9-11 王手
× × ×
三月中旬。
雪解けのぬかるみを踏み荒らし、紺色の制服が南街道を北上してきた。
アウスターカップ第二軍団。総兵力・約二万五千名。
我が家の関所を強引に抜けようとした彼らは、ガトリング砲の掃射によって少なからぬ死者を出した。
「なんだあの大砲は!?」
「退けえ! 退けえ!」
紺服たちは銃弾の雨から逃れるように退いていく。
相手方の司令官・グリツィニエ大将は間抜けではなかったようで、二度目の強攻は仕掛けてこなかった。
彼らは近くの自由都市を占領すると、周辺地域で穀物の徴発を繰り返した。よほど空腹だったのだろう。地元の市民にとっては厄災そのものだ。
一部の若者たちは「紺服に仕返しがしたい」とヒューゲル兵営の門を叩いてきたが、ブッシュクリー中佐は間者が紛れているかもしれないと考えて追い返したという。
北からはヨハンたちが戻ってきた。
大広間には他にエマやフランツの姿が見える。久しぶりの再会だ。
「エマ、おかえり!」
「ただいま」
「おい! オレにはかける言葉がないのか」
公女が初めに声をかけたのがエマだったことに対し、ヨハンは怒りをあらわにしていた。
しょうもないことで目くじらを立てなくてもいいだろうに。
「おかえりなさい、ヨハン様」
「ああ」
彼は笑みを浮かべる。
おのずと抱擁する流れになる。やはり筋肉がゴツゴツしている。衣服が泥臭い。ドレスに移ったらイヤだな。
彼の腕の中でしばし目をつぶってから、公女は女中さんを呼んだ。
「モニカ、こちらに」
「はい」
彼女に手を引かれ、大広間に幼児が入ってくる。
子供用のジュストコールを身にまとった男の子だ。
一人で歩けるようになったからか、しきりにモニカの手を振りほどこうとしている。可愛い。
「あれがオレの子か!」
ヨハンは公女を放し、駆け出した勢いのまま子供を抱き上げた。
いきなりすぎて子供のほうはビックリしてしまっている。目が丸い。
「あの、だれ……」
「オレはお前の父だ。栄えあるキーファー公でもある」
「ちち」
「……ふん。マリーによく似ているな。ヒューゲルの血が強いとみた。本当にオレの子なのか」
ヨハンはこちらに訝しげな目を向けてくる。
めちゃくちゃな冗談を言ってくれるなあ。全力で張り倒してやりたい。
「どう見てもヨハン様とそっくりでしょう。気も強いですし」
「ならばキーファーの血統とみてよさそうだな。若きヨハンよ、お前が次の当主だぞ。いずれは大君ともなろう」
「たいくん?」
「世界一の男だ」
ヨハンは子供を抱き抱えたまま、
子供のほうは父親の衣服の匂いを好まないようで、どうにか腕の中から逃げ出そうとしている。可愛い。
若き父の両目が公女を見据える。
「マリー。よくぞ我が子を産んでくれた。心より感謝させてくれ」
「はい」
「……あとでまた仕込んでやる」
「ひゃっ」
こちらのお腹に手を添えられ、ポソッと耳打ちされてしまった。
あとで……仕込むとは……。
近くでため息が聞こえた。
「ウソでしょ。そんなので赤くなっちゃうの。バカなの。愛は盲目なの」
「う、うっさいな! だいたいエマにはこっちだって言いたいことがたくさんあるんだよ!」
「エマにもたくさんある」
彼女は一枚の紙を見せてきた。東方民族風の中年男性の似顔絵が描かれている。
筋肉質で首が太い。山岳地方の
「この絵は例のシベリアの人だね」
「そう。捕虜の記憶から再現した。名前は『反転のアジャーツキ』。本名は誰も知らない。元々はローセ人からそんな風に呼ばれてたみたい」
「反転……時間の逆回しか。やりすぎてビッグバンまでやり直すはめになっちゃうとか」
「そんなに強くない。十五メートル以内のあらゆるものを『裏返し』にできるだけ。小学校の赤白帽みたいに」
小学校の赤白帽。すぐには思い出せない。あれか。体育の授業で被っていたやつ。懐かしすぎる。
リバーシブル方式で表裏をひっくり返せるんだよね。
「……エマ、そんな些細な能力で本当に世界を滅ぼせるの?」
「少なくとも人は殺せる。心臓を逆剥きにされたら誰でも死ぬ」
「けっこう強いなあ」
「だからアウスターカップは騎兵突撃用の切り札にしてる。でもマリーが言うように世界は滅ぼせないと思う」
エマは指先で袖を掴んだまま外套を脱ぎ始めた。
当然、服がひっくり返って、貧相な裏地が表に出てしまう。ウチの子がよくやっちゃうやつだ。
エマにはもっと品質の良い衣服を差しあげたい。
「ん。これで世界を滅ぼせるのか、みんなで考えて」
彼女は裏返しになった外套を居並ぶ面々に見せつけてくる。
ヨハンとその弟フランツは申し合わせたように目を逸らしていた。
ウチのカミルとモーリッツ氏は答えに詰まっている。
もちろん自分も答えを出せそうにない。あまりにも能力が身近すぎる。
シベリアの男は「破滅」の原因ではなかったか。
ここまできて、それはキツいぞ。
あいつを排除すれば全て上手くいくという想定の元で戦ってきたのに、一から戦略を練り直すはめになる。
「ヨハン様はどう思われますか」
「そうだな。シベリアの奴を含めてアウスターカップの魔法使いを皆殺しにできれば話は早いだろうが、現状では兵の士気が保たない。いささか長く戦いすぎた。みんな疲れている」
「では和睦しかない、と」
「オレの体感では合戦を仕掛けたとしてあと一回が限界だ。それ以上は厳しい……ふがいない旦那を笑ってくれていいぞ」
「そんなことは」
ヨハンたちは破滅阻止のために必死で戦ってくれている。
ふがいないなんて誰にも言わせない。
くそう。
ここで矛を収めるしかないのか。あとは暗殺者に望みを託して、来年の破滅まで吉報を待ち続けることになるのか。
全容解明・問題解決まで、あと少しのところまで来たはずなのに。
王手を打てるはずなのに。
「──マリー様! 少しよろしいでしょうか!」
手を挙げたのは栗毛の女性。
公社代表のシャルロッテだ。いつの間にか大広間に来ていたらしい。
彼女はあえて当主のカミルではなく
「構いません。あなたの発言を許します」
「では皆様の御前にて失礼をば!」
シャルロッテは商品の説明会でも始めそうな様子でみんなに会釈してくる。
にこやかな営業スマイルが光を放つ。空気が変わる。
「えー不肖シャロは交易商という仕事柄、新大陸の商品を扱う問屋と話す機会が多々ございまして。ある商人に言わせると、なんと魔法使いは体内に『見えない胃袋』を持っているそうなのです! ビックリですね!」
女商人の説明を受けて、衆目がエマの痩せた腹部に集まった。
当人はちょっと恥ずかしそうにしている。
「バカなことを言わないで。エマは初耳。他の魔法使いから読み取ったこともない」
「当事者の意見はもっともです。どうも、あちらの一部地域の古き言い伝えだそうで。民話の信憑性は別として、魔法使いが食物から特殊な力を得ているのは周知のとおりですね」
「エマが食べたパンは普通の胃袋に入ってる」
「まあ仮説ということで……あくまで! 仮に! 体内の『見えない胃袋』が大麦パンや牛肉を魔法の力に変えているとして! 北の大国にはあらゆる袋を裏返してしまう男がいます。あらあら皆様。組み合わせたら面白いことになりませんか」
シャルロッテは企業提携の
胃袋をひっくり返すと何が起きるのか。
体内が胃酸まみれで酸っぱくなる。食物を消化できなくなる。手術が必要になる。
あるいは。
「袋の内側ではなく、外側を消化してしまうということかしら」
「その可能性は否定できませんよね!」
こちらの回答にシャルロッテは拍手と満面の笑みで応えてくれた。あくまで仮説なので断言はできないようだ。
公女は思わず苦笑してしまう。
なるほどね。
世界は強力な魔法によって滅ぼされたのではなく、魔法使いの胃袋により何もかも魔力に
雲をつかむような話ではあるけど、一応の辻褄は合う。魔法使いはお腹いっぱいにならない。彼らは食べ疲れた感覚を満腹と呼んでいる。
背丈より高く盛られたマッシュポテトを余裕で平らげられる彼らなら、宇宙だって消化できるかもしれない。
一方で釈然としないのは、過去に現れた『空の五芒星』や『白い光』、管理者がくれた映像の『杖を掲げる魔法使いたち』については謎のままだから。
あれは何だったんだ。
「今の話、どう思う?」
「結論ありきの都合の良すぎる与太話」
「だったらエマはシベリアの男を「破滅」候補から外しているんだね」
「多少怪しいとは感じる」
彼女の返答は同盟語だった。
うむむむ。
本当にどうしたものか。悩ましいな。
仮説を信じる。
与太話と切り捨てる。
いずれにせよ兵営が戦えるのはあと一度きり。
ここでの判断が全てに掛かっている。
今まで自分がやってきたこと──マリー・フォン・ヒューゲルとして生きてきた日々の全てが。
何度も繰り返されてきた公女の人生が。
愛すべき「この世界」に未来をもたらせるのか。
何も成し遂げられないまま終わってしまうのか。
今この時に全て決まる。
──誰かのため息。
「やはり
「いいえ。エマ。わたしの手に触れてちょうだい」
彼女が手を出そうとしてこないので、こちらから抱きついてやった。
懐かしい匂いがする。
「さあエマ、わたしが何を考えているのか、みんなに話してあげて」
「バカなの」
ああそうだよ。これで君は共犯者だ。
君と一緒なら失敗だって耐えられる。
大切な家族や友人たちが悲惨な末路を遂げることになっても、傍らにエマがいてくれたら乗り越えられる。
死が二人を分かつまで、君にも公女の決定の「責任」を背負ってもらう。
でなければ、ヨハンが言いかけていたように、自分だけでは決断を下せそうにないから。
勝算や確信を伴わない、ただの「勘」と「希望的観測」による決定を。
まだ見ぬ未来のために膨大な人命を賭けた、
「──全戦力をもって北街道の第一軍団を叩く。シベリアから来た男を捕らえる。他の敵兵団はラミーヘルム城が受け持つ。落城しても北の戦いを優先する」
エマの代弁に大広間は静まりかえった。
女中さんや使用人たちは絶句している。彼らにとってみれば、落城なんて迷惑も良いところだろう。
古今東西を問わず、落ちた城は狼藉をくらう。
そうならないように努力はするつもりだ。
「シャロ。タルトゥッフェル専売公社の持ち主として命じます。全力を挙げて、
「了解しました! 不肖シャロ、全身全霊で尽力いたしますれば……何卒、戦後においてもスネル商会をお引き立ていただけますとありがたく!」
「もちろんよ。末長く子孫の代まで我が家を支えてちょうだいね」
「ああっ! シャロはありがたすぎて溶けてしまいそうです! 仰せのままに!」
抜け目ない商人が走り去っていく。
これで当座の兵站は何とかなる。シャルロッテならあらゆる不足を十分に補ってくれるはずだ。
次は城内の備えだな。
「ティーゲル少尉、あなたはボルン卿に守りを固めるように伝えなさい。カーキフルフト少尉には城内の治安維持を。あとベーア大尉には市民の希望者に城外脱出を認めるお触れを出すように、と!」
「了解しました。走り回ってきます!」
若き少尉は手帳を片手に駆け出した。ああやってきちんとメモできるのは彼の長所だ。将来有望だと思う。
あとは何をするべきかな。
「公女様。いざという時のため、城内の男たちを戦えるように編成しておくべきかと存じますが」
城内教会の牧師さんに話しかけられる。
先ほどからこちらの会話を聞いていたらしく、早くも全身を完全武装していた。
歯輪式の短銃を担ぎ、法衣の肩には弾薬の早合がたくさん納められたベルトを掛けている。
「そうですね。ブルネン老人に指示を出しておきますわ」
「それがよろしいかと。ではまた」
牧師さんは大広間の廊下から武器庫の方向に向かう。あそこの標的で試射でもするつもりかな。
城内の有志や義勇兵にも練習させたほうが良いかもしれない。銃火器は武器庫にあるから多少なら貸与できる。
よしよし。他には何を。
彼の腕の中では子供が眠っている。可愛い。いとおしい。
「マリー。お前がやる気なのはわかった。オレも同意見だ。消耗戦ばかりで決戦に持ち込めないまま和睦などしたら、あの世の父上に怒られてしまうからな」
「ヨハン様には北街道で戦ってもらいますわ」
「女が指図するな。お前に言われなくてもオレたちは北に向かってやる。ラミーヘルム城にヒューゲル兵を三千名ほど残しても、シャッハ隊を加えれば有利に戦えるはずだ」
「城にはボルン隊と衛兵だけで十分です。他の全戦力を連れていってくださいまし」
「指図するなと言っている」
ヨハンは怒りをあらわにする。
もちろん彼が公女と子供の安全を考えてくれているのは伝わってくる。すごく愛されている。
ただ今回は絶対に「圧勝」してもらわないと未来を掴めない。
中途半端に相手を取り逃がしたら元も子もなくなる。
しっかりと追走・後方遮断用の予備兵力を率いてもらいたい。
公女の指図を受けたくないなら、あれだな。
「……ヨハン様。今回は絶対に敗けられない戦いになりますわね」
「ああ。アウスターカップとは雌雄を決することになる」
「あらゆる戦士が己の技能を活かし……銃兵は銃を持ち、馬乗りは騎兵となり、熟練の砲兵は野戦砲と観測具を操るべきですよね」
「そのとおりだ。それぞれの役目を果たしてこそ最大の成果が得られる。戦う者、祈る者、働く者。社会と同じだ」
「指揮官もまた秀逸な者が務めるべきですね」
「オレは身分を問わず必要な教育と鍛練を受けた者を下士官とし、抜きん出た者がいれば将校にも取り立ててきた。珍しくお前と同意見だな」
「ならば当然、北部連盟の総司令官も適材適所の原則から逸材が務めるべきだと思いませんか?」
「たしかにそのとおり──いや待て。オレに何を言わせるつもりだ。まさかお前が司令官をやりたいのか、女のくせに!」
「まさか。わたしには務まりませんわ」
自分に兵士たちを指揮できる能力なんてない。
逸材は別にいる。
「フランツ様。客将のケーヘンデ公は城に来られていますね」
「えっ……一応、うちのマウルベーレ兵の指揮を委ねているので、来ていますけど、その……」
「あの方に兵営の総司令官を任せましょう。せっかく稀代の名将がいるのに使わない手はありませんわ」
「それは、あの……」
フランツは恐る恐る兄を見つめる。
ヨハンはめちゃくちゃ不満そうだった。今にも破裂寸前の火山のように赤くなってしまっている。
苛立ちが空気を介して伝わってくる。
仕方ない。あいつのプライドも立ててやろう。
公女はヨハンに耳打ちを試みる。背伸びでは足りないからちょっと屈んでもらった。
「ヨハン様、××××××××××」
「ぐっ」
「××××××、×××××。そうよね?」
「ああ。わかった。お前がそこまで言うなら許そう。総司令官はオレだが、全体の指揮はライム王室の亡命者に委任してやる。オレたちの未来のためにな」
「さすがはヨハン様ですわ」
出来るかぎりの笑顔を向けておく。
ここで抱きつくのは安売りしすぎだな。やめておこう。
どうせ後で……また会うわけだし。
ヨハンの許可が下りたので、ケーヘンデ公には正式な任命のために大広間まで来てもらう。
かつてのライム王弟。元帥。ライム王国の「矛」と呼ばれた名将。
陰気な顔に長年の苦労が刻み込まれ、本当に囚人のような風貌の男だった。
だが、初対面の挨拶を含めた儀礼や所作からは明白に王族の威厳を感じさせられる。ただ者ではない、とわかってしまう。これでは逃走も難しかっただろう。
「参上つかまつりました。ヨハン公、マリー公妃におかれましては、お初にお目にかかります。さてフランツ殿、どのようなご用件でしょうか」
「貴殿に北部連盟の司令官代理を務めていただきたいのです、ケーヘンデ公。僕たちの窮地を救ってください」
「承知しました。力を尽くします」
ケーヘンデ公は即答し、フランツの前で跪いた。
まるで主君の命に応えるかのように。
それがよほど気に入らなかったのか、ヨハンはチッと舌を鳴らした。下品だなあ。
ともあれ、これで今の自分にできることはほとんどやりきったかな。
あとはケーヘンデ公と兵営に改めてこちらの考えを伝えておくだけだ。
今の状況で投入できる、ほぼ全兵力・約三万名で「シベリア狩り」をしてほしいと。
ヨハンは若干不服そうにしながら、子供を赤茶毛の乙女に押しつけて、大広間を出ていこうとする。一旦、駐屯地に戻るようだ。
「ふん。よくわからんうちに、いいように言いくるめられてしまった。女のくせにマリーの奴」
「お姉様の言うことは信じたほうが良いですよ。誰よりも未来を知ってらっしゃるのですから」
「未来か……お前の姉は今回どんな教育を受けてきたんだ、カミル」
「イングリッドおばさんはヒューゲルでは子育ての天才と名高いです」
「たしかにお前の弟は一流の騎兵指揮官だが……他の教え子が不躾すぎるだろう」
「マクシミリアンはすごいですよね!」
カミルは無垢な笑みを浮かべていた。義兄に心から敬服しているのだろう。イヤミに気づいていない。
そんな二人の後をフランツ(とケーヘンデ公)が追いかける。
相変わらず顔面の病気の痕が痛ましいものの、以前のような卑屈さは感じられない。
彼なりにまっすぐに育っているように見えた。
どこぞの狂犬とは大違いだ。あれはどうして三周ともああなってしまうのやら。
あんな性格でも家族想いではあるので、あとで兄たちが戻ってきたと伝えておこう。女中さんを介して。
「パウルの子女。お前は悪い女だな。おそらく勝敗に関わらず歴史に名を残してしまうだろう。古代史で悪名高い『性癖帝』の祖母と比べられるぞ」
「いきなり失礼な言い草ですわね、モーリッツ卿」
「おいチビヨハン、お主の母はいけ好かん奴だぞー」
モーリッツ氏は幼児に頬ずりする。
子供には彼のラベンダーの香水が受け付けなかったらしく、しきりに「くさいくさい」と言われていた。
「や、やめんか! 昔の
「うえぇ」
ああもう! 泣かせてしまった!
よしよし。可哀相に。
「はあ……きっとヨハン公は、お前たちのためなら何でもしてしまうのだろうな。家族愛、いや初恋とは罪なものだ。某はもう思い出せそうにないが」
「モーリッツの初恋は九歳、相手は家庭教師のミランダ女史」
「ありがとうエマ。ほろ苦い思い出が戻ってきたぞ。少し呑もう。不安を紛らせるのはいつも酒だ」
「弱いくせに」
「昔は強かった」
二人もまた大広間を出ていく。
本来なら追いかけて酒席に付き合いたいけど、今は子供がいるからね。他にやることもある。
「ドーラ女史、敵は近いですわ! 廷臣たちや地方官にも戦いの用意をさせてくださいまし!」
「お前に言われずとも抜かりはない! 某を舐めるな!」
「だと思いました!」
「ならば言うでないわ!」
彼の返答はなぜか少し楽しげだった。
× × ×
一六七四年。三月二十七日。
北ヒューゲルのタイクンバウム村付近にて両陣営は
無数の梯団旗が平原に並ぶ。
その下では各家中の戦列歩兵が前進の指示を待っている。
村の北側に布陣したアウスターカップ兵の司令官はゲレティヒカイト大将だった。
彼は十五年戦争を経験した老練な将軍とされる。政府の国防大臣も兼任しているから敵兵営の首脳だと捉えていい。
当然、彼の第一軍団には辺境伯領の精鋭が集められている。
歩兵・騎兵・砲兵はもちろん、例の「反転」を含めて強力な魔法使いを揃えているようだ。
大局的に有利な戦況とあって将兵の士気も高い。
北部では北部連盟の遅滞戦術・後方撹乱に苦しめられたこともあり、特に将校たちは久しくなかった会戦に飢えているみたいだ。
斥候隊、散兵隊、軽騎兵は草原を活発に動き回っている。
左右に伸びた戦列歩兵の梯団には母衣衆の伝令が差し向けられ、空飛ぶユリアによれば「今にも攻勢を仕掛けてきそうな空気」だったという。
一方、村の南側に布陣した北部連盟の士気は低かった。
明らかに和睦するべき状況なのに「お偉方」が敗北を認めない。
一部の君主は世界を救うために戦うなど世迷い言を叫びだす始末。
おかげで自分たちは延々と戦い続けるはめになる。
殺し合いが本業の連中はともかく、市民出身の兵士たちは家に戻りたくて仕方なかったようだ。
農閑期の金稼ぎで志願しただけなのに。
数年間、味方領での防衛戦ばかりで戦場での
「何を弛んでおるか! 列を保て!」
ダラけた空気を下士官が叩きなおす。鞭が乱れ飛ぶ。
兵士たちは共通の敵を見つけることでわずかながら結束を取り戻していた。
もっとも全ての梯団が戦意を失っていたわけではない。
「いよいよ決戦なるぞ! 我らの実力をルートヴィヒのお
「おうっ!」
インネル=グルントヘルシャフト伯の弟ゲルハルトの部隊は例外的に士気旺盛。
北斗七星の梯団旗を高らかに掲げ、盛んに鬨の声を上げていた。
彼らは泥沼の北部戦線において「一人勝ち」を演じてきた部隊だ。
なにせルートヴィヒ伯の居城に攻めてきたバンブス兵を返り討ちにするどころか、そのまま逆侵攻を仕掛けて造反組の城を落としまくっていたという。
慌てたアウスターカップ兵営が支援部隊を送っていなければ、名門バンブス公の城も落城していたかもしれない。
たった八百名の一個梯団にすぎないゲルハルト隊の異様な強さは地元商人の献金に由来する。
兄のルートヴィヒ伯に劣らぬ(むしろ可憐ぶりでは勝るともいう)妖精のような美貌を持つゲルハルトは商人たちから溺愛されていた。
巨額の献金は銃弾に姿を変え、造反組の不届き者を撃ち抜いてきた。
低地の銃工房で作られた小銃には簡素なライフリングが刻まれていた。
「本陣から伝令が来た! みんな行くぞ! 一番槍にはいつもどおり金貨を与えるからな!」
「おおおっ!」
ゲルハルトの命令を受けた兵士たちが、誰もいない村に乗り込んでいく。
正面きっての「規則正しい」戦列射撃より臨機応変な遊撃戦を得意とする彼らは、あらかじめタイクンバウム村にもっとも近い地点に布陣していた。
前線においては突出点にあたる。
──午前十時半。
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