9-4 魔法使いの復讐(4)
× × ×
全てがロート伯の思惑通りに進んでいた。
彼が仕掛けた罠の数々が、新教派の将兵を苦しめていた。
例の『鉄茎』で草原をまともに歩けなくなった敵の戦列歩兵は、もはや完全に立ち往生している。
彼我の兵力差は『砂喰い』の汚泥クッキーが埋めてくれた。
フラッハ宮中伯が戦場に連れてこられたのは七個梯団・約四千七百名。それをロート伯の五個梯団がじわじわと取り囲んでいく。
確実に『殺戮』を仕留めるためには全方位一斉攻撃が肝要となる。
ロート伯は副官に狼煙を上げるよう命じた。
水墨画のごとく濃淡が目立つ
総攻撃が始まる。
誤算だったのは予想より早く、強い雨が降り始めたことだ。
銃火器は水気に弱い。旧教派の各梯団は一斉射の後、再装填ではなく銃剣突撃を選択することになったが、当然ながら『鉄茎』は味方にも牙を向いた。
刺突、転倒、抜刀、転倒、殴り合い。
両軍の戦闘はあっというまに原始時代の様相を呈した。めちゃくちゃな泥試合。大雨が喧騒を掻き消し、泥濘が両陣営のジュストコールを同じ色に染めていく。
「何というブザマだ」
ロート伯は親指の爪を噛む。トランペットで後退命令を出しても前線には伝わらない。
かくなる上は自分の手で。
彼は愛馬にまたがり、サーベルを抜いた。本来はトドメに使うべき騎兵隊数十騎を自ら引率する。
彼の脳内には『鉄茎』を仕掛けた範囲が叩き込まれていた。馬がカチコチの草むらに足を取られないよう、安全なルートを組み立てながら走る。
「魔法使いだ」
ロート伯の狙いは『殺戮』ただ一人だった。
どこにいる。
すぐ後ろをついてきていたイルムシャー伍長が唐突に落馬した。
あいつにやられた。
「どこだ! フロレンティナ!」
ロート伯は前線の
見当たらない。相手がこちらを見ているなら、こちらも相手を視界に捉えられるはずなのに。
雨足が強くなる。繊細な愛馬が雨粒を嫌がっている。
彼は何気なく屋根を探してしまい、前線の片隅に板張りの小屋を見つけた。駄馬に牽かれ、前後に車輪が付いている。後部の扉には締切用の「かんぬき」が掛けられていた。
「あれは……
ヴィラバ人が作り上げた戦闘用の特殊馬車。
フラッハ宮中伯は銃兵の代わりに魔法使いを潜ませたのか。あの銃眼から『殺戮』の魔眼が覗いているのか。外の自分たちを。
「絶対破壊だ!」
ロート伯の騎兵隊は前線に突入する。
新教派の戦列は完全に崩れており、方陣や槍衾で行く手を阻むような気配すら見えない。
彼は装甲馬車の銃眼の死角に入り、一気に距離を詰める。
刹那、愛馬が撃たれた。武人の象徴・弓矢に後脚を射抜かれた。
ロート伯は落馬しそうになったが、必死にこらえた末、装甲馬車の御者席に飛び乗ってみせた。
「うわあああっ!!」
一心不乱に殴りかかってきた御者の胴体を銃剣で仕留め、弓矢から身を守るための盾代わりとする。
ロート伯は打ちつけるような雨粒に耐えながら思考を巡らせる。
馬車を破壊したいが、雨の中では火薬を使えない。
砲撃も敵わない。
今、御者席の背もたれの向こうには『殺戮』が潜んでいる。彼我の間は装甲板で仕切られているが、生存本能が恐怖を訴えてくる。
馬車の中には入らない方が良い。
かといって外で悠長にしていたら矢の的になりかねない。あれは手練れの技だった。
熟慮の末、ロート伯は輓馬の手綱を握った。
「前進だ!」
馬の尻に鞭を打ち、装甲馬車を平原の窪みに向けて走らせる。
あの辺りには『鉄茎』の罠が仕掛けてある。
ゆるやかな下り坂の途中、速度を上げていた馬車の左前輪がつまづいた。
わずかな浮遊感の後、二頭の輓馬が前のめりに倒れる。馬車が再び浮く。狙いどおりに横転してくれた。
ロート伯の身体は御者席から空に放り出される。
「ぐっ」
幸いにも鉄の葉ではなく柔らかい草地が受け止めてくれたが、窪みのほうに転がり落ちてしまい、全身が酷く痛んだ。
少し背中を打ったらしい。動けそうにない。
どうにか肘の力で上半身を起こそうとするも、堪えきれずに脱力してしまう。それでも視界の端に、わずかながら馬車の様子が捉えられた。後部の扉から金属が這い出てきていた。
あれは……ここでロート伯の意識が飛ぶ。
× × ×
冷たい雨が降り続いている。
指先が泥に埋まり、騎兵靴の中が水気で
他人より狭い視界には変わらず灰色に濁った雲が広がり、より暗くなった印象を受ける。
どこにも太陽が見えず、時刻がわからない。
ロート伯は懐中時計を取り出す。さほど時間は経っていない。まだ『殺戮』が近くにいる。
目立たないように少しずつ脇腹を
わずかに視界を上げてみれば、斜面に
ロート伯は手近な死体に這い寄り、ジュストコールの色を視認する。赤色。味方ではない。宮中伯の家臣だ。
雨音が雑音を掻き消してくれる。彼は死体の腰帯から予備の銃剣を抜き取る。草むらの中に潜ったまま、装甲馬車の方向へ這っていく。
堅牢な馬車が半壊していた。水浸しの車内には敵兵の死体が見える。傍らに板金鎧の
御者席の先では、二頭の輓馬が倒れたまま死んでいた。どちらも脚が折れていた。人為的に殺処分された形跡は見られない。きっと「あいつ」に介錯されたのだろう。
温情だ。ロート伯は心中で呟き、輓馬の胴体に隠れるようにして周囲の様子を窺う。
窪地の底から草原の歪んだ稜線を見上げれば、緩やかな丘の上に人影が見えた。
さながら死体の山に立つ『王者』のようだった。
ロート伯は右手の掌に銃剣の柄を添える。
逆持ちで握ったまま、ジリジリと草地の斜面を這い登っていく。
途中、身なりの良い男性の死体に出くわした。立派な合成弓が足元で泥にまみれていた。よもやフラッハ宮中伯本人に狙われていたとは。
光栄なことだ。ロート伯は弓矢を拾わずに草むらの潜行を続ける。雨天の狙撃など常人には模倣できない。
外した時の「反撃」を考えれば、自分の手で確実に仕留めたほうが低リスクだ。
ロート伯の視界が人間の輪郭を捉える。
鈍色の板金鎧の上に後頭部が据わっていた。体格を計り知ることはできないが、
彼女は丘の上から辺りを
まるで何かを探しているかのように。
降雨に紛れ、少しずつ這い寄り、息を整える。やれる。歴戦の猛者は『殺戮のフロレンティナ』に飛びかかった。
「!」
両腕で強引に羽交い絞めを行い、右手の銃剣を首の皮に突き立てる。微弱な抵抗を筋力で抑える。左手の指先で相手の顎を掴む。これで振り向けないだろう。
わずかに女の匂いがした。戦場では滅多に味わえないもの。
「同盟人……!」
女の声。訛りの強い同盟語。
ロート伯は答える。
「そうだ」
「××××、×××!!」
「そうか」
彼は相手の首に銃剣を突き刺した。一通りの
彼女が動かなくなるまで顔を地面に押しつけ続ける。
顔を見たいとは思わなかった。
新たな『王者』が丘の上に立つ。視界が
眼下では少数の兵士たちが小競り合いを続けていた。あれは戦争ではない。おそらく遺留品の取り分で揉めている。
ロート伯は足元の死体に目を向ける。
世にも恐ろしい『殺戮』があの敗残兵どもを殺せなかった理由を考える。板金鎧。装甲馬車。籠城戦の回避……なるほど。お前の能力は「見つめた相手を殺す」ではなく「目が合った相手を殺す」だったか。
だから会戦の前線で目立つ格好をしていた。籠城戦では堀を挟む関係上、彼我の距離が遠く、目線が合いづらい。
装甲馬車は──敵味方関係なく殺してしまうお前を適切に利用するための安全装置だ。
板金鎧を含め、お前を拘束し、視界を限定しなければ、新教派にとっては危なくて仕方なかったのだろう。
だからお前は兜を取った。
ロート伯は斜面を下りていく。
あちこちの戦死者からサーベルや武器を頂戴し、生き残りの味方将兵には声をかけ、雨が止んだ頃には、わずか十数名ながら味方の陣地まで戻ることができた。
会戦地から少し離れた陣地では出番がなかった砲兵隊と、早々に逃げてきたらしい一部の梯団指揮官が出迎えてくれた。
「総司令官殿。生きておられましたか」「我々もどうにか」「どうぞ焚火の近くへ」
「ヴルカン大尉、ミッテルベルク大尉、オプスドルフ大尉。お前たちは敵前逃亡の罪で処刑だ」
「ひえええっ!?」「お待ちくだされ、我々は何も」「お許しを」
「問答無用だ」
ロート伯はサーベルを抜いたが、斬りかかる前に気力が抜けてしまった。
身体が酷く疲れている。全身が熱い。
原因は言うまでもなく降雨に晒されたことによる風邪だった。歴戦の猛者とはいえ高熱には勝てず、二週間ほど近隣の修道院で生死の境目を彷徨うはめになった。
その間に三人の大尉は密かにヒンターラント大公領まで帰ってしまい、ロート伯の下には若干の歩兵とユリウス少尉の砲兵隊のみが残された。
× × ×
一六三八年・十二月。
修道院の厨房でリンゴを食べていたロート伯の元に、雪中行軍用の
ボロボロのジュストコールの袖には『一剣二鍵』の紋章が刺繍されている。
「トーア侯の家臣だ」
「いかにもそのとおりでございます。拙者、兵営大尉のナイグンと申します。火急の要件ゆえ、ぶしつけながら閣下には今すぐにもフェルゼンベルク城に向かっていただきたく……」
「本当にぶしつけだ」
「しかし……申し訳ありませんが、このままでは我が君が……」
「今、同盟西部に敵などいないはずだ」
ロート伯は手持ちの地図を広げる。先日フラッハ宮中伯を戦死させ、新教派の主力部隊が『殺戮』された。
もはやトーア侯に立ち向かおうとするのは、ごく一部のフラッハ家の遺臣くらいだろう。そんなものは片手で叩きつぶせる。
城主が消えたフェルゼンベルク城など落として当然、救援の必要性を微塵も感じられない。
しかしながら、ロート伯が床に臥せているうちに情勢は変わっていたらしい。
ナイグン大尉は驚いた様子で目を見開く。
「ご存じありませんでしたか。今現在、同盟西部には約六万の軍勢が攻め寄せてきております」
「その数……ライム王国だ」
「はい。ですから総司令官閣下、なにとぞ救援を。今は抵抗できておりますが、このままでは我が君が……」
「大君同盟が吞み込まれる」
ロート伯は天を仰ぐ。
思えば、今回の戦争の背後には、常に狡猾なライム国王の影があった。
あの男は熱心な旧教徒でありながら大君同盟の新教派を密かに支援してきた。
一六二六年。ドライバウム伯がフラッハ宮中伯の居城に入った時、城内にはなぜかライム王家の枢機卿がいた。
一六三〇年のセルヴヌマ王国、一六三八年のスカンジナビア帝国の対外出兵を資金援助したのは何者なのか。
他にも低地人の抵抗集団がライム王国製の銃火器を持っていたり、オエステ王国との国境地帯に兵団を送りこむことで彼らの動きを封じたりと、ライム国王・アンリ五世の怪しい行動は枚挙に暇がない。
そして今回。満を持して全力で攻め込んできた。
アンリ五世は
そのためなら手段を選ばないらしい。
「相手は
「して、総司令官閣下の主力部隊は今いずこに?」
「黄泉の国だ」
ナイグン大尉の問いに答えつつ、ロート伯は方策を練る。
このまま大君同盟がリンゴのように
おそらく最後の「志士」たる自分には、まだ為すべきことが多くある。
たとえ勝てる見込みがなかったとしても……このような終わり方、到底納得できるものか。
「…………総動員だ」
ロート伯は厨房の調理台で手紙を書き始めた。宛名はハインツ・リヒャルト・フォン・トゥーゲント。時の神聖大君であった。
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