9-8 過去と未来


     × × ×     


 飛行少女が空に戻り、公女おれたちの元には各地の情勢が伝わってくる。


 かつて宿敵だった南部連合は完全に瓦解していた。

 ヘレノポリスでの敗戦、フロイデ侯の離脱、ヒンターラント三元帥の全滅……と苦しい戦況が続くにつれて、当初は連合に協力的だった諸侯も次第に日和見主義に傾いていったらしい。

 エーデルシュタットが陥落し、盟主のルドルフが囚われの身となってからは「もはや協力の価値なし」とばかりに脱退者が相次いだという。


 中でも名門エレトン公が脱退を宣言したことは、近隣の領主たちに大きく受け止められたようだ。

 あの家の家臣は古代末期から屈強な強者揃いで知られている。

 往年のタオンさん曰く『一太刀で甲冑を叩き割る』『戦う時は遠吠えをあげる』人々らしい。怖すぎる。

 強者たちは南部では常に信頼され、同時に恐れられてきた。

 そんなエレトン家の転向は他の領主たちに安心感を与え、彼らは再び「正当な神聖大君」ハインツ二世の名目的支配に服した。

 もはや旧教統一の理想を掲げ、北部側と戦う姿勢を示す者はごくわずかだった。


 その北部では新たな異変が起きていた。

 西の海洋大国・オエステ王国の海兵団が上陸戦を仕掛けてきた。

 オエステ国王はヒンターラント大公の分家筋にあたる。ゆえに囚われのルドルフを助けにきた──とも言いきれないから、大貴族の世界は恐ろしい。

 ヨハンからの手紙によると、オエステ国王はルドルフを死んだものとみなし、本家を乗っ取るために兵を送り込んできたとのこと。


『根拠はあるのですか?』

『敵司令官の脳内からお前の魔法使いがあぶり出した』


 ヨハンたちはガスパール・デ・クリサンテーモ伯率いる約八千名のオエステ兵を叩きのめしていた。

 正確には北部アイヒェカップ港(マウルベーレ領)に乗り込んできた敵兵団を現地の守備隊が退けたらしい。

 守備隊といってもせいぜい五百名に満たない寄せ集めであり、地の利があるとはいえ約十三倍の敵を倒したのは奇跡的な話だった。

 しかも港側の指揮官は名も無き囚人だったという。


 同じような話を二周目でも聞いたことがあった。

 あの時もマウルベーレに攻め込んできた敵兵を少数の守備隊が打ち破っていたはずだ。

 奇跡は二度も起きるだろうか?


 ヨハンにそれとなく囚人について手紙で訊ねてみると、興味深い話が判明した。

 なんと囚人の正体は、かつてライム王国で首都節度使を務めた元帥にして王弟、ラザル・ド・ケーヘンデ公だったらしい。


 ライム国内の内戦に敗れた後、彼は地位を剥奪され、暗殺者に怯えながら世界各地を逃げ回っていた。

 彼は旧知の上流階級に助けを求めたが、ライム国王との関係を傷つけたくない司教や領主たちは助けてくれず、困りはてていたところに手を差しのべたのが……ヨハンの弟・マウルベーレ伯フランツだったという。

 ケーヘンデ公はフランツに客人ではなく「匿名の囚人」として匿ってもらった。暗殺者から逃れるための策だった。


 そして先日、彼はオエステ艦隊の来襲を知るやいなや、ただちに港に向かい、持ち前のカリスマ性で現地の市民を糾合し、守備隊に合流。

 市街地を活用した巧妙な防御陣地と遅滞戦術で敵上陸部隊を翻弄し、狭地に誘い込んで包囲射撃を実施。敵指揮官を捕らえ、敵兵団を撤退に追い込んでみせたという。


 危機は脱したが、ヨハンは弟の密かな行動に不満を抱いていた。


『あいつにいくら訊ねても囚人の正体を明かさなかった。亡き父との約束ですからと泣いて詫びてくる。背中に蹴りを入れても口を割らなかった。結局エマに取り調べさせたが、気に入らん!』


 亡き父との約束。

 おそらくここでの父とは産みの親ではなく、先代マウルベーレ伯オットーのことだろう。

 かつてヘレノポリスの舞踏会で垣間見た、親子の語らいが思い出される。


『君に助けを求める人を決して切り捨てるな。自分を誇らなくてもいい。みんなから誇りとされる男になれ』


 フランツは父の言葉を忠実に守っていたわけだ。

 公女はヨハンに手紙をしたためた。


『弟君の行動は称賛すべきものです。あなたの苛烈な所業と比べれば、遥かに立派なことだと思います。フランツ様は器の大きな方になりましたね』


 翌日ヨハンから戻ってきた返信の慌てぶり・変節ぶりは、いよいよ臨月を迎えた公女の心を少なからず癒してくれた。



     × × ×     



 一六七二年。六月下旬。

 冬に作付けしたジャガイモがハーフナー印の木箱に収められておりまする、と公社の小間使いが笑っていた。

 村落では大麦などの刈り入れも始まっているらしい。


 久しぶりの収穫に城内の廷臣たちは安堵の息を漏らしていた。

 一方で兵営将校たちは神経を尖らせているようだ。


 ティーゲル少尉の話では国境付近の村に敵兵団が駐屯地を築いており、近いうちに攻め込んでくるだろうとのこと。

 敵は『一剣二鍵旗』『白黒二本剣旗』を掲げているらしい。


「南部のトーア侯とボーデン侯ですか。懲りないわね。梯団旗の数は何枚でした?」

「……今は些事を心配なさらず、お身体を大切にしてくださいませ」


 少尉はやんわりと断りを入れてくると、そそくさと育児部屋から出ていった。

 くそう。自分で兵営を訪ねたいところだけど、今はまだ身体を動かせそうにない。


 一人目を産んでから三日ほど過ぎた。疲労感から少しずつ解放されてきたものの、まだ万全には程遠い。しばらくはほとんど寝たきりだ。

 通算三回目とはいえ出産はしんどかった。初産で逆子だったから余計に。久しぶりに死にたいと思いかけた。


 ベッドの隣では赤ん坊が眠っている。世話は女中のモニカさんがやってくれているけど、おっぱいは自分で与えるようにしている。

 今回は公女わたしの乳を。

 母親のものを。


 ちなみに赤ん坊は男の子だった。おかげで名前に困らなくて済んだ。もし女の子だったら、北にいるあの子と話をつけないといけないからね。


「ヨハンちゃんは可愛いですねえ。うちのアルフレッドもイケメンではありますが! 共々将来が楽しみでございますれば!」


 遊びに来ていたシャルロッテがゆりかごの赤ん坊を眺めている。

 ヨハン四世。父親には承諾を得ていないけど、あの人なら文句をつけたりしないはずだ。

 前回、早世した二人目にも同じ名前を付けていたし……。


「産み直し……」

「はい?」

「あ、いえ。こちらの話です。ところでシャロは国境の敵について何か知っていて?」

「大したことは存じませんが、相手はトーア兵が六千、ボーデン兵が四千名、野戦砲と騎兵あり、だそうで」

「十分詳しいじゃないの」

「さすがにこれくらいは……あと、明日公女様のお父上が和平の使者に赴くそうです。いい加減、無益な争いはやめましょうと。もはや南部連合には勝機がありませんゆえ」


 シャルロッテは栗色の髪をふわふわさせる。

 お父様がマティアス・フォン・トーアに和平を申し込むのか。

 あのヒューゲルに対する怨念を固めた煮凝りのような男に。


「無駄では?」

「不肖シャロや廷臣の方々もそのように申し上げましたが、いかんせん頑固であられまして……宰相代理ドーラちゃんが同行するので、妙なことにはならないと思いますが」

「二人とも人質にされたら大変じゃない」

「そこは大丈夫かと。ボーデン侯は穏和な紳士でありますれば」


 ああ、そっちと話を付けるのね。

 公女おれは会ったことがないけど、シラフの時はまともな方だとタオンさんも言っていた。旧教徒の中では穏健派だという。


「万一のことがあるから、衛兵を付けるようにカミルに伝えてちょうだい」

「仰せのままに!」


 シャルロッテの声は基本的に大きい。

 なのに近くの赤ん坊が目覚めず、泣き出したりしないのは興味深かった。不快感のない声なのかな。

 これがモーリッツ氏だと号泣なのに。



     × × ×     



 翌日。

 ヒューゲル郊外の『グナーデ・アウゲン』修道院において、ボーデン家とヒューゲル家の和平協議が行われた。

 我が家からはパウル公とモーリッツ氏が出席。

 ボーデン側からは代理人のシュタイナー大尉が交渉の席についた。


 この大尉が曲者だったらしい。

 いわゆる旧教派「志士」出身の若者で、新教徒のお父様たちを心の底から見下していたようだ。

 おでこの広い、鷲鼻の男だったという。


「和平交渉とのことだが、お前たちに降伏以外の選択肢があると思っているのか。ふざけるんじゃねえ! 改宗しろ改宗! 生き方を正せ!」


 シュタイナー大尉は二人に改宗を迫った。

 ヒューゲルとしては到底受け入れられない条件だ。

 パウル公は相手の非礼に耐えながら、なおも交渉の余地を探った。


「大尉。マティアスに味方しても君たちに明日はないぞ。南部の連中はみんなルドルフを見捨てただろう。今なら私からヨハン公や陛下に取りなそう。和平に応じたまえ」

「新教徒が一丁前に口を効いているんじゃねえ。いいか。俺たちには教皇猊下の勅使が付いている。惣無事令ラントフリーデの勅使だぞ。お前たちは何も言わずに従うのが世の習いというものだ!」


 彼の隣席には若き枢機卿の姿があった。

 クレロ半島では名の知れた家門の出身だという。柔和な微笑みの好青年だったらしい。


 ここでモーリッツ氏が食い下がる。


「某どもは新教徒ですから従わなくてもバチは当たりませんが、仮にも戦争禁止令でしたら、我々の城に攻め込むのは尚のこと止めたほうがよろしいかと」

「女は黙れ! 家にいろ! 弁えろ! 生き方を正せ!」


 若き大尉は椅子から立ち上がり、従卒から受け取った銃剣を机に突き刺した。

 明白な脅しだった。

 温室育ちの枢機卿が「ひゃっ」と悲鳴を上げたが、大尉は気にも留めない。


「いいか! 命乞いなら命乞いらしくやれ! 道理に従え! 城を明け渡せ! 娘を差し出せ! そしてキーファー公に陛下を解放するように申し入れろ! さもなくば、我らは戦場で相見あいまみえるまで!」

「……某どもからヨハン公に取りなしてごらんに入れます。むろん減封なしで、とボーデン侯にお伝えくだされ」

「我が殿は居城にいらっしゃるわ! ここにはおらぬ!」

「なるほど」「そうか」


 モーリッツ氏とパウル公はすぐにも席を立った。

 かくして和平交渉は決裂した。


 ただ、決して無益な話し合いではなかった。

 モーリッツ氏は「ボーデン兵営がヒューゲルと交渉した」という話をトーア兵営まで流すことでマティアスの疑心暗鬼を誘った。

 案の定マティアスは味方同士の布陣を遠ざけ始めた。合戦の途中で横腹を刺されたくなかったのだろう。


 さらにモーリッツ氏は飛行少女をボーデンまで飛ばし、パウル公の手紙を当主に送った。

 もし向こうの当主から「和平」を約束してもらえたら、あのシュタイナー大尉も逆らえない。

 ユリアには何度も南部の果てまで飛んでもらうことになるから申し訳ないけど。


 六月末日。彼らは約一万名の兵力で西の国境を越えた。

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