筋肉と雨音の不協和音
第1話 筋肉と雨音の不協和音
「アンタのこと……少しは信用していたんだけどねえ?」
「い、いや違う!これは違うんだ!」
夜も明け雲一つ無い空に太陽が昇った平日の朝、櫻井家には命乞いをする声が轟いていた。どうしてこんな事になったのか順を追って説明すると長くなる。
楓が長年の日課である朝の支度をしに悠莉の家へ来るまでは問題なかった。
では、どこで問題が起こったのか。その問題を説明するには昨日の出来事まで遡る必要がある。だがその前に悠莉が命乞いをするまでの朝の様子まで遡ってみよう。
楓は悠莉の父親が仕事でいない時に悠莉の世話を頼まれている。そのため櫻井家の合鍵を貰えるほど信用されていた。その合鍵を使い毎朝鍵がしまっていてる玄関を開けて中へ入り朝の支度をしている。
用途としては他にも楓が両親と喧嘩して家出する時、悠莉に不測の事態が生じた時など何かあれば合鍵をもっているためいつでも家に入れる。つまるところ半同棲といっても間違いでは無い。
この日はいつもと変わらず今日も楓は朝の支度をするため玄関ドアまで来ていた。鍵がかかっているか玄関ドアを引くと、ガチャ……と引っかかりを伝える金属音が聞こえた。
鍵がかかっているのを確認すると、鞄から合鍵を取り出し鍵が閉まっている玄関ドアの施錠を開けて中に入った。
悠莉は鍵を閉め忘れる事が多く何度も楓から注意されていた。今日はしっかりと鍵が閉まっていたため防犯対策が機能している証拠だった。
「しっかりと鍵は閉めていたようね。……まあ何度も注意したし流石に覚えたわよね。っとこの靴……。」
中へ入ると玄関には悠莉の靴ともう一足小さな革靴が置かれていた。いつもと違う風景に戸惑うがすぐに昨日の事を思い出し、靴の主を思い返した。
昨日は小森の相談が解決した後に、紅葉は悠莉に隠し事をしていた事を打ち明けた。それから紅葉は悠莉を騙したと思い詰め自分を追いこみ気を失ってしまった。
気を失った紅葉を背負い悠莉と楓は帰路につき、そのままの勢いで紅葉は悠莉の家に泊まりこんだ。
「そっか紅葉が泊まってるんだっけ、……何もおきてないわよね……。」
今日の楓はいつも通り悠莉を起こすだけでなく泊まりに来ている紅葉も一緒に起こさないといけない。
紅葉が悠莉の家に泊まることはおろか、楓以外の人が泊まりにくること事態が初めてだった。楓は昨晩うら若き男女がどんな夜を過ごしたのか、間違いが起こっていないか色々と確認したいところが多い。
だが確認するにしても本人達を起こさなければ何も始まらない。部員を家族のように大切に想っている悠莉が同じ部員で、しかも後輩の女の子に手を出すような獣とは思えない。
そう頭では考えているが、楓の第六感という女の勘が胸にざわめく何かを知らせている。
楓はそのざわめく勘を確かめるべく真っ先に悠莉を起こすのを最優先にした。
楓はなるべく足音をたてないよう静かに階段を昇り2階にある悠莉の部屋の前まで訪れた。扉には大胸筋モチーフのルームプレートに『悠莉』と書かれてドアにぶら下がっている。
長年一緒にいるがこれだけは何度見ても気持ちが悪いと思い気付かれないうちに取り外す予定になっている。大胸筋が手招くように待ち受けるドアから逃げ出したい程不快な思いに駆られた。
しかしここで逃げるわけにもいかない楓はまだ寝ているだろうとノックせずゆっくりドアノブを下に降ろし、わずかにできた部屋を繋ぐ隙間から気配を殺して悠莉の部屋へと入った。
「悠莉、朝よさっさと起きなさ……い……。こ、これは、どういう……状況なのかしら……?」
言葉を失うとはこの事を言うのかと不思議体験をしている楓の目に飛び込んできた光景は、同じ布団で寝ている悠莉と紅葉の姿だった。そしてこれが朝から家に轟いている悠莉の命乞いに繋がる原因だった。
「これは、どういう解釈をしたらいいのかしら?私には同じ布団に男女が寝ているようにしか見えないんだけど?」
「俺にも身に覚えが無いんだ!本当だ!信じてくれ!?」
聞き慣れた楓の声が朝になっていることを知らせると悠莉の体は習慣になぞるように目が覚めた。
筋肉達も意識が覚醒するのと同じく各々『おはよう、おはよう』と何重もの挨拶が重なり悠莉の寝起きの頭に波を押しつけた。
聞き慣れた筋肉の声だが寝起きに何重もの声が一斉に畳みかけてくる痛さには慣れず頭を押さえたが、今日の筋肉からは聞き慣れない声が混じっていた。
『ナニコレ?ナニコレ?』
聞き慣れない声に悠莉は声が聞こえる方を向くと、そこには楓が拳を震わせ立っていた。
楓が部屋にいるのに違和感は無い。いつも起こして貰っているため何も不思議では無いが、拳を震わせているのに恐怖を感じた。震える拳からは次第に楓の筋肉の声がハッキリと聞こえてきた。
『殴る、痛い、殴る、痛い、殴る、痛い』
目が覚めてすぐ命の危機を感じた。いや、命の危機を感じたからこそ目が覚めた。目が覚め頭が覚醒しても状況が理解できない。
何故楓は拳を震わせている?何故殴ろうとしている?何故筋肉から悲鳴があげる程力を込めている?そして……何故紅葉が同じ布団で、しかも隣で腕に抱き付きながら寝ている?
全くもって状況が整理できないが、悠莉には一つだけわかることがある。このままだと楓から全力で殴り飛ばされる。そうわかった時にはすでに行動は終わっていた。
ベッド上で正座をしながら楓に命乞いをしていた。命乞いをする際にベッドで正座をしたためその衝撃でベットは浮き沈むと軋み音を鳴らした。
ベッドを揺らされ、いつの間にか潜り込んでいた紅葉は半目のままボーッと悠莉と楓を見るとそのまま夢の世界へ戻っていった。
「……ふにぃ……スゥ……」
「寝ないでくれ!?紅葉どういう事か説明を頼むよ!?」
「とりあえず一発いっとく?ねえ?いいわよね?」
「よくねーよ!?待ってくれ!紅葉に話して貰うから!だからそれまでは待って下さい!お願いします!」
相変わらず状況がわからない悠莉は目が覚めたと思われた紅葉に説明を求めたがすぐに寝直してしまい情報を得られなかった。
しかも、情報を得られないだけでは無く楓の拳にも力が溜まりいつでも飛ばしてこれる状態になっている。朝から一体何がどうなっているのか不測の情報が多すぎて悠莉の頭はすでにパンクしていた。
どうすれば一番の最適解になるのか頭を抱え蹲るが何も解決案は浮かび上がらず泣きたい気分だ。自分でもワケのわからない感情に支配され、もうどうしていいのかわからない。
目の前にいる楓の筋肉からは『痛い、殴る、痛い、痛い、痛い』と力が入り過ぎて筋肉から悲鳴が聞こえる。悠莉は力強くなってくる筋肉の声から殴られるのも時間の問題に思えてきた。
「も、紅葉!起きてくれ!頼むから今の状況を説明してくれ!」
「スゥ……スゥ……」
「クソっ!かわいい寝息をたてて爆睡してやがる!寝息……唇……っ!」
腕に抱き付いて小さな寝息を立てながら危機感を感じていない紅葉はスヤスヤと気持ちよさそうに眠っている。
本当は叩き起こしてでも状況の説明をさせたいが体を小動物のように丸め、小さな唇から洩れる寝息が抑止力を働かせていた。紅葉の唇に目がいった悠莉は昨日の一件を鮮明に思い出し、指が勝手に口元へいきあの時の感触を確かめるようになぞった。
そこには甘く小さな柔らかい感覚がまだ残っており、紅葉からされたキスが本当だったことを現していた。
「っ紅葉?あの……起きてくれないか?」
一度女性として意識すると今までのような恋愛感なしの自然体で接するのは年頃の男子としては難しい。悠莉はキスしてからまだ紅葉との距離感を掴めていなかった。
腕に抱き付いている紅葉の体を擦ってもいいのか空いている手は宙をさまよい着地する場所を見失っていた。悠莉のその行動が悪手となり挙動不審な悠莉に楓の不信感は強まった。
楓はまだギリギリ理性を残して言い分を聞くまでは殴りにいこうとはせず、姿勢を低くいつでも殴れる体勢にだけ入った。
「ま、待て!?殴りかかる姿勢に入らないで!?」
「大丈夫よ、なんでそんな挙動不審なのか言い分だけは聞いてあげる。」
「そ、それは……。」
「すぅ……はぁ……、真っ直ぐ行ってぶん殴る、真っ直ぐ行ってぶん殴る、真っ直ぐ行ってぶん殴る。」
「お願いだ紅葉!頼むから起きてくれ!?このままだと……死ぬ!」
昨日後輩からキスされました。など言えるわけが無い悠莉はつい誤魔化すように口を濁してしまい、今の状況でそれは『何かありました』といっているのも同然だった。
悠莉自身も言い淀むのは余計誤解を招くとわかっていたが、男女のデリケートな問題である本当のことをいくら幼馴染みの楓にも言えない。
それに、悠莉は昔楓からの告白を断っている過去もありそれが悠莉の中ではまだ整理がついていないせいで言い辛さが増していた。
八方ふさがりの状況を打破できるのは騒いでも起きる様子が無い腕に付いている紅葉だけだ。今度は何としてでも起こさなければ楓からの拳で命が危ないため体を大きく揺すり
起きるまで声を掛け続けた。
「ん……んん、うぅ……あと……1日……。」
「そんなに待っていられるか!?明日には俺の葬式だぞ!?こっちは1秒でも早く起きて欲しいんだよ!?」
「まあ、1分後にはどうなってるかわからないけどね。」
マイペースすぎる紅葉に悠莉は楓からの殺気に震えながら起こすのを諦めずに声を掛け続けた。
「んぅ……?櫻井……先輩……?」
「おお!そうだ櫻井先輩だ!起きてすぐに悪いが何で俺の布団で寝てるんだよ!?」
「え……?昨日のこと……覚えてないんですか?その……夕飯の後に……」
「え?昨日の夕飯の後って……。筋トレ……は体が軋んでできなくて、風呂に入って、紅葉を空き部屋に案内して、そのまま自分の部屋で寝たはずだが……。」
紅葉はキスの件を上手く誤魔化してくれたが悠莉の記憶に無い事を言われ、悠莉は紅葉を見つめながら昨日の出来事を思い返した。
昨日の事を思い返すとどうしてもあの時のキスの感触が蘇り、それに引っ張られるようにして記憶を掘り返せなかった。
悠莉が思い出すのに苦戦している最中、紅葉は部屋の入り口で攻撃態勢に入っている楓を見て悠莉が必死になっている理由を察した。
どうやらこのままだと誤解が解けないうちに悠莉が殴られる未来は確定しているため、紅葉は助け船を出すため昨日のことを二人に話し誤解を解き始めた。
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