は?」


「校長は私の意見に賛成している。出資してる貴族の反応はイマイチだけどな」


「兄様、急ぎすぎないでね」


 数々の改革を推し進め、国民からの人気は高い反面、貴族の敵は多い。暗殺の対象となり、命を狙われたのも一度や二度ではない。表面上、貴族派の名前は出ていないが、ルシフルの断行している計画により大きな打撃を受けるのは、魔晶具の権利を独り占めしている貴族なのだ。幸いなのは、エバーラスティング家は成り上がり貴族のため、魔晶具の権利を持っておらず、ルシフルの改革により直接的な被害を被(こうむ)ることはなかった。


「大丈夫。私はやり遂げる。この国を良くするためにね」


 この国を良くする。それはルシフルの口癖の一つだった。ルージュには、どうしてルシフルが改革を推し進めようとするのか、その理由が分からなかった。過去数百年、貴族が独占してきた魔晶具の権利。その権利を何故今になって市井に解放しようというのだろう。ルシフルがそこまで思う何かが、過去にあったというのだろうか。


 コトンと、目の前に置かれたティーカップから、ダージリンの良い香りが湯気に乗って広がってくる。


「私は、兄様が心配よ。いつか、殺されちゃうんじゃないかと思うと」


「ルージュ、私の心配をしてくれるのは嬉しいが、今は試験の心配をするべきだぞ。集中するんだ」


「はぁい」


 ぶすっと唇を突き出しながらも、ルシフルの言葉に素直に従う。


「それに、さっきルージュが言っていたな。形式だけの試験だと。それは、本来ならばあってはいけないことだ。貴族だと言うだけで、この国の最高位にある学園に入学できる。それでは駄目なんだ。確かにこの学園に入れば、将来は安泰だろう。しかし、それではいずれこの国は内側から腐っていく」


「どうして?」


「すでに腐り始めているからさ。アルバレイスから離れた場所では、未だ貧困に苦しんでいる人達が大勢いる。スポットが無い為に魔晶具の恩恵も受けられず、昔ながらの生活を営んでいる。それが悪いとは言わないが、それにより救える命が救えない事や、無駄な血が流れることも多々ある。今ある貴族の大半は、本来あるべき姿を見失い、ただ自分の懐を潤すことだけを考えている。本来なら貴族は領民を第一に想い、考えるべきなのだよ」


「それは分かるけど、兄様がそれをやるの?」


「私にしかできないと思っているからさ。この国を良くすることはね、私が自分自身に課した使命のような物なんだ。だから、ルージュがそれに付き合う必要はない。このアルバレイス学園に優秀な市井の者が入ってくれば、きっとこの国は今の何倍も良くなる」


「市井って、今日、遅刻してきたあの男みたいな事を言うの?」


 柳眉を下げたルージュは、説明会の時に遅れてきた青年を思い出してゾッとした。外見は良いが、礼儀も何もなっていないあの薄汚い青年。あの田舎者が、本当にこの国のためになるのだろうか。敬愛するルシフルの言葉といえど、疑いたくもなる。


「フフフ、ルージュはああ言う青年が嫌いかい? 私の目には、素直で良い青年に映ったけどね」


「冗談を言わないでよ。私の理想は兄様よ。兄様とあの男、何処をどう比べろって言うのよ。同じ霊長類ヒト科でいるのだって、私は嫌なくらいよ」


 とりつく島もないルージュの言葉に、流石のルシフルも複雑な表情を浮かべる。だが、すぐにその表情を引き締めると、心持ち体をルージュの方へ近づけた。


「許してくれ、ルージュ。今回の試験、私のゴタゴタでお前に危険が及ぶかも知れない」


「気にしないで、兄様」


 ルージュはニコリと微笑むと、薄い胸を突き出した。右手を左胸に当て、蠱惑的な笑みを浮かべる。


「私の命、兄様のために捨てるなら本望だわ」


「ルージュ……!」


 真剣な表情でルシフルが何かを言おうとした時、ノックの音が来賓室に響いた。扉から入って来たのは、同じ女性でも思わず見とれてしまうほどの愛らしさと美しさを兼ね備えた女性だった。白地に金糸の刺繍が施された鮮やかなイブニングドレス纏った女性は、ルージュを見ると嬉しそうに表情を緩めた。


「あら? ルージュさん、いらしていたのね」


 無邪気な笑みを浮かべて歩み寄ってくるのは、ルシフルの妻、現国王の一人娘ルル・アルバレイドだ。


 義姉の登場によりルージュは息を詰める。いつの間にか握りしめられた拳をそのままに、静かに立ち上がった。この笑顔を見るだけで、ルージュの心は千々に乱れる。


 人を魅了する美しさに、太陽のように明るい性格。外見だけを取り繕っているルージュとは違い、内面から美しさと優しさがあふれ出す義姉には、どうしても敵わない。この人を越える事は出来ないし、この人から兄を取り返す事は出来ない。


 同じ女性としてスペックの違いを見せつけられるようで、ルージュは正面からルルを見る事は出来なかった。


「それでは、義姉(ねえ)様、ご機嫌よう」


 ルルを見てあからさまに不機嫌になったルージュは、形だけの礼を済ませると、ルシフルへの挨拶もそこそこに、来賓室から出て行った。


「ちょっと、ルージュさん!」


 呼び止めようとしたルルだったが、彼女の鼻先で固い樫の扉が硬質な音を立てて閉まった。


 ルージュの消えた来賓室に、気まずい空気が漂う。


「毎度毎度、済まないな。あの子には、いつも手を焼かされる」


「いいえ、私、気にしていませんわ。仲良くしたいのに、冷たくされるのは少し残念ですけど。でも仕方ないですよね」


「何故だ?」


「だって、私がルージュさんの大好きなお兄様を取ってしまったんですもの。同じ女だから、その気持ち、とてもよく分かるんですのよ」


「取った取られた、か。確かに、私の心は君に取られたままだけどな」


 口元に優しい笑みを浮かべたルシフルは、薄着の妻にカーディガンを掛けてやった。ルルは「ありがとう」と言いながらも、その顔は暗く沈んでいた。


「ルージュさんも、素晴らしい出会いがあれば、きっと変わると思います」


「それは、どういう意味だ?」


「妹想いのお兄様には、少々キツイ内容かも知れないので、私はあえて口にしませんけどね」


 悪戯っぽく笑ったルルは、ルージュの出て行った扉を暫くの間見つめていた。

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