9-3 傷口


     × × ×     


 結果的に敵国の将校を捕まえたのは正解だった。

 気絶技と読心術の組み合わせで、アウスターカップの情報を相当奥深くまで掘り下げることができた。

 兵営の規模、彼らの参戦目的、魔法使いに関わる情報──何より彼らがひた隠しにしている『最高機密』さえも。


 アウグスト中将は第二軍団の副司令官であり、辞令を受ける際には辺境伯の宮廷にも出入りしている。

 ほとんどの人間には昇殿が許されない特別な地区だという。

 エマは宮廷の様子を『ディズニーランド』と表現した。

 当然ながら井納以外には伝わらないので、彼女は画用紙にペンを走らせる。

 幻想的な空間が描かれていく。奇怪な形状の庭、巨大で浅い湖、熱で溶けたような宮殿、砂の滝……天国とも地獄とも似つかない独特の感性で満たされていた。

 全て辺境伯が作らせたらしい。


 超大国の君主は極度に内向的な人物だった。国政には見向きもせず、郊外の宮廷において己が理想とする箱庭せかいを形作ることだけに執心していた。

 巨大な政治勢力が一代で滅ぶ例は、世界の歴史上枚挙に暇がない。大君同盟でも同様だ。

 しかしながら先代辺境伯『兵隊侯』カールが生涯をかけて作りあげた強固な国家体制は、息子の浪費程度では揺るがなかった。

 むしろ先代に鉄拳で育てあげられた将校団にとっては、むやみに口出しされないという点で「ありがたい当主様」だった。


 上官のゲレティヒカイト大将から辺境伯との付き合い方を伝授されたアウグスト中将は、宮殿の半壊した応接室で主君から辞令を受けた。


『お前を歩兵中将、第二軍団副司令官とする』

『アウグスト、御屋形様の御為に楽園を広げて参ります』


 アウグストは譜代の臣ではない島国出身よそものであり、主君に対する敬愛の念など端から持たないため、内心では辺境伯を「楽園病のフリードリヒ」と馬鹿にしていたようだ。


『よきにはからえ』


 辺境伯は一言で返答を済ませて、宮殿の建設現場に戻っていった。左官道具を携えて。

 アウグストもまた郊外の宮廷から兵営──国の中枢に戻る。


 彼の記憶の引用が長くなってしまった。

 つまるところアウスターカップの指導者は辺境伯ではなく巨大な兵営組織であり、彼らは政治的思惑ではなく「純軍事的」な打算で行動していた。

 ルドルフ大公のように曲がりなりにも理想を掲げているわけではなく、俺たちのように何かを為そうとしているわけでもない。彼らは国家と軍隊の利益のために戦う。


 アウグストの記憶は語る。北部に攻めこんだのは「今なら被害を出さずに圧勝できる」と兵団幹部が判断したから。

 我らがラミーヘルム城を素通りしたのは、包囲して孤立させれば無害化できると考えたから。いわゆる飛び石作戦だ。

 私怨を滾らせて雪山を越えてきたトーア侯とは対照的な合理性。


 ゆえにアウスターカップ兵営の方針は、たかが副司令官が捕まったくらいでは揺らがなかった。

 アウグスト中将の哀れな姿を敵陣に見せつけても、包囲部隊の指揮官ギード大佐は本隊に早馬さえ飛ばそうともしない。


「えいさっ!」

「ぐえっ」


 ブルネン老人が中将を殴ってみせても敵陣の反応は疎らだった。

 くそう。アウスターカップを挑発して、敵の本隊に引き返してきてもらうつもりだったのに。


 このままだと本当にヨハンたちがやられてしまう。

 何もかもが終わってしまう。

 せめて連絡が取れたら、ヒンターラントからヴィラバ方面に逃げるように指示できるのに。


 モーリッツ氏が公社の連絡員に三日月湖の『橋』を渡らせて、密かに早馬を飛ばしてくれたけど……はたして間に合うのか。何よりヨハンが指示に従ってくれるのか。不安で仕方ない。

 やはりユリアが必要だ。説得のために往復書簡を飛ばしたい。モーリッツ氏とエマと三人がかりでヨハンを論破してやる。


「早く来てちょうだい、ユリア」


 公女おれは毎日のように中庭から空を見つめ続けた。



     × × ×     



 約二ヶ月後。八月中旬。

 勉強部屋で昼寝をしていたら、窓の外から微かに太鼓の音が聴こえてきた。

 慌てて起き上がり、服装を正してから南門前に向かう。


 南街道に多数の梯団旗が揺れていた。

 ヨーロッパアカマツ、マルベリーとデュランダル、カタバミ、スズメ──ヒューゲルの長梯子。

 色とりどりの制服は草原に射し込む虹を半年以上にわたり泥水に浸し続けたような風合いで、兵士たちの足取りはくたびれて不揃いだった。


 北部連盟の主力部隊が戻ってきた。

 先週に早馬で報告は受けていた。それでも実際に目の当たりにすると感情が込み上げてくる。

 安堵のため息が漏れてしまう。


 胸元を抑えて、公女おれは南門の辺りを見回す。

 旧城外町にいたアウスターカップの包囲部隊は北部兵の接近に気づいたのか、数日前に姿を消していた。

 現在は臨時の駐屯地を設けるために公社のスタッフがテントを張っている。

 城内町の商人連中も「帰還兵特需」を見込んで床屋や酒場の屋台を出していた。包囲下でまともな商売が出来なかっただけに、彼らの目はお客さんを求めて血走っている。


「今日は稼ぐぞ! 兵士たちは芋成金より金払いがいいはずだ!」

「ヒンターラントでぶんどってきた宝石を渡されたら、釣り銭に困っちまうな!」

「弱気な殿方ねえ。釣り銭が出ないほど売りつけてみなさいよ」


 地元の商人に混じって、ふわふわブラウンヘアの女性が幼児を抱えながら屋台の前に立っていた。

 あれはフライドポテトだな。


「……シャロ。もう育児休暇は終わったの?」

「ややや! これはマリー様! お久しゅうございますれば! ご挨拶代わりに不肖シャロのフライドポテトをお召しいただけますか!」

「あ、ありがとう」


 平身低頭の彼女から山盛りの芋を受け取る。美味しい。ジョフロア料理長と同じ味だ。

 いくつか食べているうちに兵士たちが屋台の列になだれ込んできた。

 シャルロッテは嬉々として商品を売りさばいている。あれはもう本能だな。商売人の血が屋台を切り盛りさせている。

 抱き抱えられた子供のほうも母親に注文待ちの存在を伝えたり、計算を手伝ったりしていた。英才教育だ。

 ちなみに子供は男の子で、名前は当たり前のようにアルフレッド。かなり可愛い。


 人口密度が高くなってきたので、公女おれは衛兵たちと南門の二階に上がる。

 窓の外では、北部連盟の各梯団がヒューゲル平原の川沿いに分散する形で駐屯地を築いていた。出兵前と同じだ。

 さすがに約三万名の兵士をラミーヘルム城には収容できない。


 背後から階段を上がってくる音がする。

 振り返るとエマがいた。珍しくぜえぜえと息を切らせている。


「井納。こんなところで、何してるの」

「兵士たちを出迎えてたんだよ」

「どうせ尖塔にいると思って、わざわざ展望台まで登ったのに。バカは高いところにいるべき」

「それは本当にごめん」


 あそこまで登ると疲れるよね。申し訳ない。

 彼女はなおも怒りを示している。


「そもそもエマに黙って行かないで」

「いや、お休み中のエマを起こすと怒られるからさ」

「戻ってきた兵隊に敵のスパイが紛れ込んでたらどうするの」

「あー」


 それは盲点だった。たしかにありえそうな話だ。

 一応、衛兵に付いてもらっているから大丈夫だとは思うけど、例えば暗殺に特化した魔法使いを差し向けられたら辛いことになる。


 エマはため息をつきながら、チラリと窓の外を眺めていた。

 我が家の梯団旗が城外町の土手に掲げられている。カミルたちが戻ってきたようだ。


「……ヨハンとカミルは城内の中庭」

「えっ? あいつら北門から入ってきたってこと?」

「さっき三日月湖の『橋』を見物してた」

「ああ、なるほど。あれを渡ってみたくなったのか」


 気持ちはわかる。

 それなら自分も城内に戻らないとね。

 公女おれは衛兵たちと階段に向かう。


「井納、兵士たちの出迎えはもういいの」

「嫌みを言わないでよ……ほら、エマも行くよ」


 階下の大通りは帰還兵でいっぱいだった。

 俺たちは脇の路地から大手門に向かう。抜け道が移住者の家で塞がれていて、若干遠回りする羽目になった。



     × × ×     



 中庭には誰もいなかった。

 廊下の女中さんに訊ねてみると、ヨハンたちは二階の来客室で休んでいるらしい。

 妹のエミリアと再会しているのかな。だとしたら、他家の人間が横槍を入れてやるのは無粋というものだ。兄妹の時間を作ってあげよう。


 我ながら気遣いのできる人だな。……いや、待てよ。自分だって弟と会うわけだし、だったら気にせず行ってもいいか。

 せめて挨拶とお礼だけ早めに済ませておきたい。

 あいつに「貸し」を作ったままでは色々とやりにくいのもある。


 女中さんに案内してもらい、いちばん立派な来客室のドアを叩く。


「入れ」


 中にはエミリアの姿はなかった。

 ヨハンとカミルは汚れた衣服を床に放り投げて、フリル付きの立襟シャツとズボンだけでくつろいでいた。

 朝からイングリッドおばさんに「おめかし」を強いられた公女とは対照的だ。


「お姉様、お元気そうで」

「カミルもよく戻ってきてくれました」


 約一年ぶりに弟と抱き合う。

 彼の右頬には裂傷の痕が窺えた。銃弾でもかすめたのか。


「ああ、これは敵兵の銃剣に切られたのです」

「銃剣に……」

「ご心配なく。多少かすっただけですよ。死なずに済んだのはお姉様の予知どおりですかね」


 彼らが死と隣り合わせの状況にいたことを改めて思い知らされる。

 仮定の話にはなるけど、井納おれに弟の役目は果たせたのだろうか。結果的にマリー役で良かった……?


「マリー」


 ヨハンが近づいてくる。

 抱き寄せられた。

 汗臭い。相変わらず胸筋がゴツゴツとしている。岩のような両腕が背中に食い込んでくる。若干痛む。匂いを嗅がれている。


「ははは。邪魔者は失礼致しましょう。僕もエリザベートや子供たちをまた抱きしめてきます」


 カミルが来客室を後にする。

 女中さんは床の衣類を手早く回収すると、そそくさと階段を下りていった。公女付きの衛兵たちも外に出ていってしまう。


 公女おれはヨハンの抱擁を振りほどいた。

 そして相手の手が届かない程度まで距離を取る。さりげなく。礼を示しながら。


「ヨハン様。ご壮健で何よりです。またお会いできてよかったですわ」

「お前も元気そうだな。包囲続きで城から出られず、暇だったろう」

「おかげ様で。ともあれヘレノポリスとヒンターラントでの戦勝、まことにおめでとうございます」


 こちらの言葉に、ヨハンは眉を潜める。


「ふん。えらく他人行儀だな。お前がやらせたような戦争だぞ」

「……ありがとうございます」


 公女おれは深々と頭を下げた。

 目の前の男性だけでなく友邦の将兵に、心からの謝意を込めて。


 ──北部連盟は勝利した。

 ルドルフ大公の居城を落とし、彼らを降伏に追い込んだ。公社の連絡を受けてヴィラバ経由で戻ってきたので、アウスターカップの大兵団に待ち伏せされずに済み、約三万名の兵力を温存できた。

 味方兵団の戦いぶりと賢明な判断には感謝しかない。

 公女は頭を下げ続ける。


 するとヨハンはこちらの手を引いてきた。

 またもや抱き寄せられそうになり、すんでのところで踏みとどまる。危ない。


 彼のトビのような目は、公女ではなく傍らの女性に向けられていた。


「おいエマ。いつまでそこにいる。新大陸の女は空気を読めないのか?」

「マリーが出ていくまで」

「オレは今からこの女を抱く。立ち去れ」


 何を言っているんだ、こいつは。

 彼に掴まれたままの右手がピクリとも動かなくなった。まずい。


「ヨハン様、お戯れを」

「お前のため、未来のために一年間身体を張ってきた。命をかけてきた。多少の礼ぐらいしてくれてもいいだろ」

「うぐっ」


 そう言われると反論しづらい。

 いや一方的に押されてどうする。抗わないと。


「お礼はわたしが心を込めて考えます!」

「現実的に考えろ。オレはこれから相当不利な戦いに身を投じる。アウスターカップだぞ、十万人を相手にせねばならん」


 ヨハンはたたみ掛けてくる。


「オレに何かあったらキーファー家はフランツのものだ。弱気なあいつがお前の思惑どおりに戦争を続けると言いきれるのか?」

「それは……」

「だが、お前が男児を産めば、お前は次期当主の摂政になれる。キーファー公領の兵力がその手に収まるということだ」


 彼は掴んだ公女の手を握ってくる。

 ヨハンの奴。帰り道で理屈を捏ねてやがったな。理詰めで攻めてきやがって。くそう。


「子供が男の子とは限らないでしょう」

「そこは賭けだな。半々だ。己の運を信じろ」

「そもそもヨハン様が死んでしまう時点で不運ですわ」

「ほう」


 ヨハンは満足げな笑みを浮かべる。

 そして抱き寄せるのではなく、向こうから歩み寄る形で公女を抱きしめてきた。


「お前にとってオレの死は不運か。ははは。てっきり心の底では好かれていないものと思っていたが」

「そんなことは」

「オレはお前を愛しているぞ、マリー。初めて会った時からずっとな」


 耳元でささやかれる。

 やめろ。いきなり正攻法で来るな。

 じんわりと頬に紅潮を感じる。マリーの肉体が脈拍数を上げてくる。心臓が高鳴って仕方ない。耳が熱い。

 気管支のあたりから吐き気ではないものがこみ上げてくる。髪の毛が汗でびっしょりだ。


 耐えられそうにない。

 公女おれはエマに助けを求める。


「エマ、ちょっと……」

「マリーが出ていけと言うならエマは出ていく」

「わたしと一緒にいて!」

「わかった」


 彼女は気だるげに答えてくれた。

 君が近くにいるだけで安心できる。心の安定を保てる。来客室に残ってくれていてよかった。


「ふん。ならばエマにオレたちの営みを見せてやろう」

「…………えぇぇ」

「オレは本気だ」

「感性を疑いますわ」


 公女はヨハンの手を振りほどき、エマと来客室を出た。


 彼の斜め上な発言のおかげでマリーの肉体が平静を取り戻してくれた。ふう。理屈で説き伏せられるより正攻法で来られたほうが効くなあ。頭がおかしくなるかと思った。正面から愛をささやかれたのは何年ぶりだ。初めてか。わからない。

 胸の鼓動を右手で確かめる。まだ少し早い。

 もしエマが午睡から目覚めていなかったら……俺たちはどうなっていたのだろう。


 何となく、傍らのエマから距離を取りたくなった。

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