8-4 貴族の攻防


     × × ×      


 老将の肉体は傷だらけだった。手足だけでも銃創と刀傷の痕は数えきれない。清拭担当の女中さんの話ではあちこちで星座が作れそうだったという。

 それはシワまみれの顔面においても同様であり、中でも右耳から右頬にかけての縫合痕は目立っている。常に表情筋を引きつらせているのは治療の後遺症だろうか。

 右眼窩は黒革製の眼帯で被われ、疲れきった白髪には円形脱毛症が散見された。頭皮にも数多の傷痕が残る。

 約半世紀ぶりに対面したモーリッツ氏は、変わり果てた元学友の姿に「壮観だ」と呟いていた。


 オルミュッツ伯アントン・ロート・フォン・シェプフングは、ヒンターラント宮廷で成り上がり者と揶揄されてきた人物とはいえ「大貴族」なので、我が城においても捕虜ではなく客人としてもてなされた。

 お父様の好意で城内の来客室を宛がわれ、大広間の祝宴で出された料理と同じものが使用人たちの手で配膳されてきた。


 ロート伯はジョフロア料理長渾身の品々をペロリと平らげてみせた。七十代とは思えない体力だ。

 皿のソースまで舐めきってしまうものだから、挨拶にきた料理長がえらく喜んでいた。


「気に入っていただけましたか! すごく嬉しいです!」

「歯だけは元気だ」


 デザート代わりの噛み合わない会話が終わり、料理長と入れ替わりで女中姿のエマが来客室に入ってきた。

 ロート伯は新大陸出身者の登場に黄ばんだ目を見開いた。


「ずいぶん美人だ。今夜来てくれ」

「バカなの」

「バカだ」


 老将は彼女の手を取り、ゆっくりキスをする。

 エマの複雑な表情が面白い。生理的な嫌悪感と知識欲がせめぎあっていた。どうやら後者が勝っているらしい。

 彼女には手筈どおり「肩揉み」と称して老将と触れ合い続けてもらう。


「めちゃくちゃ固い。凝りすぎ。肩甲骨の裏に指が入らない」

「鉄壁の守りだ」


 傍目からは祖父と孫のようにも見えた。

 このまま見守り続けても良かったけど、ロート伯に対しては訊ねておきたいことがあった。

 公女おれは改めてヘレノポリス会戦の結果を説明した。北部連盟の圧勝、南部諸侯の敗走。

 その上でなぜ味方の救援を図らず、単独で包囲戦を続行したのか。老将に理由を訊ねた。


「立場だ」


 ロート伯はヒンターラントでは厳しい立場にあった。

 二ヶ月前、ルドルフ大公の許可を得て、占領地のヴィラバ国内で民衆に宣撫工作なだめすかす目的で『世直し』『年貢半減』の宣伝を打ったところ、予想以上に広まってしまったらしい。

 ついにはヒンターラント本国の百姓たちにも伝わってしまい、本国の地方領主や徴税官たちがルドルフ大公の宮廷に苦情を寄せてきたという。

 これに対して宮廷の大臣は「あいつが勝手に言っているだけ」と応じたため、混乱の全責任を老将が負うことになった。


「手ぶらで戻ったら宮廷でどやされる。また地下に幽閉される? 絶対に嫌だ。手土産にラミーヘルムを落とすと決めた」


 結果的に彼は判断を誤った。

 もしモーリッツ氏からヘレノポリスの戦果を伝えられた時点で兵を退いていれば、彼は今ここにいなかったはずだ。


 ちなみにヴィラバ国内でヒンターラントの『年貢半減』の宣伝を広めたのは我が公社であり、その指示を出したのはブッシュクリー大尉だった。

 大尉が出征せずに城に残っていたら、敬愛してやまない存在に一泡吹かせられたと自信を深めていただろうな。


「苦痛だ」


 老将はエマの手を紳士的に退けた。エマの肩揉みは指圧が強烈なので、傷だらけの老体には耐え難かったのかもしれない。

 エマのほうは満足そうにしており、必要な情報は抜き取れたみたいだ。小遣いをもらった子供のような面持ちで部屋を去っていった。


 ロート伯は公女の顔をじっと見つめてきた。


「あれが『揉みほぐしのドミニク』か。期待外れだ」

「あの子はエマといいます」

「そうか」


 老将が見るからにガッカリしていたので、公女おれはベーア伍長にドミニクを連れてくるようにお願いしておいた。

 ロート伯には戦争が終わるまで城内にいてもらう。ルドルフ大公が身代金交渉を持ちかけてこないかぎり、彼の居場所は手狭な来客室だけだ。せめて心地よく過ごしてもらおう。


 それにしても。

 二周目・三周目で散々に困らされた敵指揮官『血まみれ伯爵』が目の前にいるというのは不思議な気分だった。

 本人がボンヤリとした老人なのも相まって、いまいち現実味を感じられない。偽物を掴まされたと疑いたくなる。

 もっとも仮に影武者ならエマが気づいていただろうし、モーリッツ氏があんな哀愁を帯びた目で見つめているはずがなかった。



     × × ×     



 大広間では夜中まで戦勝祝いの酒宴が行われていた。

 酒呑み揃いのシュラフタたちにラミーヘルム城の面々が酔いつぶされている。

 ストルチェクの戦装束姿のマクシミリアンも床に転がっていた。お父様のように吐いていないだけマシだ。


 お喋りなブチョリスキ氏によると、実のところ彼らはエヴリナお母様の手紙を読んでいなかったらしい。

 ロート伯の兵団がストルチェク国内を略奪しながら抜けていった時に、マクシミリアンが率先して「あいつらを叩きのめそう」と挙兵の用意を始めたそうだ。

 民衆の敵を打ち倒せば、次期国王候補として支持を集められると。

 大叔父の友人たちはもちろん、ロート伯の部下に土地を荒らされていた近くのシュラフタたちも公女の末弟に協力を申し出てくれた。

 そうして味方をかき集め、敵を追いかけているうちにシュバッテンに至り……ついにヒューゲルまで辿りついたという。

 だから、これほどに早くラミーヘルム城まで来られた。


「エヴリナから手紙が来ていたなんて。何十年ぶりだろう。僕は嬉しいよ」

「ミコワイ。申し訳ないけれど、私は花押を描いただけなの。他は赤毛の変な女が……それにあれは息子に宛てたものよ」

「それでもいいんだ。君の便りを喜ばない男はいない。いつまでも美しいね。幼い頃を思い出してしまうよ」

「私も会えて嬉しいわ」

「これはきっと運命だね。神様が僕たちを歩み寄らせた。エヴリナ。君さえよければ……」


 フリンスキ氏は大広間の廊下で堂々とお母様を口説こうとしていた。ほろ酔いのパウル公に殴り倒されるまで。

 元料理長のタデウシュさんは久しぶりに調理場に立とうとして、ジョフロア料理長に追い出されていた。

 別に下手な料理を作られたくなかったわけではない。

 モーリッツ氏から余所者を入れないように指示されていたからだ。中でも奥の空間の『食料保管室』には誰も近づけないようにと。



     × × ×     



 九月上旬。

 ストルチェクのヴィエルコ=ストルチェカ地方から追いついてきた有志の歩兵隊六百名と合流したマクシミリアンたちは、窮地の北部諸侯を手助けするために北街道を進軍すると言い出した。


「ちょっとフリードリヒを殺してくる」


 末弟は狩りでもするような口ぶりでパウル公や公女に別れを告げてくる。相変わらず言葉数が少なすぎる。

 フリードリヒなんて同盟ではありふれた名前だから、一体どこの誰なのか伝わってこない。

 あっけに取られるパウル公のために、お喋りなブチョリスキ氏がわざわざ同盟語で補足してくれた。


「フリードリヒ……アウスターカップ辺境伯は国王選挙の立候補者でもあります。御子息は北部諸侯を助けるついでに政敵を殺しておけば、ご自分の選挙を優位に進められると考えておられるようです」


 対立候補を誅殺するなんて日本の選挙戦では考えづらいけど、そういうことらしい。


「そうか。では行ってきなさい」


 お父様は北に向かう末子たちを止めなかった。

 客観的に考えれば、騎兵四百名と歩兵六百名で超大国アウスターカップに立ち向かうなんて自殺行為だ。マクシミリアンは騎兵突撃の成功に自信を深めすぎて天狗になっているのではないかと疑いたくなる。

 なのにお父様は再考を促すことさえしなかった。

 それはお母様のように息子に対する「愛情」が根本的に足りないからではなく、北部の危機的な状況がパウル公の耳まで届いていたからだろう。


 ちょうど大広間で公社の若手スタッフがモーリッツ氏に北部の戦況を訊ねていたので、小耳に挟んでおいた。


「代表。北はそれほどにヤバいのでありますか?」

「兵営の主力がいない状況で大攻勢を受けている。まるで生まれたての赤ん坊が大人の殴打に耐えているような状況だ」

「うちの支店はどうなるのでしょう。同期が多いので不安でありまする」

「某も心配している。逃げていればいいが」

「同期の家族に知らせたいので、支店ごとに状況を教えていただけませんか」

「んんっ……マルセル、お前のことだから間諜スパイではなかろうが、怪しまれるような言動はやめておいたほうがよいぞ」

「肝に銘じておきまする!」


 モーリッツ氏はマルセルと呼ばれた部下に北部諸侯の状況を教えていく。

 当然のように公女のところまで届いていない話も含まれていた。いい加減、情報共有は徹底してもらいたいな!


 ①北部連盟に加入していた領主のうち半数以上がアウスターカップ側に造反した。

 ②造反組の筆頭・バンブス公は近隣諸邦に声をかけて味方に引き入れ、自らも四個梯団の兵を率いて出陣した。また造反決定の際に北部連盟の駐在大使を斬殺したとの密告も入っている。

 ③造反組の面々はアウスターカップの尖兵となり、つい先日まで味方だったヨハン派の居城を攻撃している。

 ④ドゥンスト伯領は造反組の攻勢を受けて落城の憂き目にあい、当主は他国に落ち延びていった。

 ⑤ヴァッサームート伯領は家臣たちが造反派とヨハン派に分かれて、家中で領地の取り合いを始めてしまった。当主家も両派に分裂したせいで収拾がつかないようだ。

 ⑥キーファー公領はヨハンの忠臣・ヴェストドルフ大臣の指示で防衛体制を再構築している。兵力不足から「ブラウ・ヴルム隊」という少年兵部隊まで城の守りにつかせているという。余所の救援に向かえるほどの余裕はないらしい。

 ⑦インネル=グルントヘルシャフト伯領は当主不在の中、次男ゲルハルト率いる梯団が造反組の攻勢を防いでいる。当主と主力不在でも士気は高いという。とはいえ根本的な兵力差から劣勢と思われる。

 ⑧その他、ヨハン派の各城はよく持ちこたえているが、城代家老が出征中の当主を見捨てて新当主を擁立し、造反組に加わる例が出てきている。

 ⑨アウスターカップ兵営は今のところ目立った動きを見せていない。北部諸侯の『同士討ち』を見守っていると考えられる。


「つまるところ、まだ何とかなっておりまするが、アウスターカップが本格的に出てきたら一気に崩れてしまうと仰るのですね! 代表!」

「不吉な話で大声を出さないでくれたまえ。マルセル、お前の祖父は立派な従者だったぞ。少しは見習いなさい」

「ん? なぜ代表が自分の祖父をご存知なのです? 代表っておいくつですか?」

「……乙女に年齢を訊かないでちょうだい! 恥知らず!」


 モーリッツ氏はめちゃくちゃわざとらしくごまかして、そそくさと逃げていった。


 マルセル君が述べたように、北部戦線は崩壊寸前だ。

 いずれ八万人のアウスターカップ兵がラミーヘルム城に殺到してくる。

 ヒューゲル家が生き延びるためには少しでも時間を稼いで、その間にヨハンたちにルドルフ大公を倒してもらい、彼らが引き返してくるまで耐えなければならない。


 だからパウル公はマクシミリアンを行かせた。

 死ぬかもしれないとわかっていながら。

 それを上から目線で咎めるつもりにはなれない。あの人は公女が生きてきた九十年間、ずっと家を守るために歩んできた人だ。

 それはそれで貴族の男として正しいのだろう。


 かくいう自分も弟を止めなかった。

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