第20話 筋肉と雨音の不協和音 その20

 楓は打ち付けてくる雨に気にせず学校へ向けて走っていた。傘も刺さずに走っている彼女に周囲は好奇な目を向けていたが楓はそんな物を気にせず走った。


 全てを忘れることが出来たらどれだけ楽だろう。全部忘れて出来てしまった溝に蓋を出来たらいいのに。


 そうすれば同じスタートラインに立って堂々と競い合えたのに……。どうして今みたいに逃げてばかりなのか楓は自己嫌悪しながら濡れるのを気にせずただひたすらに走った。


(関係ない関係ない関係ない関係ない関係ない関係ない関係ない関係ない関係ない関係ない関係ない関係ない……どうして?なんで?幼馴染みだから?まだあの事が尾を引いてるの?私にも言えない。どうしてなの?)


 頭には悠莉から言われた「関係ない」という一言がずっと頭の中をグルグルと周り楔になって楓をはり付けた。


 深く突き刺さった楔は楓の胸を抉り心臓に突き刺さる感覚が襲っていた。


 心臓も楔を打たれ共鳴するように鼓動を速めいる。自分ではどうしようもない痛みと鼓動から楓は校門を抜け昇降口で左胸を押さえ息を切らした。


「関係ないなんて……そんな事……無い。」


 受け入れられない悠莉の言葉は抜けない楔になって襲いかかっていた。引き抜こうとしてもその楔はトゲが生えて胸に根を張り始めている。


 力任せに引き抜こうとすれば周りの肉や心臓も同時に引き抜かれるようだった。そんな痛みに耐えながら俯いたまま動けずにいた。


「おや?楓ちゃんじゃないか。どうしたんだいそんな濡れて。」


 頭に降ってきた聞き覚えがある声は楓の耳に入った。ゆっくり水が滴る頭を上げると目の前には珍しく目を見開いて驚きを見せている菫が立っていた。


「菫……先輩……。」


 搾り取れたのは名前だけだった。それ以上何かを言おうとしても喉に力は入らず、むしろ息を吸う事で打ち付けられた楔が深く入り

そうで痛みが襲ってきた。


「ただ事じゃないようだね。場所を変えよう。そうだね……部室は悠莉くんが来るからダメだとして。保健室にでも行こうか。松久先生がいるけどあの人なら誰にも話さないだろうし大丈夫だろう。」

「はい……。」


 ただ事では無いと感じ取った菫はポケットからハンカチを取り出し少しながら濡れた顔を拭き取った。だがすぐに髪の毛から水が滴り拭き終わった場所を濡らした。


 ハンカチが水分で満杯になるまで菫は優しく濡れた顔を拭き取った。冷たい雨水の中に暖かな雫が混じっているのを見つけながら何も言わずにいた。


「……予想より速く幼馴染みが壊れたのか。はぁ……これは面倒事が重なったね……。」


 どんな内容か詳細はわからないが概ねの予想はついていた。ただ予想外だったのは今引き起こされた事だ。


 それに対して菫は面倒事が溜まってしまい溜息を零した。


「どうかしました……?」

「いいや問題無いよ。それにどうかしたのは楓ちゃんの方だろう?」

「はは……っ、そうですね……。」


 自嘲するように短く笑い肯定した。その笑みは諦めなのかどんな感情で作ったのかはわからない。


「それじゃあ保健室にでも行こうか。」


 楓は菫に寄っかかるように腕を掴み保健室まで歩き始めた。


 朝の昇降口だということもあり周りの生徒達からは奇異の目を向けられていたが菫はその視線には馴れていたため何も感じずただただ楓の案内役をこなしていた。


 楓も奇異の視線には気付いていたが何かを言う気力も湧いてこなかった。そんなモノより悠莉の言葉で胸を痛めているため何も言えないでいた。


 だが、菫にもその視線を浴びせてしまった後悔の念はあった。


「菫先輩、すいません。晒し者に巻き込んでしまって……。」


 俯きながら謝る楓の頭に菫は手を乗っけた。拭ききれていない雨水が手の平を濡らしたがそんなモノ気にせずにそのままがむしゃらに頭を掻き回した。


「痛っ!痛たっ!何するんですか!?」


 クシャクシャに撫でられまわされた楓は涙目をしながら菫へ視線を向けた。


「今はそんな余計なことを考えなくていいんだよ。」


 最後に優しく頭に手を乗っけると楓は目を丸くした。


 急に終わったのに驚きがあったのと菫の表情がどこか悲しげに見えたからだ。その表情には憂いや悲しみ後悔といったモノが見え隠れして大丈夫に見えなかった。


「余計な事じゃ……。」

「あれぐらいの視線には馴れてるから今更だよ。奇異の目を向けたいなら向かせていればいい。気にするだけ無駄だよ。」


 楓が言い切る前に菫は即座に言葉を入れ最後まで喋らせなかった。その動作はまるで次にくる言葉を予想していたかのように事前に準備していた回答だった。


「そうですか……。」


 先読みまでされては何も言え無くなった楓は再び俯き菫の案内に従い歩く足を止めずに歩を進めた。


「そうだよ。だから楓ちゃんが気にする必要はないよ。」


 それから二人は下駄箱で靴を履き替えてから菫が先陣を切って楓の手を引き1階にある保健室へと向かった。


 保健室には数分とかからずすぐに着くと菫は3回ノックをしてから返事が返ってくるのを待たずに扉を開けた。


 すると中にはテーブルの資料とにらめっこしている松久が露骨に眉をひそめイヤな顔を向けた。


 しかし菫はそんなのには気も触れず何の躊躇いも無く中へと入っていき、遅れて楓も引っ張られるように保健室へ入室した。


「失礼します。松久先生いますか?」

「朝っぱらからなんのようだ?面倒事なら帰れよ。」


 返事も聞かずに入ってきた人の質問とは思えない態度に松久は頭を抱え頭痛の種が撒かれた。


 そしてその種は深く根強い一筋縄ではいけないと楓の表情とずぶ濡れの状態を見てあらかた察してしまった。


「大丈夫です。ちょっとしたメンタルケアですから。」

「メンタルケア?俺の専門外だ。カウンセラー室にでも行ってこい。」


 テーブルの資料を見ながらあしらい安易にここから出て行けと言っているが菫は知らん振りをしながら笑みを浮かべていた。


「だから来たんじゃないですか……カウンセラー室に。」


 両手の人差し指を床に向けてここに来た理由を簡単に示した。その動作だけで松久の顔色は変わり口をへの字に曲げ眉を更にひそめた。


「ここでやるつもりなのか?!ふざけんなこっちはまだ仕事が残っているんだよ!」


 菫の狂行に思わずイスから立ち上がり怒声に近い声を上げた。終わっていない仕事に更に面倒事が増えるとなると余裕も無くなる。松久が怒るのも無理は無かった。


「いえいえ、カウンセリングするのは私なので大丈夫ですよ。」


 立ち上がった松久を宥めるように両手を前に挙げ手を振りつつ誤解を解こうと言葉を選び説明をした。


「そうか。ま、仕事が増えないなら何でもいいがな。」


 自分の仕事が増えるのではなく勝手にする分なら問題ないとした松久はイスに座り直した。


「はい、なのでしばらくここを貸し切りにさせて下さい。あ、勿論松久先生は出ていって下さいね。」

「はぁ……ったくやりたい放題の傍若無人の限りを尽くすなお前は……。30分だ。それ以上は看過できない。」


 もう菫の暴挙に諦めに達した松久は頭を掻きながら必要な書類を手にまとめ立ち上がった。


 松久が立ち上がったのを見守ると菫は入り口のドアを開け手招きをし、松久を追い出そうとした。


「ありがとうございます、じゃあ早速出口はこちらです。」

「……これ以上の面倒事はやめてくれよ?」


 去り際に松久から声をかけられたが約束しかねないため菫は苦笑いをしつつ一番問題を引き起こしそうな悠莉の顔を思い浮かべ、今度は菫が苦笑いを浮かべる側に回った。その反応だけでこれから何かが起こると嫌な予想を浮かべた。


「それは悠莉くん次第ですね。」

「期待できねえ……。っクソ、今度合ったらぶっ叩いてやるか。」


 悪態をつきながらも生徒が困っていたら保健室を貸し切り状態にしてくれる不器用な優しさに、菫と楓は感謝しながら背中には憂いを帯びながらも出ていく松久を優しく見守った。


 こうしてカウンセリングと言うには堅苦しいが悩み相談窓口のようなモノが出来上がり相談をする前に菫は戸棚を漁ってタオルを見つけると楓へ投げた。


「ちゃんと拭かないと風邪ひくよ?着替えはある?無いならここにあるジャージを貸すよ。」


 戸棚から漁っている途中に見つけた学校指定である女子用の赤色のジャージも一緒に投げて楓に渡した。楓は次々に投げられてくる物を難なく全てキャッチした。


「着替えは無いので借りたいんですけど……。ここのジャージって勝手に借りてもいいんですか?」


 楓は手に持ったジャージやらタオルを見ながら勝手に使っていいのか戸惑っていた。


「え?ダメなのかい?こういう時に貸し出すジャージじゃないかな?」


 疑問を疑問で返されてしまい楓は面食らった。普通に考えれば保険医が不在で勝手に保健室の物を使用するのはいいこととは思えない。


 だが菫はそんな事をお構いなくホイホイ投げてきたので楓はどうしていいかわからなかった。


「そうかもしれませんけど……松久先生に言わなくていいんですか?」

「ああ、後から言えばいいだろう。きっと許してくれるよ。」


 あっけらかんに言い切った菫に楓は思わず肩を落とした。


「そうですか……。」


 どこからその根拠は出てきたのかはわからないが菫は笑って大丈夫だと言い切った。そんな菫の態度に何を言っても無駄だと悟った楓は渋々諦めてそのジャージを借りる事にした。


 同性同士でも目の前で着替えるには抵抗があったためカーテンで仕切れるベッドまで移動した。濡れた制服に手をかけると水分を含み膨れ上がって肌に張り付いてきた。


 へばりつくように肌を離さない制服に悪戦苦闘するも楓は一気に制服を脱ぎすてると下着姿のままでへばりついた箇所をタオルで拭った。


 拭っている途中制服からの浸水は辛うじて下着までは濡らさなかったのがせめてもの救いになっている。


 楓は軽く拭ききるとジャージに袖を通した。サイズもちょうど良くピッタリとフィットしていた。最後にスカートを脱ぐとこちらも上着の方と同じで下着までは濡れなかったので同じように軽く拭ききるとジャージに着がえた。


 濡れた制服をどこに置くか辺りを見回すとハンガーが枕元の台座に置かれていたのでそれを手に取り制服を掛けそのまま奥にあるハンガーラックに掛けた。


 楓が制服からジャージへ着替えている間菫はポットに水を注ぎお湯を沸かす準備をしていた。ポットのお湯が沸くまで戸棚から松久の私物と思われる緑茶のTパックとコップを2つ準備すると机に置きカウンセリングの準備を始めた。


 お湯が湧き上がるちょうどに着がえが終わった楓がベッドから現れた。そして机の上のポットも音をならして湧き上がったのを教えた。


「緑茶でいいかな?」


 そう聞きつつもコップの中には緑茶のTパックが入ってお湯を注がれていた。そんな状態で嫌だとは言えず肯定するしか無かった。


「あ、はい大丈夫です。けどそれって松久先生のじゃ……。」


 タオルやジャージの件も相まってだがあまりにも勝手に色々な物を物色して本当にいいのか楓は不安に感じた。


「大丈夫大丈夫、あの人ならこれぐらいじゃ怒らないよ。」

「はあ……そうですか……。」


 反省の色など一切無い菫の態度は一層清々しいと思えた。もう何にもツッコミを入れる気力が無くなった楓はゆっくりと菫の対面に座った。


「それより速く座って始めようか。時間も無いからね。」


 菫の言葉に時計で時間を見ると8時10分に差し掛かろうとしていた。松久が出ていったのは8時頃だったため猶予とされた30分後ということは8時半だ。


 まだ少し余裕がありそうに見えるが、まだ何も言えていない状態での残り20分弱と考えれば急がなければならない時間でもあった。


「さてと……悠莉くんと何があったのかな?」


 お茶を一口口に含み、開口一番で本題を切りにかかった。


「悠莉が出てくるのは決定なんですね。」


 いきなりの切り込みにお茶を飲む手が止ま

り楓は全て見透かされているようで菫を直視出来なかった。


「悠莉くん以外でダメージを負うことなんてまず無いだろうし。それに最近悠莉くんと紅葉ちゃんの関係が変わっているのには気付いているだろう?」

「そうですけど……。」


 バッサリと切り込んでくる菫の確信に楓は図星をつかれお茶を飲む暇が無かった。誤魔化そうにも菫は何か確信得て話しているため何を言っても言い負かされる未来しか見えない。


「私の予想だけど。このまま何もしなかったら悠莉くんと紅葉ちゃんは付き合うよ。今はまだ好きって感情を理解できずに立ち止まっている状態かな?」


 菫は顎に指を添えて考えるように冷静に二人の関係を口にした。悠莉と紅葉のチグハグした態度を見れば誰でも何かがあったと考えるだろう。


 それが長い年月一緒にいる幼馴染みだとしたら尚更感じることは多くある。


 菫の言葉に俯きつつ手を組み楓は心の中の残滓を押さえつけるように手を震えさせ言葉を口にした。


「私は、悠莉がそれで幸せならいいんです。もう……迷惑をかけたくないので……。」


 最後は消え入るように小さな決意になってしまった。


 この言葉にウソは無い。無いが、この言葉とは裏腹に楓の表情は酷く苦痛に歪むような辛い表情だった。


「そう思っていても本心は違うんじゃ無いかな?ううん、違うからこそ今回逃げ出してきたんでしょう?」


 ウソの無い言葉でも菫は納得していなかった。いいや、そんな苦痛に歪む表情を見せられて本心だとは到底思えない。そう感じた菫は更に一歩楓の楔の打ちつけられた心に近付いた。


「……逃げ出した。そうですね、私は……悠莉から、『関係ない』って言われて……逃げ出して……。」


 後半の言葉に力は無くなり最後まで喋れな

いまま言葉は止まった。


 悠莉の言葉が、『関係ない』という拒否が長年幼馴染みとして隣に居続けた楓には辛いものにさせた。


 たった一言が幼馴染みを突き放し、もう幼馴染みでさえ入り込めない関係が出来上がりつつあるのが何よりも辛い。


 そして幼馴染み以上の関係が出来上がってしまったら自分の存在価値が無くなってしまう。


「はぁ……全く悠莉くんは乙女心を本当に知らないんだから……。一蹴されて辛かったよね。ここでは泣いてもいいよ。私しかいないから泣きな……。」


 菫は優しく目の前に座っている楓を抱き締めた。菫の胸に顔を埋めている楓はその柔らかさと暖かさが心地よく我慢していたモノが零れ落ちそうだった。


「……ダメです、まだ蓮華の件だって片付いていないんですよ……。それなのに耐えてる蓮華より泣くなんて出来ません。」


 後輩が嫌がらせで苦しんでいるのに涙を見せない強さに楓は対抗した。そうでもしないとこのまま菫に全てを話して泣き出しそうに思えた。


「律儀というかなんというか……。はぁ……蓮華ちゃんの件はもうすでに犯人の目処は付いているよ。後は現行犯で逮捕出来れば終わるよ。」


 楓の意地っ張りに菫は半場呆れていた。自分の事より後輩の事を心配する楓が真っ直ぐで今度は菫が楓を直視出来ず抱き締めている手に力を加えた。


「わっと……そうなんですか?いつの間に解決まで進んでいたんですか?」


 急に込められた力に驚きながら蓮華の件がもうすぐ解決しそうな事の方が驚きが勝っていた。


「まあ色々とコネを使ってね。それじゃあ蓮華ちゃんの件が片付いたらまた楓ちゃんのカウンセリングの続きをしようか。」


 犯人との交渉を隠しながら楓が納得できるギリギリのところを話した。


 楓は呆気ないほど簡単に解決に向かっている蓮華の件にどこか引っかかりを覚えたが今はそれを追求できるほどの力は残されて無かった。


「はい。でも少し話せてスッキリしました。」

「それはよかった。時間までまだ少し余裕があるしお茶でも飲んで寛いでいようか。」

「そうしますか。では頂きます。」


 二人は時計を見ると8時25分弱と時間に少しの余裕が出来たため、せっかく煎れたお茶を残すのは勿体ないとしばらくお茶を飲み過ごした。

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