4 遙かなる希望


     × × ×     


 赤ん坊が指を舐めている。

 わたしはゆりかごから子供を抱き上げ、彼女の小さな口元に乳首を宛がう。濡れた唇に包まれる。


 生後半年までもう少し。首が据わってから抱きやすくなった。

 愛おしい。鼻の形がエヴリナお母様によく似ている。きっと美人に育つはずだ。それを見てあげられないないのが、いつも辛い。


 自分の死期が近づいている。

 身体に異常は無いけれど、そのうち死ぬのは明らかだ。

 子供を抱くたび、旦那に抱かれるたびに「来年も生きていられる根拠」を探してしまうけど。

 前任者の存在と「管理者は生者に関与できない」という原則ルールを打ち破れずにいる。

 すなわち魂の生命力には限りがあり、わたしの命数は尽きかけているが、残念ながら補充する方法がない。

 何よりエネルギーの浪費を嫌がる管理者が、わたしのために特別な対応をしてくれるとは思えなかった。

 なにせ『この世界』の説明すら省いた連中だ。言葉を教えてくれなかったせいで勉強が大変だったなあ。


 結局、井納純一だった自分わたしはマリーとして消え去るのだろう。心も身体も。何もかも。

 せめてその日が来るまでは、わたしの子供たちに愛を注ぎたい。


 元気いっぱいに母乳を吸い終えた赤ん坊と共に、わたしは談話室に戻る。


「やあやあ! 我こそはオストプリスタ家のミヒェルなり!」

「ジークフリートよ! フリューミーヤよ!」

「キャッキャッ」


 談話室の窓際でヒューゲル家の子供たちが遊んでいる。

 その中にヨハン四世も混じっていた。ヒューゲル公カミルの長女におでこを撫でてもらい、照れくさそうにしている。

 そんな少年の腰を父親が持ち上げる。


「どうせならオレたち家族で座ろう。おい、そっちのソファを空けてくれ。なるべく語り部の近くがいい」


 ヨハンが楽しげな面持ちで車座の中心に戻っていく。

 わたしは彼の傍らに座り、父親の太腿ふとももにしがみつく長男の頬を撫でる。

 あなたはキーファー家の血が強そうだね。

 我が子の猫のような反応が愛おしい。


「ふわぁぁぁ」


 兄にかまってばかりで嫉妬されちゃったのか、赤ん坊が泣き出してしまった。

 よしよし、と少し揺らしながらあやしてあげる。

 どうにか収まってくれた。


 わたしはエマに向けて手を合わせる。


「へへへ。ごめん」

「何が?」


 語り部は満足げにお茶をすすり、お腹が空くまで物語を続けてくれた。

 足元に寄ってきた子供たちにも理解できるように。これまで話したことを丁寧に噛み砕きながら。

 さながら雛に餌を与えるかの如く。


 夕方になると厨房から良い匂いがしてくる。

 ここまで大人数が集まってしまうと、もはや晩餐会になってしまう。ジョフロア料理長も大忙しだ。

 本日のメインは甘鯛のムニエル。ほんのり酸味のあるクリームソースがさっぱりしていながらも味わい深い。百点満点。

 みんなで舌鼓を打ち、軽く酒を飲み交わし……また明日。


 わたしは欠伸を堪えきれずにいる長男を世話係のアンネさんに任せ、赤ん坊のほうは乳母のモニカさんに預かってもらう。おやすみ。


 あとは旧ラミーヘルム城と同様の間取りで拵えてもらった『勉強部屋』で寝間着に着替え、独りで閨房ねやに戻る。


「戻ってきたか。見ろ。今夜は月がよく見えるぞ。低地の船乗りが喜びそうだ」


 ヨハンがワイングラス片手にバルコニーから夜空を眺めていた。


 わたしは何も答えずに彼の背中に抱きつく。

 彼が愛してやまないものを薄布越しに押しつける。


 愛を注ぎたいのは子供たちだけじゃない。

 未だに欠点ばかりが思い浮かび、人格的には良い所を探すほうが大変な奴ではあるけれど。


 わたしはこいつを手放せない。


「ふん。近頃ずっとだが、女から誘うとロクなことにならんぞ。神話にそういう話があるとドーラが話していた」

「わたしを嫉妬させたいのですか」

「お前が酔うとは珍しいな」


 ヨハンがバルコニーからワイングラスを投げ捨てる。

 あなたのほうが酔っていますよと言いかけて、力強く唇を塞がれる。


 悔しい。注ぎたいのに注がれてしまう。鍛え上げられた肉体から澱みなく溢れ出す活力が、気持ちが、吐息と舌を伝ってくる。

 彼の指先がわたしの目元を拭った。こぼれた雫が乾かない。彼我の生温かい空気が、互いの顔を湿らせている。酒の匂いが鼻腔に伝わる。


「随分反抗的な目じゃないか」

「辛いのです」

「生理か?」


 単純な反応に呆れてしまうけど、ヨハンとはこういう奴だ。

 わたしは彼の胸板を強めに叩く。


「わたしが同じ人生を繰り返していたことはお伝えしましたよね」

「まあな。ババアには見えないちちだが」

「もうすぐわたしは天寿を全うします。元々七十五年が限界でした。天命には逆らえません」

「バカを言え。お前にはあと十人産んでもらうつもりなんだぞ」


 それは生き続けていられてもお断りしたい。心身が持たない。

 ヨハンはこちらの表情から何かを察したのか、おもむろにわたしを抱き寄せ、さらりと指先で髪を撫でながら、廊下に向けて叫ぶ。


「エーリッヒ!」

「ハッ」


 靴音。閨房のドアが開かれる。

 男に抱かれたままでは汗の匂いと指圧が伝わるばかりで出入口の様子が窺えないけれど、呼ばれた名前からしてヨハンの側近だろう。

 エーリッヒ・フォン・ヴェストドルフ。忠臣の祖父からキーファー家の首席大臣を引き継いだ若者だ。一周目ではシャルロッテから中古本を売りつけられていた。


 ヨハンがわたしの旋毛つむじあたりを強く嗅いでくる。


「大君勅令を出す。口述する。エーリッヒには書き留めた内容を法官に伝えてもらう」

「仰せのままに」

「我が名において我が最愛の妃・マリーの死期を七十五年後の一七五〇年とする。以上だ」

「畏まりました」


 形式的な靴音。閉まる扉。

 形式的な──中身を伴わない命令。

 それにどれほどの愛情と執着が詰まっているのか。

 伝わらないわけがない。


「ヨハン様」

「なんだ」


 愛しています。



     × × ×     



 深夜。疲れ果てた肉体に鞭を打ち、わたしは痕跡だらけの裸体を香水とローブで包んだ。

 眠ったままの大君陛下にしばしの別れを告げ、静かに閨房を後にする。


 勉強部屋では眠たげな表情の魔法使いが欠伸をしていた。


「ごめんねエマ。待たせちゃった」

「待たせすぎ。モーリッツに『ファントム・メナス』から『帝国の逆襲』まで語るハメになった」

「パウルの子女、申し訳ないがヨハン様ともう一回戦してくれないか。ルーク・スカイウォーカーが宿敵の正体を知ったところなのだ」


 赤茶毛の乙女に懇願される。

 ロウソクに照らされた顔は相変わらず綺麗だけど、反応に困るなあ。


「いや……あの人、もうイビキかいてますし……」

「チッ。やはり時間を忘れて目合まぐわっていたか。言い出しっぺがけしからん」

「カマかけたんですか!?」

「お前の部屋の奥女中が午前零時よていのじかんに声をかけなかったということは、まあそういうことだろうよ。単純な推理に過ぎん。全く間接的に見せつけよってからに! いやらしい!」


 モーリッツ氏はプンスカと頬を膨らませる。

 何となく指先で突いてみたら「それがしを侮辱しているのか!?」と怒られてしまった。ごめんなさい。


 ひとまず、わたしのお気に入りだったドレスを一着差し上げることで彼には手を打ってもらう。

 エマにもあげるつもりだったけど「サイズが合わない」と断られてしまった。そんなの衣装係に直してもらえるのに。


 わたしは机上の赤ワインを手酌する。

 こんな深夜に、二人に来てもらったのは他でもない。歴史の話を進めるためだ。


 近頃はエマの説話を目当てに──実際には若き大君陛下とお近づきになるために、談話室を訪れる者が後を絶たない。おかげでエマの物語は何度か『初めから』を繰り返している。モーリッツ氏がラミーヘルム城に戻ってきたくだりを何度も聞かされ、本人もうんざりしていた。

 さらに来週の始めには北の大国・アウスターカップ辺境伯の奥方まで来られるそうで、こうなると完全に「外交の場」になってしまう。

 エマのぶっきらぼうな物言いが、外交問題を引き起こしたら大変だ。おそらく彼女の発言は制限される。そんなのつまらない。


 だから、わたしはこっそり続きを聞かせてもらうことにした。

 皆が寝静まった夜遅くに。


「……本当に待たせてごめんなさい。旦那が離してくれなくて」

「ふうん」


 モーリッツ氏から氷のような目つきでにらまれる。

 この人……なんで中身オッサンのくせにヨハンに惚れたんだろう。


 わたしが膝をついて頭を下げると──赤茶毛の乙女は可憐に笑ってくれた。エマもつられてか、笑みをこぼす。

 やがて、再び歴史の話が始まる。

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