7-5 ヘレノポリスの戦い


     × × ×     


 七月。

 ヒューゲル平原の各地に設けられていた駐屯地が少しずつ消えていく。

 兵士たちはテントを片づけている。散らばっていた武器類や私物を鞄に詰め込み、お揃いの制服に着替えたら出発の時間だ。

 下士官の号令が飛び交い、約七百名の梯団が二列縦隊を組む。行動が素早い。かなり統制の取れた部隊だとわかる。梯団旗と制服の色から察するにマウルベーレ兵だな。ヨハンの弟フランツの部隊だ。意外。


 彼らは南に向かう。他家の梯団も続々と地平線に消えていく。

 兵営の説明によれば、三万名以上の兵士が南街道と脇街道に分かれて進み、ヘレノポリス近郊の街で集まる予定だという。


 機は熟した。


 公女おれは尖塔の階段を下りる。

 城内は出陣式の段取りでテンヤワンヤになっている。廊下では城内教会の牧師が法話の練習をしていたり、指揮官たちに授与される予定の梯団旗が旗竿に取りつけられていた。やがて三枚の古びた旗と、四枚の真新しい旗が大鏡の前に並ぶ。衛兵たちが出来栄えを確かめてから、次々と城外に運んでいく。


 大広間で式典の用意を取り仕切っているのはイングリッドおばさんだ。式典会場の訓練場まで持っていく予定の品々を差配している。いらないものは元の場所に戻すように告げ、必要な椅子などは使用人たちに持っていかせた。


 城内町の出入口、大手門ではカミルとエリザベートが抱き合っていた。

 足元には子供たちの姿も見える。


「カミル様。行かないでくださいまし。わたし怖くてたまりませんわ。カミル様を失いたくないの」

「お前の夫の強さを信じてくれないのか」

「信じています。しかし実家の父も逃げてきました。よほど敵は強力なのでしょう」

「余はパウルの子。栄えあるヒューゲル公爵家の当主だぞ。不届き者のルドルフ大公など叩きのめしてやる!」

「頼もしいですわ、カミル様。本当に頼もしい」


 弟夫妻は惜別の接吻を何度も交わす。


 他にも別れを惜しむ男女は多くいた。若タオンは奥さんの抱いた赤ん坊のほっぺを指で突いている。ああ泣かせちゃった。不器用だなあ。


 あとは男女ではないけど、居残り組のボルン卿は出征予定のベルゲブーク卿と力強く握手を交わしていた。

 両者とも父世代から当主の座を受け継いで、格好のせいか多少なりとも立派に見える。


「……いやでございます! 何故自分は北に帰らねばならないのですか、兄上!」

「おめだば、ほかの家のやろをやしょめるから、しんけたがりが治るまで兵営にはかだせれやんね」

「自分も戦います! 兄上を守りますから!」

「おめはほんに、てっでのー」


 ルートヴィヒ伯は弟さんを引きずりながら大手門を出ていった。弟さん、どうも気が強すぎるあまり兵営の連携を乱しかねないとして北部の守りに回されるらしい。見た目は可愛いのに狂犬なのはどこぞの妹君と似たところがある。

 あの子もオーバーシーダー公に嫁いでから、ちょっとは大人しくなったのかな。もう会うことはなさそうだけど。


「マリーおばさまー」


 足元にカミルの子供たちが寄ってくる。彼らにとって公女は伯母にあたる。決して他意はない。可愛い。

 子供たちに続いて、カミルとエリザベートもこちらに近づいてきた。


「マリーお姉様。どこにいらしたのです」

「お姉様をヨハン様が探しておられましたわ」

「尖塔に登っていたの。二人ともキスマークだらけじゃないの」


 公女の指摘に弟夫妻は照れ笑いを浮かべた。

 カミルには七個梯団・約四千五百名からなるヒューゲル隊の司令官として頑張ってもらう。

 公女おれは彼の胸を叩いた。


「武運を祈っているわ」

「ありがとうございます。お姉様も……もしもの時にはエリザベートと子供たちをお願いしますね」

「縁起でもないわね。貴族が殺されたりしないわよ」


 爵位持ちは殺されずに身代金目的で人質にされることが多い。

 ひょっとすると交渉の材料として小指を切られたりするかもしれないけど。


「そうは仰いますが、乱戦や砲撃に巻き込まれるかもしれませんよ。十五年戦争ではスカンジナビア皇帝が最前線で戦死しました。僕だって」

「あなたが死んだ前例はないわよ」

「偶然の死はありえるのでしょう!?」

「……カミル。あなたの奥さんが過呼吸になりかけているから、それくらいにしておきなさい」

「ああっ! エリザベート! なぜ聞き耳を立てていた!」


 カミルが悲観的な話を続けるものだからエリザベートがショックを受けてしまっていた。

 お付きの女中や子供たちが彼女を取り囲み、みんなで「愛すべき公妃様」を落ち着かせようと呼吸のリズムを取り始める。


「はぁ……はぁ……カミル様を失ったら……わたしの一生は……」

「安心してくれ! そもそも余の兵が負けるものか! 絶対に勝つ!」


 弟夫妻は手を取り合い、心の底から見つめあい、涙まじりの笑みを浮かべあう。

 そこに子供たちが加わった。

 ヒューゲル家の未来は明るい。いささか眩しいほどに。

 そう思えてならない光景だった。


「カミル。とっとと出陣式を済ませるぞ。マリーは今までどこにいたんだ」


 城内からヨハンが近づいてくる。

 いつもの緑色の軍服ではなく大君宝物に似た装束を身にまとっている。金色の法服と緋色のマント。力強さに欠けていて、似合っているようには見えない。

 彼の傍らにはモーリッツ氏の姿もあった。こちらは式典用のドレス姿だ。


「ほれ」


 ヨハンはカミル家の抱擁を見つめてから、公女おれを同じように抱きしめてきた。

 契約違反だと咎めるつもりにはなれない。

 彼にとって公女マリーは身内だから。

 ただ相変わらず彼の肉体はゴツゴツしており、装束の宝石も相まって身体のあちこちに刺さってくるので、その点だけは注文をつけてやりたい。


「……よし。行くぞ」

「無事の帰還を祈っております」

「ああ。まだ死ぬわけにはいかないからな」


 ヨハンは力強い眼差しを向けてくる。

 そうは言っても、前回のこいつは前線で敵兵と渡り合っていたらしいからなあ。

 そうだ。


「餞別の代わりにヨハン様に護衛を付けて差し上げますわ。ティーゲル少尉、オストプリスタを呼んできてくださる」

「ふん。女は浅はかだな。どうせ浮気を見張らせるつもりだろう」

「我が家の衛兵で一番の強者ですよ」

「衛兵? お前の護衛はどうするつもりだ」

「わたしにはティーゲル少尉がいますから」 


 その少尉が古めかしい格好の老兵を連れてくる。

 老兵は鈍色の板金鎧に全身を包み、接近戦用の手槍を携えていた。どちらも先祖から受け継いできた逸品だという。


「ミヒェル・フォン・オストプリスタ、参上つかまつりました」

「正気なのか」


 甲冑姿で跪いてくれた老兵に会釈すら返さず、ヨハンは公女おれの人選を否定してくる。

 失礼な奴だな。


「槍術の達人ですよ」

「五世紀前ならまだしも火器の時代だぞ」

「板金鎧は狙撃の盾になれますわ」

「おい……まあ、お前なりの心遣いなら受け入れてやろう。ついでにその少尉も連れていく」

「ティーゲルを?」

「女に若い男を付けていたら、何が起きるかわからんからな。おいカミル!」


 ヨハンはまだ家族の抱擁を続けていたカミルから半ば強引に許可を取りつけ、二人の衛兵を一時的な与力として従えてみせた。

 ティーゲルまで取られるのは辛いな。ただでさえ出兵で見知った連中がいなくなってしまうのに。

 あの言い草といい、文句の一つも言ってやりたくなる。


「わたしの用心棒がいなくなってしまいましたわ」

「外出せずにこの城で待ってろ。オレたちが戻ってくるまで、お前の母君のようにな……ドーラ、あとは任せたぞ」

「はい」


 ヨハンの指示にモーリッツ氏が頭を下げる。赤茶毛の女性が浮かべた自信たっぷりの微笑みに、ヨハンはなぜか満足そうだった。


 カミルもまたモーリッツ氏と言葉を交わす。

 わざわざ手を取り、挨拶のキスまでしている。隣で奥さんがにらんでいるぞ。


「親愛なるドーラ女史。僕の家族をよろしく頼みます。あなたを我が家の城代として信任していますからね」

「カミル様のご期待に添えるよう、某なりに努力させていただきます」


 モーリッツ氏は先月からヒューゲル政府の高官に任じられていた。彼の弁を引用させてもらえば、相応しい地位を取り戻したということになる。


 城代といえば前々回で公女が任された役目だった。

 もはや大昔の話になってしまった。

 あの時、この手に委ねられた『伝家の宝刀』は城の宝物庫に眠っている。




 ヒューゲル家とキーファー家の合同出陣式は南門前の河原、兵舎の前で執り行われた。

 二周目の南方出兵の際とは比べものにならない数の兵士たちが訓練場に並ぶ。両家合わせて約八千七百名の大所帯だ。灰色と緑色のジュストコールが列を為した様相は、掛け値なしに壮観だった。

 主力の歩兵だけでなく騎兵や砲兵も数が揃っていた。

 特に野戦砲三〇門の大火力は「砲撃侯」フロイデ侯の砲兵隊にも劣らないと兵営将校から説明された。

 他にも我が家が強力な兵器を持っていることは、今さら言及するまでもない。色々と危ないから式典には参加させていないけどね。


 ヨハンとカミルの手で各部隊に梯団旗が授与されていく。公社の補給部門にも白地に長梯子の社旗が引き渡された。

 新教派の牧師と旧教派の司教がそれぞれ法話を行い、いよいよ出発の時が来た。


「始めえ!」


 下士官の号令で鼓笛隊の演奏が始まる。

 将兵たちは南に進む。

 彼らは「破滅」を知らない。仮に一部の人間経由で知っていたとしても「変わり者で自称予言者の公女様がまた何かわめいている」との理解に留まっている。

 彼らが命令通りに歩き始めたのは、基本的には生活のため、給金のため、家族のため、世間体のため、立身出世のため、ルドルフ大公とかいう悪者を倒すためだ。


 だから一方的に彼らを私的な戦争に巻き込んでいるわけではないと思いながらも、やはり後ろめたい気持ちは拭えない。

 兵士にならざるをえなかった男たち、ヒューゲル家臣に生まれてしまった男たちに、いつか借りを返せる日が来るだろうか。


「頼んだぞ、カミル」

「父上もお元気で! お母様にもよろしくお伝えください!」


 パウル公が馬上のカミルを見送る。

 公女おれも弟たちが遠ざかるまで手を振った。

 彼らがヘレノポリス近郊に辿りつくのは来月になる。



     × × ×     



 翌月。

 ラミーヘルム城の中庭に空飛ぶ少女が戻ってきた。

 彼女は近くにいた衛兵に封筒を預けると、そのまま北に飛び去っていったらしい。かなり急いでいたようだ。


 中身の予想はついていた。

 公女おれは心臓の鼓動を抑えつつ、居残り組の家臣団を大広間に呼び寄せる。

 彼らは一様に神妙な面持ちをしていた。


「……アンネ、読み上げてくださる」

「はいっ」


 自分で読み上げるつもりになれず、女中のアンネに代読してもらう。

 彼女は封筒から数枚の手紙を取り出した。


「オレは勝利した」


 ──八月十六日。

 北部連盟は集合地点のブリッツブルク城からヘレノポリス方面に進出を始めた。その数、約三万七千名。

 総指揮官のヨハンは近郊部の丘陵地帯に陣地を設けて、南部連合軍を迎え撃つ方針を打ち出していた。

 対する南部連合は持久戦の構えを見せる。あえてヘレノポリスの城壁を捨ててまでヨハンの挑戦を受けるほど、相手の司令部は阿呆ではなかった。


 八月十七日。

 フルスベルク中将の献策を受けて、ヨハンはヘレノポリス城に少人数で攻撃を仕掛けた。五百名の歩兵隊を城壁に突進させる。

 南部連合の城兵は小銃で応戦したが、北部兵は誰一人として倒れなかった。なぜなら『虚像のメルセデス』が生み出したホログラムだったからだ。

 そのホログラム兵に紛れて、カメレオンのように偽装ホログラムを全身に貼りつけられた『山崩しのカスパー』が兵士数名とヘレノポリスの城壁に接近。稜堡の角を崩してみせた。

 ヨハンは南部兵が城から出てこないうちに魔法使いたちを撤退させた。

 付近の街道で補給路を巡る小競り合いが起きて、夕方を迎えた。


 八月十八日。

 南部連合は城から打って出てきた。約六万名の大兵力をもって北部連盟の三万七千名を包み込もうと、かなり広範囲に部隊を展開してきたようだ。

 さらに敵側は『迅雷のクリスティン』と思われる魔法使いを投入してきた。二周目でラミーヘルム城に何発も雷を落としてきた奴だ。

 北部連盟の兵士たちは強烈な雷鳴におののいた。木が焼けて、林が焼けていく。

 これではユリアを飛ばせない。

 つまり効率的な砲撃ができなくなり、味方部隊の位置を把握できず、敵戦列との距離を適切に保つことも叶わなくなった。何より先手が打てない。


 いくつかの梯団は接近してきた敵兵と交戦を始めてしまった。なし崩し的に戦いが始まる。

 ヨハンと将校団は相談の末に、各部隊の指揮官に魔法使いの運用を任せることにした。兵力で劣る以上、もはや戦術面で対抗するしかないと判断した。


 各部隊は任意の魔法使いを本部から呼び寄せ、敵部隊に対して使い始めた。

 例えばタオン隊は敵の戦列歩兵と向き合い、接敵距離が百メートルを切ったあたりで『人気者のシルヴィア』を用いた。

 彼女の能力は周りの注目を浴びることだ。南部連合のボーデン侯の家臣が率いていた部隊は将兵みんなが後ろを向いてしまい、正面から突進してきた若タオンの梯団兵たちに銃剣を突き刺された。


 ヒューゲル第六梯団、ライスフェルト大尉の部隊は『虚像のメルセデス』に架空の遮蔽物を作らせ、持参してきた新兵器「ガトリング砲」と散兵による射撃でフロイデ侯の本営に不意打ちを喰らわせた。

 残念ながら肝心のガトリング砲は火薬の滓が溜まるなど不具合が多くて、ほとんど連射できなかったらしい。

 それでもフロイデ侯を恐怖させるには十分だった。

 ライスフェルト大尉はちょうど近くにいたイディ辺境伯の騎兵隊(二百騎)と連絡を取り合い、共に抜刀して恐慌状態の敵本営に切り込んでいった。


 ジューデン公は『村外れのサンドラ』(※第二回ドラフト二位・ヒューゲル家)で林の中にいた敵梯団を迷わせた挙句に包囲、降伏に追い込んだ。

 グリュンブレッター兵営のシュテルン中佐は統制のとれた後進交代射撃カウンターマーチと支援砲撃で、被害を出しながらもトーア侯の攻勢を退けてみせた。


 こうして南部連合の前衛部隊が各個撃破されていくと、依然として兵力差では南部側が有利でありながら──少しずつ全体の戦線が崩れ始めた。

 南部側は広範囲に部隊を展開していたため、北部側の攻勢で押し出されると同時に連絡線を分断される形になり、味方との連携が取れなくなっていた。そうなると降伏や撤退を選ぶ者が続出してくる。

 敵陣営が全面的な潰走状態に至るまで、さほど時間はかからなかったという。


「ルドルフ大公を探せ! 見つけだして、我が君の前に跪かせてやるのだ!」


 フルスベルク中将の怒号が飛び、キーファー兵営の騎兵隊が追撃を仕掛ける。敵側に対騎兵用の方陣を組めるほど統率の取れた梯団はほとんど残っておらず、一部のなだらかな斜面では一方的な殺戮が繰り広げられた。

 他の戦域でも北部騎兵隊の猛追撃で南部諸侯の兵は混乱を極めていた。


 例外的に南部連合の雄侯・エレトン公の部隊だけは士気を保ちながらヘレノポリスまで後退した。

 キーファー家の騎兵隊が追撃をかけたものの、返り討ちにあってしまったという。我が家の砲兵隊に狙われても平然と後退を続けていたらしい。


 やがてヘレノポリス城内で態勢を立て直した南部側の騎兵連隊が、各所で梯団の撤退を支援するようになると、フルスベルク中将は追撃を止めさせた。

 すでに会戦の勝敗は決していた。


 ヨハンは南部連合の総指揮官の所在を捕虜の将校たちに訊ねたが、彼らは「いない」と答えたという。

 ルドルフ大公はヒンターラント本国に留まっていた。




 八月二十日。

 ラミーヘルム城の大広間はお祭り騒ぎだ。

 ハイン宰相から城内町の有力者たち、衛兵や女中に至るまで、それぞれがとっておきのワインを空けまくっている。

 ジョフロア料理長のおつまみがあっというまに消えてしまう。


 公女の父・パウル公は呑みすぎて嘔吐を繰り返し、久しぶりに「嘔吐公」の面目を施していた。

 イングリッドおばさんはもらいゲロしそうになっていた。


 城内町を巻き込んでのどんちゃん騒ぎは夜まで続く。

 公社のスタッフたちも城内にお目見えを許され、兵士たちと楽しそうに酒を飲み交わしている。

 何となく懐かしいのは一周目のラミーヘルム攻防戦を思い出してしまうからか。

 あの時もヨハンたちに助けられた。


それがしは泣いてしまいそうだ。神話のリュシテアーのように……まさか我々がヒンターラント大公を倒せる日が来ようとは」


 中庭でビールを飲みながら、モーリッツ氏はすでに涙を流している。

 かつて十五年戦争を戦った男としては感慨深いものがあるらしい。


「まだルドルフを捕まえてない」

「時間の問題だろう。エマよ、今回の勝利は大きいぞ。あの街を落とせば南部諸侯の首根っこを抑えたも同然だからな」


 あの街とはヘレノポリスのことだ。

 元々首都だっただけに、同盟南部の街道は全てあの街に通じている。

 もちろんヒンターラント街道を進めば、ルドルフの住まうエーデルシュタット城に辿りつく。


「もはや南部連合は崩した。あとは北のアウスターカップだけ……」

「──大変です! 奥様! 大変なんです!」


 モーリッツ氏の言葉を遮るように上空から声が聞こえていた。

 見上げる前に本人が降りてくる。

 ユリアだ。ずいぶん疲れているように見える。


「どうしたのユリア。ビールを出しましょうか」

「呑んだら飛べなくなります! あ、そうじゃなくて、ええと! 大変なんです!」

「少し落ちつきたまえ。何があった?」

「ドーラ様も訊いてください! さっき山のほうを飛んでいたら、本当にまずいことがあって!」

「まどろっこしい」


 エマがユリアに抱きついた。たしかにそのほうが早そうだけど、ちょっとくらい待ってあげてもいいのに。

 二秒ほどで、エマの眠たげな目が険しくなる。


「……シュバッテン山地のほうから大兵力が近づいてきてる」

「梯団旗は緋色でした!」


 エマとユリアの説明に、公女おれとモーリッツ氏は顔を見合わせる。

 緋色の梯団旗。すなわちアントン・ロート・フォン・シェプフングの兵営。

 またの名を『血まみれ伯爵』という。


「おのれ、あの男は峠で足止めを喰らってからコンセント市に向かわず、ルドルフの城にも戻らず、ヴィラバを北に抜けて……ストルチェク街道を抜けてきたか! くそっ! あやつは昔からそういう奴だった!」

「モーリッツさん、ロート伯の性格をご存知なのですか?」

「ああ! あれとは某が遊学していた頃、共に兵学を学んでいたことがあったものでな! よく知っている!」


 赤茶毛の乙女は立ち上がり、すでに暗くなりつつあった東の空をにらみつける。

 もはや酒は呑めそうになかった。 

 明日にもボルン卿に指揮官を任せて、味方が戻ってくるまで二千名の城兵で耐えしのぐしかなさそうだ。

 大丈夫かなあ。


「あの! それともう一つ、こっちも大変でして!」

「まだあるのか。某としてはエマに全て代弁してもらいたいが」

「北の海岸沿いでアウスターカップ辺境伯の兵団が、北部連盟うちのみかたと戦ってる」


 詰んだ。


 モーリッツ氏は信じられないとばかりに目を丸くしている。右手のビールが赤い靴にこぼれ続けていた。

 かくいう公女おれも気づいた時にはドレスがポテトまみれになっていた。


 このタイミングで北の超大国・アウスターカップに立ち向かえるような余裕は持ち合わせていない。

 味方のほとんどが南にいる状況で、いったいどうやって抑えたらいいんだ。

 ここまで上手く回っていたはずなのに。

 どうして、このタイミングで。


「大変なんです、だからあたしは、ヨハン様にも伝えないと……いけないのに、もう体力が……」

「ユリア!」


 倒れそうになった彼女をエマと共に受け止める。軽い。

 そりゃそうだ。ずっと空を飛び続けてきたのだから。

 女中さんに来客室まで連れていってもらい、ユリアには回復するまで眠ってもらうことにした。マッシュポテトも用意しておかないと。


「全くどうしたものか」

「ヨハンたちにヒューゲルまで戻ってきてもらうしかない。モーリッツもわかってるでしょ」

「しかし南を放っておいたらルドルフ派が息を吹き返してしまうぞ。トドメを刺しておかないと厄介だ」

「エマたちはまだ死ねない」

「某も死ぬつもりはないが、この状況は辛いぞ」


 エマとモーリッツ氏の弁はどちらも正しい。

 だから答えをすぐには打ち出せない。


 かくなる上は試してみるしかないか。

 ──マリーの旦那の「愛」とやらを。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る