1. It is the season of encounter of fate.

 私は、文芸部員。だから、職員室に届いていた古書を、部室にもなっている図書室に持っていくのは間違っていない。そして、そこへ行くために階段を上り、曲がり角へと足を向けたところで反対から走ってきていた生徒とぶつかってしまうのも、別段問題はない。違和感があるとすれば、落とした本を拾ってくれた人の声が高かったこと、掛け直した眼鏡を通して見えた顔が女の子だったということだろう。…何が言いたいのかというと、いわゆる少女小説のような展開は起こり得ないということだ。

「いたた…。だ、大丈夫?ごめんね、前がよく見えてなくて…」

 そう声をかける彼女の容姿は、控えめに言ってもかわいい部類に入るだろう。小さい顔、形の良い眉、化粧をしていないようなのに薄く赤みがかった頬、そして小さく可愛らしい口。髪色が明るめの茶、髪型がサイドテールというのも、彼女の特徴をよく表していると言っていいだろう。カラフルに彩られたシュシュも良いアクセントになっている。

 ただ、その中でも特に私の視線を奪って離さないものがあった。彼女の瞳だ。大きくぱっちりしていて、濡れたような瞳。それは、作為的に世界を歪めてしまうような私の眼鏡をもってしてもなお、とても魅力的に映った。それは、それほど私にとってひどく惹き込まれるものだったのだ。だからこそ違和感を覚えたのだろう、ふと思うことがあった。それが何だと言われればそれまでなのだが、少し瞳が濡れすぎているような気がする。もちろん、彼女の普段を知らないため、元からそうなのかもしれないが、それはともすれば溢れ出してしまいそうな程に。

 それと同時に、口をついて溢れ出しそうなくらいの…感情。驚き、戸惑い、謝罪の念。そして、脆く儚いなにか…。

「えと…」

 そこまで考えて、彼女が恥ずかしそうに声をかける様を見て我に帰った私は、今までずっと黙って彼女を見つめていたことに気がつき、慌てて言葉をかけようとする。しかし。

「あっ…」

 まで声が出たところで、彼女は「ごめんなさい!」と今度はさっきよりも丁寧な言葉遣いでそう言うと、私の視線から逃れるようにして慌ただしく階段を駆け下りていった。彼女に謝罪の言葉と慌ただしい心情とを奪われた私は、校舎三階の曲がり角でひとり、想像の域を出ない彼女の真意を探るように、赤く陽の当たる下り階段を見つめた…。


「はあ…」

 次の日の放課後、私は図書室でひとり、図書の貸出をするためのパソコンの前で机に突っ伏していた。微かに、一緒に溜め息を吐いているように聞こえる低いファンの音が今は耳に心地良い。

 何故そんな格好でいるのかと問われれば、(昨日のあの態度はさすがになかったよなぁ…)とうじうじと後悔し心が沈んでいるから、と答えるしかない。人にぶつかり、本まで拾ってもらっておきながら、まともに謝ることも出来ずに去ることになってしまった(正確には立ち去られた、だけれど)。

 それもこれも私の性格のせいだ、と私はひとりごちた。良く言えば控えめ、悪く言えば消極的なたちのために、入学式からもう一ヶ月が経とうというのに、一緒に遊びに行けるような友達の一人も作ることが出来ないままであった(まぁ、少々別の要因もあったのだけれど…)。こんな調子では彼氏どころか友達も出来ないまま高校生活を終えてしまうのでは…?とダラダラ冷や汗をかいた私は、人と接する機会を増やすために部活に入ろうと決心したのだが、運動はからきし駄目で、芸術の何らかに精通しているわけでもなかったため、入れるものはとても限られていた(本当は園芸部辺りがあると一番良かったのだけれど…)。

 除きに除いて残った中で唯一関心のあった、本に関連する部活、文芸部。小説はとても書けないけれど、文学に造形が深くなるかもしれないと思い入った部活だったが、いざ見てみれば、上級生のほとんどが幽霊部員、そして活動内容は図書室の管理(これはもはや図書委員では?)、極めつけは今年の入部者数が私一人という、衝撃の事実。私が見た部員は、私に文芸部の説明をしてくれた、おそらく部長であろう男の子の先輩を一人、それも一度きり。友達を作る機会を完全に失った私は、入る前にしっかり部活動の内容の確認をしなかった自分を恨めしく思いながら、机に突っ伏すという今に至るわけである。


 彼女には悪いことをしたなぁ…と私は再び少女小説的出会いを果たした彼女のことを思い出した。制服の色が同じだったため、恐らく同学年の子なのだろうということは分かったのだが、まさか私に一年の教室全てを探しに向かわせるということが出来るわけもなかったので、結局誰なのかは分からず終いであり、意気消沈した。

 それにしても、と私は考える。あのとき覚えた確かな違和感…彼女の瞳だ。それは…引き込まれそうな程に深く、複雑な輝きを内包しているように見えた。例えるなら、職人によって美しくカットされた宝石。その存在自体が、既に完成されているかのように私には見えたのだ。何故こんなにも不思議に思ったのだろうと濡れた瞳を頭の中に映し出しながら考えて、はたと気がついた。もしかして彼女は…。

「…ねえ」

 物思いにふけっていた私は、最初、彼女の声を現実だと認識することが出来なかった。しかし、何度か呼びかけられたことで、それが私に向けられたものだということに気づいた私の驚きは、それはもう大きかったのだろう。声をかけた彼女の方も驚いていた。思考が追いつかないまま、思わず「少女小説…」と呟いた私が可笑しかったのか、ふふっと可愛らしく笑うと、

「やっぱり昨日ぶつかっちゃった子だよね、良かった〜合ってた」

 と話した。(まさか、恐喝!?)と青ざめた私は、彼女の「三つ編みおさげ二つ、かわいいね〜」の声は届かないまま慌てて立ち上がると、

「昨日は本当にごめんなさい…!」

 深々と頭を下げた。突然の謝罪に驚いたのだろうか、「え、え?」と困惑する彼女。

「き、急にどうしたの…?」

「え、あの、昨日はぶつかってしまったうえに本まで拾っていただいたのに、何の謝罪も感謝の言葉もなしに…」

 ここまで言ったところで彼女はぶんぶんと手と頭を振った。サイドテールが子犬の尻尾のように揺れる。かわいい。

「いやいや、あれは前を見ずに走ってた私が悪いんだから、あなたが謝る必要はないよ。むしろ謝らなくちゃいけないのは私の方。昨日はごめんね」

 そう丁寧に、そして眉根をよせて申し訳なさそうに話してくれた彼女に今度は私がいえいえと手を振る。すると彼女は表情を一変させると、「許してくれるの?ふふ、ありがとう」と言って笑った。彼女のかわいらしい笑顔に気を取られていたので、私はつい、先刻まで考えていたことを口走ってしまっていた。

「それにしても、昨日は何故泣いていたのですか…?」

 さっと、彼女の笑顔が固まった、ような気がした。その様子を見てすぐにしまった、と思った。先の私の推論が合っているとすれば、これは非常に個人的で、デリケートな問題だ。すぐに謝罪をしようと口を開きかけた私に彼女は再び、しかし今度は静かに笑う。

「やっぱりバレちゃってたか。…ちょっと聞いてくれる?」

 彼女のその独特の雰囲気に圧された私は、ただコクンと頷いた。再びありがとうと小さく言った彼女は事の顛末てんまつを話した。

「まあ、と言っても長い話じゃないんだけどね。えっとね…ずっと付き合ってた先輩にフラれたんだ」

 そう話した彼女の話はやはり私が想像していたものと遜色そんしょくなかったが、いくつか気になる点があった。

「…あの、少し聞いてもいいですか?」

「うん?」

「…先輩というのは?」

「ああ、中学のときからの先輩でね、そう、彼…先輩から私に寄ってきたんだけど」

「付き合っていたっていうのは、そのときから…?」

「そうだね。ああ、でも幼なじみってやつでね、小学校の頃から仲は良かったんだ、家も近かったし」

 私は、恋愛相談なるものを一度もされたことがなかったために、いつの間にか彼女の話に引き込まれていた。何事も初めてというのは興味がわくものなのだろう。聞いているうちに思いついた疑問を次々と消化させようという、普通に考えれば失礼なことを何の違和感もなくしていた。

「何故別れることに…?」

「分かんない、でも高校に入って同級生にかわいい子か、かっこいい子がいたんじゃないかな…?それで、高校に入っても私がうじうじ寄ってくるのが嫌になって別れ話をした、とか」

「…まさか、その先輩のためにこの学校を…?」

「そうだよ。ふふ、重い人間だと思った?まあ若干自覚はあるわけだけど。でも、まさか私も捨てられるとは思わなかったよ。…あー、なんでダメだったんだろうなー…」

 私は彼女の話を聞きながら、今の中高生はこんな、先輩・後輩の関係があるような高度な恋愛をしてるんだ…!と驚愕した。そんなものは小説の中だけかと思っていたのだ。伝説のような事象が、現実に起こりうる展開に、私は感心した。しかし同時に、自分の中からその先輩に対する不確かな怒りがふつふつと湧いてきた。そして、彼女の純粋で泣きそうな笑顔に釘付けになることで心のどこかにある怒りメーターは臨界点に達する。これは…。

「最っ低です!」

 机をバンと叩く音か、私の突然の大きな声か、はたまたその両方か、三度驚いた彼女は、思わず陰鬱そうな顔をあげ、呆気に取られたように私を見た。

「先輩はあなたと幼なじみでずっと仲良しだったんですよね。家も近かったということなら家族ぐるみの付き合いもあったはずでしょう?それなら一度告白したなら責任取って生涯連れ添うくらいの意気で接しなくちゃいけないはずです!それなのにその先輩は、いざ高校に入ったらあなたを放ったらかしにして同級生にうつつ抜かしですか…いい度胸してますね、本当…!」

 そして私は、涙を引っ込め、目を丸くしたままコクコク頷いている彼女を見て我に帰り…自分のした行動に驚き、羞恥に震えた。思わず顔を手で覆い隠す。

「あ、え…」

 (や、やってしまった…!)あまりに恐ろしくて口をパクパクさせるしかない。いくらこういう話に耐性が無いとはいえ、小説を読んだときに得ただけの自分の恋愛観をベラベラと、それも人に押し付けるように話すなんて…!

 全身を発熱させながら、ちらっと指の隙間から彼女の顔を覗き見ると、私が我に帰ったことに気がついたのだろう彼女は…笑っていた。静かでもなく、普段の可愛らしい笑みでもない。私を見つめる瞳からは優しい気持ちしか読み取ることが出来なかった。そして彼女は私に「ありがとう」と、言った。その言葉にようやっと羞恥から覚めた私は、「え…?」と間抜けに返す。

「怒って…いないんですか?」

「え、なんで?」

「だって…別れたとはいえ、私はその先輩を侮辱したんですよ」

「まぁ確かにそうかもしれないけど…あなたの言ったことに間違いはないし、私もなるほど!って感心したんだもん。私のモヤモヤした気持ちの整理も出来た気がするしね。それに…」

 そこで言葉を切り、彼女は私に優しく笑いかけると、


「私のことを思って言ってくれたんでしょ?」


 心が動く瞬間というのは、きっとこういうときのことを言うのだろうと、私はまるで他人事のように思った。まるで、人間関係のあれこれを人より経験してこなかったことの報いが、今来たかのような…。何故かバクバク鳴り始めた心臓に知らないふりをしながら、返事の代わりとして一つコクンと頷く。そしてその後、私が知らずに考えていたのだろう言葉が、自分でもびっくりする程素直に口から零れ落ちた。

「だって…あなたの中学の恋はその先輩で終わってしまった。あなたの思春期の大事な恋心を彼氏さんは無下にしたんですよ…?そんなの、辛すぎるじゃないですか…」

 私の言葉に何か思うことがあったのか、ピクっと体で反応した後、彼女は笑みを濃くすると、再びハキハキと、ありがとうと言った。私が気恥ずしさから笑うと、彼女もつられるようにして笑った。図書室は、おそらく私が来てから初めてだろう、優しく暖かい空気で満たされた。体の横に当たる、窓から伸びた陽が気持ち良い。

 私も同じだろう、陽が当たったことで頬の赤くなった彼女はひとしきり笑った後、そういえば、と手を一つ叩いた。

「まだ、あなたの名前を聞いてなかったよね」

 私は不思議と気分が良くなっていたので、

「ここは、『人に名を聞く前にまず自分の名を名乗れ』かな」

 冗談めかして言うと、あはは、確かに!と笑った後、

「私の名前は平寺へでら ひなた。珍しい苗字でしょ?呼びにくいと思うから、ひなたって呼んでくれると嬉しいな、名前で呼ばれる方が嬉しいし。じゃ、改めて…」

 コホンと、私に返すように冗談っぽく咳をすると、彼女はとびっきりの笑顔で尋ねた。

「あなたの名前は?」


 私は今まで、自分の名前が嫌だった。優しい私の両親が、(職業的なものもあったとは思うけれど)そんな風になって欲しいと思って付けたのだろうその名前は、今のこの私の性格とは正反対と言っていいものだろう。可愛らしいその名前に負けていると自分で思うからこそ、この名前が嫌だった。

 でも、と私は思う。もし彼女の名前が文字通りで、彼女が、私にとっての太陽であるなら。小説の一編のように考えてみた。

 図書室に置かれた植木鉢をチラリと見る。私がそんな風になって欲しいと身勝手にも信じ、意識して育て、置いた花。

 花の名前はカランコエ。短日植物と呼ばれるカランコエを花咲かせるためには、(あくまで室内では、だが)ダンボールなどで光を遮る短日処理という作業を三〜四十日程繰り返す必要がある。咲かせるのに時間のかかる花だが、正しい手順を踏み、手間暇をかけ、愛情込めて育てることで、この花は小さいが色が鮮明で存在感のあるとても可愛らしい花になる。花言葉は、『幸福を告げる』。

 この花が意味の通り正しくそれを運んできてくれることが証明された今、彼女の苗字にある植物の花言葉も信じることが出来るだろう。そして、自分の名前も。彼女は、私の名前を聞いて『似合っている』と笑ってくれるだろうか。小さく息を吸い、吐く。私は、彼女の惹き込まれそうな瞳の正面へと向くと、この学校へ来て初めて、胸を張って自己紹介をした。


「私の名前は、花浜 向日葵はなはま ひまわりです」

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