9-6 ×××


     × × ×     


 井納純一には過去に好きな人がいた。

 中学時代の部活仲間、高校時代の同級生、大学時代のバイト仲間など。残念ながら全て片思いに終わった。社交辞令の壁を越えられなかった。


 そのせいか、性行為に夢を見すぎていると言われたことがある──たしか居酒屋で、大学時代に仲良くさせてもらっていた先輩の元カノさんから。

 素敵な女性だった。

 俺は見返してやろうと一念発起して、別の先輩に妖しい店に連れていってもらった。夢は泡となって消えた。

 それきりだった。


「マリー」


 名前を呼び合う。指で触れ合う。

 パズルのピースがはまっていく。

 ずっと底冷えしていた魂が温かく包み込まれる。抱きしめられるたび、抱きしめるたびに充足感で満たされていく。

 すぐに足りなくなるから、また求め合う。


 唇、言葉、指先、唇。

 ずっと自分に嘘をついていた。嘘で守ってきた。

 嘘を取り払えば、素直になってしまえば、剥き出しの自分をさらけ出すことになってしまう。

 肉体マリー感情わたしが表に出てしまう。

 抑えられない。遮るものがない。


「×××、×××××」

「おお。オレもそうだ」

「××××」

「ああ」


 脈絡のない言葉が唇から溢れてくる。思い返せば、きっと恥ずかしくなる台詞ばかり。

 でも死にたくならない。

 二周目の時とは正反対だった。


 あの時は井納を罰するために苦しみを求めていた。挙げ句に……ここだけの話(といってもエマは知っているだろうけど)、一人目の妊娠が判明するまで、公女は「死んだエマに対する罪悪感を餌にした」性的快楽に溺れていった。

 申し訳なさが快楽につながるのは不倫のエスカレーションと同じ仕組みなのだろうか。もちろん相手はヨハンだったから不倫には当たらない。

 いくつもの夜、ひたすら肉体的な快楽に溺れた。

 そうすることで他ならぬ井納の尊厳を汚してやれると思った。

 早く死にたかった。

 今は……。


 いつの間にか朝日が射し込んでいた。シーツの上が温かい。

 ヨハンに背中越しに話しかけられる。


「……マリー。もうオレに不足はないか」

「不足、ですか」

「お前に望まれる男になるにはどうしたらよいのか、久しく考えてきた。父上のように強くあるべきか、他に目指すべき像があるのか……」

「あなたはあなたでよろしいのですよ」

「ならば、二度とオレを拒んでくれるな」

「…………」


 返答しづらい。

 やがてヨハンは背中から抱きしめてくる。ゴツゴツした左手は前に回り、彼が愛してやまないものに触れた。

 これまで何度もはね除けてきたその手が、今となっては狂おしいほどに愛しい。きっと何人も人間を殺めてきた手が、公女のために血を浴びてきた手が……失いたくないとさえ思えてしまう。

 ×××××。


「マリー。二度とオレを拒むな。女には使命がある。使命を果たすべき時が来たと思え」

「ヨハン様のそういう物言いは好きではありませんね」

「オレはお前の生意気な所が嫌いになれん」


 彼の指先が沈み込んでくる。

 押しつけられる。


 こちらも手を伸ばし、彼の指先に触れる。

 タコがある。温かい。愛おしい。


 耳を舐められる。


「み、耳は」

「マリー」

「…………××××」

「ああ」


 互いに顔を向け合う。


「オレを見ろ。お前の旦那だ」


 ××。

 ×××。×××××××。

 ×××××。

 ××。



     × × ×     



 翌週。

 北部諸侯の梯団旗が北上していく。

 北街道と脇街道を分進しながらキーファー領を目指すようだ。

 約二万八千名の兵団は脱走兵が相次ぎ、不足分を流浪の自称傭兵等で補っている。

 戦局の不利を誰もが理解していた。


 彼らを北門前から見送ってから、モーリッツ氏と公社幹部たちは安堵のため息をもらす。


「ふう。助かった。あと三日も駐屯されていたら、それがしの公社は種芋まで食いつくされて破産していたぞ」

「戦乱続きで領内の耕作が進んでいないのに、兵営は芋を寄越せと日夜怒鳴りこんでくる。全く苦難の日々でしたねえ……味方でなければ死んでほしいぜ……」


 公社副代表のギュンター氏は追懐しながら北街道の兵士たちに恨みのこもった目線を向ける。

 もう一人の副代表・コーレイン氏はなぜか余裕の笑みを浮かべていた。


「ほほほ。代表、夜明け前がもっとも暗いといいます。今秋の作付け、来春の収穫が楽しみではありませんか」

「夜明けか。未来が神話のグリトニルのような輝きを放ってくれたらよいが……その日まで芋畑に敵兵が姿を見せないことを祈るとしよう。ヨハン公とカミル公の武運長久と併せてな」


 モーリッツ氏は丹念に祈りを捧げてから、幹部たちを引き連れて城内町に戻っていく。


 自分は城内の来客室に向かった。

 往年の老将や、軽薄な捕虜の中将、いわんや狂犬のような義妹に会いたいわけではない。


 かつて卓上に山盛りのマッシュポテトが盛られていた部屋の窓際では、低地人の少女が悔しそうに北街道の縦隊を見つめていた。

 ベッドに横たわり、包帯に包まれた右足をさすりながら。


「ううっ。あたしは辛いです。みんなをお手伝いできないのが……!」

「ゆっくり治せばいいわ、ユリア」


 公女おれは見舞い品の果物を近くにいた女中さんに手渡す。


 空飛ぶユリアは右足を複雑骨折していた。

 数ヶ月前、空中偵察中にカロリー不足に陥り、味方陣地付近の森に落ちてしまったらしい。

 命に別状はなかったものの、彼女は骨折が治るまで空を飛べなくなってしまった。現状では微妙な姿勢制御ができないという。

 長らくヨハンたちと連絡が取れなくなっていた原因だ。

 もちろんユリアを責めるつもりはない。カロリー不足になるまで戦場を飛び続けてくれた彼女はむしろ大いに称えられるべきだ。


「奥様。旦那様たちは大丈夫なのですか。アウスターカップに勝てますか」

「他人のことより自分の心配をなさい」

「あたしにとっては戦友です。他人なんかじゃありませんっ!」


 彼女の目は真剣だった。


「……全く勝ち目がないわけではないの」


 ヨハンは出発前に話していた。

 北部にはシュバルツァー・フルスブルクなど助けを待っている城がいくつかある。

 彼らと合流できれば、少なくともヨハンたちは敵の一個軍団(約二万五千名)に対して兵力差で優位に立てる。

 これを活かして敵兵営の四個軍団を各個撃破する。


 どう考えても机上の空論だ。

 ただしアウスターカップが南北に兵力を分散させている現状では、相対的に妥当な方策になってしまっている。


 またエミリアの記憶に出てきた謎の魔法使い──『シベリアから来た男』は第一軍団に配属されており、もし仮にそいつが「破滅」の直接的原因なら、極論、第一軍団さえ叩きつぶしてしまえば公女の使命は果たせるかもしれない。

 この話はヨハンにも伝えてある。

 なるべく敵の魔法使いを捕まえてほしい、と。


「各個撃破するなら敵より先に相手を見つけなきゃ……やっぱりあたし行きます! 飛ばせてくださいっ!」

「ちょっとユリア! また落ちたらどうするの! もう二度と戦友の役に立てなくなるわよ!」

「うううっ……!」

「きちんと治ってから行きなさい。飛ぶためのカロリーはたくさん用意してあげるから」


 公女の説得を受けて、浮かび上がりかけていたユリアはベッドに落ちついた。

 やはり飛ぶと痛むらしい。右足をさすっている。


「はあ。奥様はさすがです。旦那様が危険な戦場に向かっているのに、不安を見せずに凛とされてます。憧れちゃいます」

「そうかしら」

「普段とお変わりなく、平静とされていて……あっ、いつもより化粧は濃いですね!」

「……そうかしら」


 公女が近くにいた女中のモニカさんに顔を向けると、彼女は柔和に微笑んでくれた。どっちなんだ。

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