10 最後の戦い
× × ×
思えば、わたしが
この地で長女を出産した後は、日常生活の合間に様々な儀式──神聖大君となったヨハンにまつわる、宗教的・政治的な催し物が差し込まれ、わたしは日々をそれなりに忙しなく過ごしてきた。
おかげで城外にはほとんど出られなかったのだけど、例外的に何度か訪れていた場所がある。
キーファー家代々の当主が眠る、いわゆる『菩提寺』。
中世以前の力強い教会建築に散りばめられたステンドグラスや彫刻の数々が、わたしたちを出迎えてくれる。
エマの奴。どうしてこんなところまで足を延ばしたのやら。てっきり勉強部屋か食堂に行ったものだと思っていた。
愛用の専売公社製『一号汎用馬車』を降り、わたしたち家族は教会の中に入る。
すでに多くの座席が見知った顔で埋まっていた。みんなエマの語りを楽しみにしているようだ。
なにせ、もうすぐ結末だとわかっているから。
所詮は半世紀前の出来事だ。十五年戦争の詳細や裏話を知らずとも、終わりを知らないのは幼い子供くらいだろう。
わたしはあらかじめ用意されていた特等席、演壇近くの座席に腰を据え、膝の上に長男を乗せてやる。
左隣ではヨハンが「勝手に我が家の教会を使うな」と腕を組んで文句を垂れ、右隣では赤茶毛の乙女が「城外まで呼びつけよって。早くしたまえ」と同じく不満そうに唇を尖らせている。
他の聴衆数十名もエマが語り始めるのを待っている。
当の彼女は──いつもどおりの眠たげな表情で、教会の内壁から突き出た袖廊の慰霊碑に目を向けていた。
彼女の背後にそびえる旧教の祭壇より遥かに小ぶりながらも、献花の絶えない石碑には『一六三九年の全ての勇士に捧ぐ』と刻まれている。たしかキーファー家の縁戚にあたるウビオル大司教が
エマは語り始める。
一六三九年。長きにわたる大君同盟の内乱に終止符を打ったのは「共通の敵」の出現だった。
ライム王国側の全面攻勢に対し、時の神聖大君は「新教派の信仰を許容する」「新教徒の権利を保障する」とした宣旨を下した。
すでに『新皇』を称した不届き者は落命している。元来の戦争目的を達した新教派には宣旨を受け入れない合理的理由など思いつかない。
これにより両陣営の間で一時休戦が成立し、次回の大君議会で戦後処理を話し合うことになった。
「せっかく切り取った領地だ! 絶対に手放したくない!」
「奪われた領地を取り戻さねば! あれは父祖より受け継いだ大切な土地なのだ!」
各地の領主たちは大君議会で領地の所有権を認めてもらおうと策を巡らせる。本来ならば領地関連の訴訟沙汰は問注所にて裁かれる決まりだったが、必ずしも自身の言い分が通るとは限らない。他人の土地を切り取った側なら尚更だった。
ゆえに彼らは……特に戦乱の「勝ち組」だった武闘派の領主たちは、さらなる武功を上げることで
「ライム王国、討つべし!」
「侵略者を叩きのめせ!」
「大君同盟万歳!」
諸侯の号令を受け、同盟各地から西部の前線に将兵が送り込まれてくる。
その数は二月初旬の時点で約三万人に達したという。
具体的にはアウスターカップ兵(約一万三千名)、エレトン兵(約三千名)、オーバーシーダー兵(約二千名)、キーファー兵(約二千名)などが主力となっていた。
教派を問わず、家門を問わず、経済的に疲弊しきっているにも関わらず、祖国防衛のために立ち上がった(ように見える)諸侯の姿勢に大君ハインツは感銘を受け、此度の戦いを『諸侯の戦い』と名付けた。大君自身が西部に来ることはなかった。
一方のライム王国側は誤算続きだった。
当時、元服を迎えたばかりでありながら王室親衛隊『侍衛親軍』の司令官だったケーヘンデ公の記憶によれば、兄王アンリ五世の哀惜ぶりは尋常ではなかった。
「……全てはフラッハ宮中伯の死が早すぎたせいだ。あの男には春先まで暴れてもらうつもりだったのに。おかげで朕の軍勢の攻撃開始が大幅に早まった。雪の中を進軍しなければならなくなった。兵は神速を尊ぶ。しかし我らライム人は雪の中では満足に動けん。惜しい、悔しい、情けない。朕はもっと段取りを踏むべきであった……」
「兄上、まだ始まったばかりです」
「とはいえ、だ。不格好な冬季攻勢であれ、十分に奇襲効果は得られるはずだった。西部の同盟諸侯で健在なのはトーア家のみ。奴の兵を圧倒せしめ、一気にライン川を越えられるはずが……なんだ今のザマは……朕は大君になれないというのか……」
「ただちに前線の尻を叩いてまいります!」
アンリ五世を慰めるため、弟ケーヘンデ公はライン川へ向かった。
二月下旬、ライム王国軍と大君同盟軍はライン川の両岸で
迂闊に攻め入るよりも相手側の兵站の息切れを待ったほうがリスクが少ない。お互いに大兵力を展開しているだけに弱点も身に染みてわかっていた。冬の峡谷で穀物を調達し続けるのは至難の業だ。
もっとも同盟諸侯の中にはライン川以西に領地を持つ者もおり、彼らはしきりに渡河攻撃の実施を訴えていた。
一方のライム王国側の陣営においても、後詰めにやってきたケーヘンデ公が「兄上を悲しませてはなりませぬ!」と兵営将校たちの尻を叩いた。
「兵は神速を尊びます。ただちに攻め込むべきです。待てば待つだけ、同盟側の兵力は拡充されていきますぞ」
「お言葉ですが王弟殿。戦では時期を待つことも肝要なのです」
「六万対三万の数的優位を失いますよ」
「我が国は奥州有数の農業国。対して同盟領内の耕地は荒れております。後方より穀物をお運びいただければ、
ライム王国の老将クロード元帥が若者の主張を退ける。
当時のクロード元帥は『東征大都督』の印綬を帯びていた。主君から絶大な信頼を寄せられたからには、小手先の判断が敗戦の呼び水になることを避けたかったのだろう。
散発的な小競り合いを繰り返しつつ、両陣営の睨み合いは三月上旬まで続いた。
折しも雪解けの季節だった。山岳地方の氷河が溶け出し、南部ボーデン湖を経て、ライン川へ流れ込んでくる。
徐々に水位が上がっていく。
例年よりも勢いよく。
やがて、とめどない鉄砲水がライン川を走り抜けていった。
大自然は全てを洗い流してしまった。
約六万のライム王国軍は土石流に巻き込まれ、半数近くが行方不明となった。クロード元帥も印綬と共に沈んでいった。
地元の領主から気象報告を受けていた同盟側は辛くも逃れられたが、洪水が支流を含んだ地域全体に及んだため、被害を免れることは出来なかった。
何もかも洗い流されたことで同盟西部は極度の穀物不足に陥り、あちこちの兵営・村落で餓死者が相次いだという。同盟各地から支援物資が送られてこなければ、誰も生き残れなかったかもしれない。
あの『一六三九年の全ての勇士に捧ぐ』という文字列には、おそらく様々な意味が込められている。
ライン川の右岸に陣取り、精鋭揃いの外国軍の侵攻を押しとどめた将兵。
洪水の惨禍を助け合うことで乗り越えた人々。
そして──それぞれ様々な物を失いながら、自身が勝者にならないという決断を選択できた、数多の同盟諸侯。
一六四〇年。
ヘレノポリス大君議会は十五年戦争の終戦を再確認し、領土紛争については原則的に『戦争前の原状』を取り戻すべし、と決議を採択した。
さらに大多数の諸侯の間で信仰の自由を許容する条約が結ばれ、戦争の原因となった教派対立は次第に和らいでいった。
約三十年後にヒューゲル家の公女が世界を救おうとした「南北戦争」が勃発するまで、同盟市民は曲がりなりにも平和を享受することになった。
めでたしめでたし。
× × ×
物語が終わりを迎えても、各々の人生は続いていく。
時の大君ハインツは平和の訪れを見届けた後に退位を宣言した。大君指名選挙を実施することで次代の七頭の選抜を行い、地位向上を目指す諸侯から献金を受け取るつもりだったとされる。
しかしながら戦争を終えたばかりの諸侯が満足な金を出せるわけもなく、新たな大君には彼の嫡男ハインツ二世が選ばれたものの、トゥーゲント家は「力なき大君」を脱することができなかった。
キーファー公ヨハン二世は七頭に選ばれた。兄である大君を支えるべく諸侯の戦後処理に介入したが、教条的・高圧的な態度のせいで上手くいかず、あちこちで反発を招いたという。
トーア家の嫡男マティアスは洪水のどさくさに紛れ、近隣の小領主を攻め滅ぼした。他にも戦後の混乱に乗じて他家の領地を併合した家が少なからずあった。力なき大君には咎めることしかできなかった。
フラッハ宮中伯家は『新皇』マルセルの死後、血族内で分割相続された。そのうち本家は引き続き三職の格式を保ったが、もはや往年の権勢を取り戻すことはなかった。
ロート伯は自身が果たした役割に満足していた。
若き日に抱いた志を遂げることは出来なかったし、もはや主君に対する恩など一辺たりとも感じられないが、戦争を終わらせた英雄になれた。
もし自分が大君に手紙を出していなければ、新教派と旧教派は対立したまま、約六万名の外国兵に蹂躙されていただろう。トーア家の将兵を預かり、味方が来るまでライン川を守り抜いたのも大きかったはずだ。ロート伯は帰路の馬車中で夢を描く。ヨーゼフ大公から戦勝の褒美に領地をもらえたら、隠居に相応しい別荘を作ろう。のんびり酒を飲み、戦術に関する本を書こう。
残念ながら彼の願いは叶わなかった。なぜなら彼の認識には根本的な歪みが生じていたからだ。
世間は『血まみれ伯爵』を英雄ではなく戦争狂と見なしていた。人殺しを楽しんできた犯罪者、成り上がりの処刑人、血をすすって生きてきた病人。
彼が大君に送ったとされる手紙についても、実際に大君が目を通したという記録は残っていない。そもそも主君を通さずに大君に意見するなど、中世であれば大問題であった。
ロート伯は危険人物としてヒンターラント大公領に戻ってきた。しかしヨーゼフ大公との接見は許されず、エーデルシュタット城にさえ入れてもらえなかった。代わりに与えられたのは一枚の出征令状。
「次の敵は異教徒だ」
「我々だけでトプラク帝国に勝てますかねえ、先生」
「愚問だ」
側近を務める少年将校の問いに即答し、怪物は南方に消えていく。
ヒンターラント大公ヨーゼフは厄介払いを済ませることができた。宮廷の家臣団からロート伯の追放と処刑の二択を迫られ、折衷案として死ぬかもしれない戦場に送り込めた。
彼の家臣団は『殺戮のフロレンティナ』に関する報告を信じておらず、自分たちの子息はロート伯の策略により殺されたのだと考えていたらしい。一部の兵営将校は『殺戮』の存在を証明しようとしたようだが、肝心の死体の山が洪水に流されていてはどうしようもなかった。
ヨーゼフ大公自身は大君即位の夢を叶えられないまま、一六四七年に没した。
ライム国王もまた大君になることができず、こちらは未だに生きているものの極度のストレスで禿頭になってしまった。歯を煙突に投げ込むことで大望を遂げられるとの迷信にハマり、総入れ歯になったのも同じ頃だとされる。
その弟ケーヘンデ公は敗北から学びを得ていた。何もせずに勝利が転がり込んでくるのを待つのではなく、積極的に有利な状況を作り上げていくべきだと。
速攻と「積極的待機」を組み合わせた指揮は各地の戦役で結果を生み出し、彼は若くして「名将」と称えられることになる。
ヒューゲル公爵家は何も得られなかった。それどころか「野盗」「泥棒集団」の悪名ばかりが広まってしまった。
同盟北部で在地領主を打倒することに
逆に言えば『殺戮』に始末されずに済み、土石流に巻き込まれることもなかったわけだが、終戦後のヒューゲル家に向けられた視線は大変冷たいものだった。
こんな状況では交渉など上手くいくはずもない。
いわゆる「未回収のヒューゲル」を三人衆に返すことになり、ヒューゲル公爵家の手元には荒れ果てた本領だけが残された。
さらに長らく戦争に明け暮れていたせいでラミーヘルム城にはおよそ財産と呼べる物がほとんど残されておらず、恩賞を求める家臣団の不満は高まる一方だった。
そこでコンラート六世は一計を案じる。
「仕方あるまい。財政危機の責を被せよう。モーリッツを追放し、家臣たちにはあやつの所領を分け与えるのだ」
「モーリッツ卿は昨夜、自ら城を出ていかれました。妻と娘は遠戚に預けたそうで……」
アルフレッドが力なく答える。すでに彼は別れを済ませていた。
コンラート六世はため息をつく。
「ワシには挨拶も無しか。餞別くらい与えてやったが」
「……与えられるものなどありますかね」
「ガラクタの河川砲艦を売り払ってしまえ。多少の金にはなろうて。我が子パウルの結婚資金にもなる」
「ははあ」
「とにかく今は再起を図る。ワシの代では失敗したが、パウルの子供ぐらいなら成功できるかもしれん。ヒューゲル五百年の願い、旧領回復を果たさねば先祖に申し訳が立たん。アルフレッドよ。お前の役割は大きいぞ」
「いい加減、お互い隠居しましょうや……」
アルフレッドは老公を諫める道を選んだ。
実のところ、別れの際にモーリッツから遊学の旅に誘われたのだが、もはや彼には新しい道に踏み出すだけの気力が残されていなかった。タオン家を次世代に引き継ぐ役目もある。
アニキ、いつか旅の話を聞かせてくだせえ。
もっともモーリッツ・フォン・ハーヴェストは九年後に低地にて客死しており、彼らが再び相まみえることはなかったとされる──。
× × ×
ヨハンはたまに気が利く時がある。
物語の完結を祝うために盛大な晩餐会を催してくれたのもそうだし、終わりまで付き合ってくれた客人たちに茶碗を
一部の茶碗には氏族に応じた紋章が絵付けされており、わたしの席には『
当のヨハンは家族の席を離れ、大広間の片隅で旧友のルートヴィヒ伯から何やら抗議を受けている。
「なして、エマちゃんの話においの一族は出てこね?」
「オレに訊かれても困る」
「おいのだだちゃが、みじょけねだのー」
「お前の父親はどこにも兵を出さなかったから、単に出番が無かったんだろ。文句は先代に言ったらどうだ」
「きけねー」
薄幸の未亡人にしか見えない領主様が、プンスカと駄々を捏ねていた。陽だまりのような美貌に若い衛兵たちが気を取られているのが面白い。
そんなインネル=グルントヘルシャフト伯とは対称的に満足そうな笑みを浮かべているのが、ふわふわブラウンヘアの女商人だ。
彼女は傍らの五歳児の頭を撫でる。
「ふふふふ。早くから読み書きを教えておいて正解だったわね。これなら『十五年戦争記』をわたくしたちで出版できるわ、アルフレッド」
「おー」
亡き想い人の名前を継いだ少年の手には、乱雑な文字列にあふれたメモ用紙が見える。どうやらシャルロッテは出禁を喰らった後も物語を追いかけようと、息子に速記を命じていたらしい。
相変わらずの商魂には感服させられる。ちゃんとエマにロイヤリティを払ってくれたらいいけど。
やがて各自の席に前菜が運ばれてくる。
ジョフロア料理長が腕によりをかけたメニューの数々に舌鼓を打たない者はいない。
もちろんエマだって例外ではない。
デザートにリオレというお米のプディングをいただいた後、わたしの双眸は何も言わずに大広間を出ていく彼女の姿を捉えた。
わたしは子供たちを乳母に任せ、酔いつぶれた様子のヨハンを尻目に、久しぶりに走ることにした。
何事もなく平坦に生きているだけだと、マリー・フォン・ヒューゲルのような人物は滅多に地面を蹴らなくなる。
余所行きのヒールを脱ぎ捨て、廊下の石床に熱を奪われる。
早くも足がおぼつかなくなってきた。
やけに身体が重い。鴨のローストを吐き出してしまいそう。
ようやく追いついた彼女の背中に抱きつき、呼吸の合間でどうにか「待って」の言葉を捻りだせた。
「なに」
「出ていくつもりでしょ」
「なんで?」
「長い付き合いなんだ。心が読めなくても、さすがにわかるんだから」
わたしはエマの小さな耳に触れる。
「何も言わずに酷いじゃないか」
「もう『歴史の授業』は終わり」
「逃がさない。エマにはわたしを看取ってもらう。喪主もやってもらう。ヨハンにやらせてたまるもんか」
「マリー」
彼女はこちらの手を振り払うと、寂しげな目で振り向いてきた。
「ちょっと話そう」
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