3 勝利の幻影


     × × ×     


 フラッハ地方に新教派連合が迫ってきている。助けてほしい。

 フェルゼンベルクのウルフルス伯の手紙は、遥か彼方のヒンターラント兵営にも届いていた。

 兵営総司令官・ドライバウム伯は往年の同僚を救うべく、約二万五千名の将兵と約三百名の従軍僧を引き連れ、速やかに進軍を開始した。


 彼らは分散と集結を繰り返しながら、堂々たる縦隊を組み、西街道を進んでいく。

 その中に『血まみれ伯爵』ロート伯──当時のアントン大尉の姿もあった。


「師匠。なぜ我々はヘレノポリスを経由しないのですか?」


 行軍の途中、彼の門下生が訊ねてくる。

 アントン氏の梯団は私塾時代の生徒たちが下士官を務めており、師弟の問答が日常的に行われていた。

 師匠の答えは常に端的だった。


「荒廃だ」

「なるほど。あの辺りは交通の要衝。各勢力が進軍を繰り返しており、もはや地元の村から兵糧を徴収できないと」

「左様だ」

「ありがとうございます!」


 門下生が声を揃える。

 そんな彼らに前線でムチを打たれる予定の兵士たちは欠伸を堪えきれずにいた。


 こんなガキどもに指揮されるとは。『草莽の志士』だか知らねえが、こいつらだって俺らと同じで生活のために武器を持ったんじゃねえのか。


 兵卒の目に見えぬ不満を感じとり、アントン氏は一計を案じた。


「配給だ」


 彼は兵卒の不平不満が根本的には軍隊生活の過酷さにあると見抜いていた。

 そこで門下生の中から騎乗できる者を選抜し、彼らを「配給騎兵」と名付け、果実酒や菓子類を買い出しに向かわせた。

 嗜好品を自前で調達できれば、兵士たちに日々の楽しみが生まれる。

 さらに門下生=下士官が馬上から兵卒に「与える」という形式を取ることで、彼らに上下関係を植えつけることもできる。


 フラッハ地方に辿りついた頃には、アントン隊の将兵は一つにまとまりつつあった。


 一六二六年・十二月。

 山間部では粉雪がちらついていた。峡谷の底から気の滅入りそうな曇天を見上げていた彼らは──突如『長梯子』の梯団旗を掲げた部隊から襲撃を受けた。


「野伏だ」


 アントン氏は新教派の待ち伏せを予測していた。

 あらかじめ門下生たちには敵の強襲部隊を引き込むよう指示しており、行進中の縦隊をコの字にたわませることで半包囲の陣形を取った。


 若き下士官が射撃指示を飛ばす。


「斉射! 新教派に天誅を!」

「ひいいぃっ」


 アントン隊の集中砲火を受けた『長梯子』の歩兵たちが、敵味方の死体を踏みつけながら山の中に退いていった。


 前方の街道上では、別の梯団が斜面を転がり落ちてきた丸太を弾避けに使いつつ、敵兵に反撃を試みていた。

 峡谷のあちこちでマスケットの発砲音がこだましている。混乱した将兵の騒ぎ声が副旋律を奏でている。それらもやがて止む。


 戦況報告のためにアントン氏がドライバウム伯の本隊陣営に向かうと、総司令官はいつものように聖母像に祈りを捧げていた。


「ああ聖母。ああ聖母……おや。アントン・ロート・フォン・シェプフング大尉。何事ですか」

「敵を退けました」

「敵? ただの野盗ですよ。気にせず進軍を続けてください。御心と共にあらんことを」

「ははっ」


 当時のドライバウム伯の超然ぶりにアントン氏はいたく感心したという。

 それは初めて命の取り合いを経験した彼自身の昂ぶり様と対照的で、もはや二度と雄弁を振るえないほどに焦燥しきった一部の『志士』たちとは、比べることさえおこがましい──。


 赤茶毛の乙女が悩ましげに下唇を噛む。


「そうか。アントンには罠を読まれていたのか。そうなるとそれがし……コホン。モーリッツ師匠の作戦がダメだったというより相手が一枚上手だった。もっといえば、アルフレッドの待ち伏せがバレバレで杜撰だったのだな」

「偉い人が強引な理屈で下請けに責任転嫁してる」

「エマちゃんきらい!」


 図星を突かれて子供返りしてしまった乙女おじさんはさておき。

 当時のヤンチャ坊主だったタオンさんは初めての敗北をどのように受け止めていたのだろう。


 わたしは語り部に訊ねてみる。


「エマ。返り討ちにあった先代公やタオン卿たちはどうなったの?」

「生き残りの千五百人でラミーヘルム城まで逃げていった」

「モーリッツ卿の指示に従ったんだね」

「そのせいでヒューゲルは『フェルゼンベルク大会戦』に参陣できなかった。アルフレッドは待ち伏せの失敗と、味方を助けられなかった憂さ晴らしを……これ以上はネタバレ」


 エマは指先で『×』を作る。

 別に歴史を知らないわけじゃないから、ネタバレなんて気にしないのに。予想は出来るし。


 わたしが何となく指先で『〇』を作ってみたら、我が家の愛すべき魔法使いは少し微笑んでくれた。

 きっとGOサインと受け取られたのだろう。彼女は手元の冊子をトントンと整えた後──物語を続ける。


 ヒューゲル兵を退けたアントン氏たちは夕方にはフェルゼンベルク城に辿りついた。

 川沿いの古びた石橋のたもとから山裾まで赤茶色の城壁が続く、大掛かりな関所のような城だったという。

 ニキビが目立つ年頃の司祭が大急ぎで出迎えてくれる。


「はるばる東国からよう来られました! ヒンターラントの皆様に祝福あれ!」

「神父殿。ウルフルス伯はどちらに?」

「伯爵は凱旋門より出撃なさいました。ここより北東の河原にて、異端の軍勢に決戦を挑まれております。すぐに救援を!」


 司祭の返答に総司令官ドライバウム伯は胸の前で十字を切った。

 そして部下のアントン氏たちに「身体を休めてください」と告げたという。


 なぜ味方を助けに行かないのか。

 アントン氏は当然のように疑問を抱いたが、相談しようにも同僚の『志士』たちとはまともな会話ができそうになく。

 彼自身も心身の疲労に伴う強烈な睡魔に敗れてしまった。


 翌朝。フェルゼンベルク城の近郊に新教派連合の大部隊が迫っていた。

 山上の展望台に向かったアントン氏は、必死でこちらに逃げてくる味方兵の姿と、トーン川の右岸街道をなぞるように迫りくる『二対の鉄鶴』『笹といたち』『九つの星』の梯団旗を視認した。

 ジューデン公。グリュンブレッター辺境伯。オーバーシーダー公。

 同盟北部の名高き大領主が新教派に堕ち、神聖大君同盟を切り裂こうとしている。


「約二万の逆賊だ」


 アントン氏は報告のために城内のドライバウム伯の元に向かうが、将官の臥所ふしどでは外国人の枢機卿が独り欠伸をしているのみ。

 ならば。彼は城内の教会に出向いた。

 案の定、総司令官が聖母に祈りを捧げていた。その修道士のような背中に、アントン氏は言い知れぬ不安を感じる。


「……その足音はアントン・ロート・フォン・シェプフング大尉ですね」

「敵が来ました」

「落ちつきなさい。我が友ノルベルト・グラーフ・フォン・ウルフルスにはフェルゼンベルク城にて態勢を立て直すよう指示しています。もはや私たちは勝利したのです」

「まだ一発も撃っていません」

「新教派の指揮官はフェルゼンベルク城に我々がいることを知りません。知っているなら、でしょう」

「昨日の『長梯子』の敵兵が伝えた可能性は」

「あれを敵兵と見なすとは、つくづくアントン大尉は純朴ですね。野盗にそんな知恵があるものですか」

「…………」

「さて。私たちで異端者しんきょうはを驚愕させてやりましょうか」


 老壮の総司令官が静かに立ち上がる。


 彼の予想は当たっていた。

 前日の会戦でウルフルス伯の兵団を散々に打ち破った新教派連合は、討ちもらした五千名にトドメを刺すべく城に総攻撃を仕掛けてきた。

 ところが城の守りは想定より固く、寄せ手の兵士たちは疲弊するばかり。

 ついには「城の中から突如現れた」約二万五千名のドライバウム兵団による反攻を受けてしまい、前日の勝利に酔いしれていた新教徒たちは一転して絶望のどん底に突き落とされることになった。


「新教派が逃げていきます!」


 アントン氏の門下生が両手を突き上げながら叫ぶ。

 目の前でグリュンブレッター兵が戦列を崩していく様子に、若きアントン氏はわずかに勃起を覚えた。

 すかさず門下生の『配給騎兵』が果実酒ではなく槍を携え、敵の赤服たちを串刺しにしていく。


 勝利だ。勝利だ。勝利だ。血が沸き立つ。全身を興奮が駆け巡る。

 彼が自身の右目を失っていたことに気づいたのは、なんと翌日の朝だったという──。


「わかるわかる。僕も戦場で頬を斬られたのに、全く気づきませんでしたから」

「カミル様。もう心配させないでくださいまし。カミル様を失ったら、わたしは生きていられ……!」

「ああっエリザベート! わかった。余は二度と戦場には行かん。今後はブッシュクリー中佐に全て任せよう!」

「カミル様……!」


 いつものように抱き合うヒューゲル家の夫妻。周りには子供たちがへばりついている。


 エマが連日語り続ける『歴史物語』の内容が評判になっているのか、わたしの談話室には付近の知り合いがどんどん押し寄せてくる。

 初めは二人きりだったのに。ヨハンにモーリッツ氏にシャロにカミルたちまで……さりげなく女中さんの傍らにティーゲル中尉の姿まで見える。


 この調子だと明日には会話に出てきた「白髪の中佐」も現れてしまいそうだ。

 苦手だから出禁にしてもらおうかな。

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