6-8 恋の終わり(下)


     × × ×     


 山小屋が昔話で満ちていく。

 タオンさんは考えあぐねた末に、今日の再会を「夢」として処理することに決めたらしい。

 そのように折り合いをつけなければ、少女たちによる突飛な話を受け入れられなかったのだろう。

 老人は三杯目の赤ワインを飲み干してから、かつての上官に羨望の目を向けた。


「全く羨ましいものですな……」

「なんだアルフレッド。お前は女になりたい趣味があったのか」

「とんでもない! ただ、そのように若々しく、何をしても息切れせずに済む身体が妬ましいのでございます」

「それは済まなかった。あの入れ替え能力の魔法使いが生きていたら、お前にも……いや、忘れてくれ」

「罪悪感ですかな」

「そんな言葉では片づけられない」


 モーリッツ氏はちびちびとグラスをすする。空いた右手でタオンさんのグラスにワインを注いでやっており、タオンさんは丁寧に頭を下げていた。


 彼らに手作りのホットカクテルを提供してくれていたイングリッドおばさんには、エマの気絶魔法で眠りについてもらっている。

 おばさんにはまだ秘密を明かせないからね。さっきまで台所に戻らせるために何度もグリューヴァインを作ってもらっていたら、四杯目あたりでブチギレそうになっていたのもある。

 今度、宝石でも進呈しておこう。おばさんは現金のほうが喜びそうだけど。


「……そういえば戦争中だが、某がセルブ=ヌマの前線まで連絡に出向いた折、なぜか先代公にしこたま殴られたことがあったのだが」

「ほうほう! いやあ懐かしゅうございますな! あの時は先代公が虫歯を患ったばかりに苛立ってらっしゃったのです。落馬して前歯が折れるまで『ああ』でした」

「やはりそうか。後から理由を訊いてもシラを切られたから、ずっと気になっていた。まるで神話のアミュコス王のごとき所業ではないか!」

「アミュコス王は言い過ぎでしょう」


 二人の老人は互いに酒を注ぎ合う。

 シャルロッテは彼らの昔話を楽しそうに拝聴していた。彼女にとっては出会う前のタオンさんを学習できる、またとない機会なのだろう。そういえば全くビックリしていなかったけど、シャロは赤茶毛の少女の正体を知っていたのかな……また公女おれの知らないところが話が進んでいる……。

 ちなみにエマは学ぶまでもなく彼らの過去に触れたことがあるため、老人たちの会話の内容が誇張されるたびに「ダウト」「盛りすぎ」とファクトチェック紛いの呟きを繰り返していた。酒場には連れていけない奴だ。


 さながら夢のような時間はあっという間に過ぎていく。

 モーリッツ氏はペースを抑えながらも呑み続け、ついには風呂上がりのように赤くなっていた。

 彼なりに肉体の限界を悟ったのだろう。それまで交わしていた話を一方的に打ち切り、呂律の回らない舌で往年の部下に訊ねる。


「おい。アルフレッド。なぜ『お家』に背いた? 戦場で命を賭けたお前が、何故に先代公の血を貶めた?」

「失礼ながらモーリッツ卿……私はヒューゲル家を貶めたつもりなどありませぬ」


 老人たちの目が鋭くなった。


「馬鹿を抜かせ。お前なら、あのようになるとわかっていたはずだ。何故にヒンターラントの子分に告発など。文句があるのならば某か、城の評定に申し出るべきだったろう」

「ヒューゲルを守るためにはああする他なかった! 評定に申し出たところで莫大な財力を持つ専売公社の圧力に屈するでしょう。公女様の専横による故郷の崩壊を食い止める方法は外圧に求めるしかありませんでした」

「宮廷政府の税収は右肩上がりだが」

「城内にいらっしゃる方にはわかりませぬか。私の知るヒューゲルではなくなっていくさまが耐えがたいのです」


 タオンさんは指先に怒りをにじませる。


 たしかに今のヒューゲルは二十年前とは様変わりしている。ラミーヘルムの市街地は南北に拡張されて、工房地区や荷捌き場が建設された。

 城外では領地を埋め尽くすばかりにタルトゥッフェル耕作地が設けられ、南北街道には交易馬車が行き交う。

 来年にはついに芋輸出用の馬車鉄道が走り出す予定だ。公社の話では数年以内にラミーヘルム城とキーファー公領を結ぶ計画だという。

 兵営は五千余の兵士を抱え、今も新兵たちを鍛えている。

 公女おれの念願だった『富国強兵』計画は成功を収めた。

 もはや別の領邦だといってもいい。


 モーリッツ氏は首を左右に振った。


「アルフレッド。お前の愛したヒューゲルを守るためには変わり続ける必要がある。某どもの祖先がいつまでも辺境の蛮族ではいられなかったように」

「……仰るとおりかもしれませぬ。だから私はもうすぐに死ぬのでしょうな! モーリッツ卿、あなたはどうされる?」

「某はすでに死んでおる。今は、おまけのようなものだ」


 赤茶毛の少女は可憐な瞳を閉じて、がっくりと身体を背もたれに預ける。やがて静かに船を漕ぎ始めた。

 そんな彼の様子にタオンさんは目を細める。


「弱くなられた。昔は酒席ではとても敵わなかったというのに……シャルロッテはドーラちゃん・・・・・・と私のために毛布を持ってきてくれ。私はもう歩けそうにない」

「はいはい。わかったわよ」


 シャルロッテが別の部屋に消えていく。


 タオンさんはこちらの存在を気にせず、あるいは十分に考慮した上で──安楽椅子に身を任せ、上司のように眠りにつこうとした。

 彼もまた年をかさねるたびに酒に弱くなる。みんなそうだな。


 公女おれは椅子に近づいた。


「タオン卿。夢の中で夢を見られますか」

「……私は告発の件を後悔しておりませんぞ。公女様は間違っている。あなたはおかしい。イングリッドは教育方針を間違えてしまった」

「あなたが何を言おうと、わたしはあなたの教え子ですわ」

「信じられませんな。その点だけはとても」

「どうして信じてくださらないの?」

「では公女様は、何故に私を親しく『アルフレッド』とお呼びにならないのですか?」


 タオンさんは真剣な顔をしていた。

 それが余計に──公女おれの笑いを誘った。

 めちゃくちゃ笑ってしまった。イングリッドおばさんが起きていたら、しつけ不足とばかりに百叩きされてしまいそうなほどに笑い転げてしまった。

 だって。


「そ、そんなことをあなたは七十年近くも気にしてきたの……?」

「私はまだ六八ですぞ!」

「あははは」


 まさかタオンさんが公女からの呼び方を気にしていたなんて。きっと一周目や二周目も同じだったはずだ。

 そうか。そんなところにとげがあったのか。小さな棘が。


「……あなたに色々な知識を教えてもらったから、助けてもらったから、今回はあなた無しにやってこられたわ」

「はあ」

「だからありがとう、アルフレッド」


 公女おれは安楽椅子に掛けられた老人の右手に、初めてキスをした。



     × × ×     



 数日後。一六六八年・十月某日。

 公女の汎用馬車は山岳地方の宿駅を訪ねていた。


 四頭の輓馬に休息を取らせる。馬医に診てもらい、旅に同行できそうにない馬がいたら取り替えてもらう。

 一般的な宿駅には周辺の村から多数の馬が供出されており、旅人は代金さえ十分に払えば旅の友人に困ることはない。


 当然ながら、人間用の休息所も併設されている。

 当地の宿駅では古代文明の浴場が往時のまま流用・使用されていた。ヒューゲル近辺ではめったにお目にかかれない温泉だ。


「ふう。まさに古代人になった心地だ。シャルロッテも同行すればよかったものを」


 モーリッツ氏はお湯に溶けながら、この空間にいない人物の名を挙げる。


 あの人は愛する男性の最期を看取るつもりだ。恋の終わりが訪れる日まで傍にいたいと話していた。

 その日は近いうちにやってくる。


 おそらくタオンさんと公女は、あれが今生の別れとなるだろう。

 彼が前例を打破して長生きしてくれたとしても、やがて南北戦争が始まってしまえば、敵中突破を敢行しないかぎり山岳地方には近づけなくなる。

 今から会いに戻らないかぎり、もう二度と会うことはできない。

 あの端正な顔立ちを自分の視界に収められない。


 公女おれは湯船から天井を見上げた。ほとんど崩れ落ちている。当代の施工技術では元通りに復元できないらしい。コンクリート部分を再現できないという。


 ──あの人との別れ方に不満は無かった。

 和やかに仲直りできたし、ありがとうと告げられた。

 おかげで、俺は心の底からスッキリしてしまっている。


 もうタオンさんには二度と会えないというのに、かつて自分が予想していたほどの辛さを感じない。

 焦燥感がなければ、喪失感も一定以上は覚えられない。

 完全に過ぎたことになってしまっている。


 二周目でエマが死んだ時には、あれほど苦しかったというのに。

 なぜだろう。

 また会えるような気がしているのか?


「それは井納だから」

「バカだってことだね」

「そうじゃない」


 いつのまにか近くにいたエマに心を読まれる。お湯の中でつま先をくっつけてきた。


「どういうことなのさ」

「こっちを見ないで」


 彼女のほうに振り向いたら、すぐに右手で顔の向きを押し返された。

 俺に裸を見られたくないらしい。今さらだなあ。


「タオンの世話になったのはあくまでマリー。井納は世話になってない。だから辛くならない」

「わかるような、わからないような……」

「お芝居で猿を倒してもらっても、カニの役者は恩なんて感じないでしょ、猿カニ合戦」


 エマは目の前にチョキを繰り出してくる。手が小さくて可愛い。

 あくまでマリー役だから、マリー本人ではないから、悲しくならないと言いたいのかな。

 それはそのとおりだ。


 いやね。

 何となく今さらになって……今回もっと必死でタオンさんを追いかけていたら、例えば狩りに乱入するなどして誤解を解くために手を尽くしていたら、ひょっとしたら前回までのように仲良くなれていたかもしれないと考えてしまう時があって。

 自分がそうしなかったのは、他のことで忙しかったというより、そこまで努力するだけの『価値』をタオンさんから見出せなかったから……という答えに辿りついてしまった。

 実際、三周目はタオンさんの協力抜きでここまで来られたからね。


 タオンさんは必要なかった。それゆえに今生の別れが辛くないなら、自分は自分自身に失望と軽蔑を隠せない。あまりにも薄情すぎる。

 逆にエマが話してくれたように『当事者性の欠如』が原因だとしたら、井納おれとしては少し救われた気分になる。若干モニョっとした気持ちもあるけれど。


「頑張れ」


 エマは小さく呟いてから、両手でこちらの頭を撫でてきた。もう乾きつつあったのに髪をベシャベシャにされてしまう。


 そんな公女おれたちのところに赤茶毛の少女が近づいてくる。

 相変わらず神がかり的に端正な肉体の持ち主だ。お風呂で泳いでいる点以外、文句の付け所が見当たらない。

 引き締まった体躯は単純に羨ましい。公女はお母様に似ているからね。


「パウルの子女よ。この温泉は良いところだろう。某が若い頃に何度か利用させてもらったが、何も変わらん」

「久しぶりに心地良い気分ですわ」

「ああ……実はスカンジナビアにも似たような温泉に心当たりがある」

「それはぜひ行ってみたいですね」

「かまわんぞ。公社のことは某たちに任せて、お前はあと七年、平和な土地でサテュロスのように怠惰に過ごしてくれてもいい」


 モーリッツ氏はタオンさんと再会してから、こうした提案を毎日のようにぶつけてくる。馬車の中でも就寝中でも。

 彼なりに気を利かせているつもりのようだ。ぶっちゃけ引退を迫られているようで辛い。


「来年には戦争になる。不幸が雪崩のように押し寄せてくるだろう。お前とて巻き込まれたくあるまい」

「お気遣いありがとう。でも、わたしにはまだヒューゲルでやるべきことがありますから」

「もう大丈夫だ。金の心配ならば」

「ドーラさんったら、くどいですわね!」


 公女おれは湯船から立ち上がった。

 モーリッツ氏は追いかけてくる。赤茶毛が濡れて、おでこにくっついていた。


「待て! あと七年だぞ!」

「さっきから何の話ですか。あと七年で「破滅」なら、そのぶんわたしも努力していかないと」

「お前の余命だろうが! なぜわからん!」


 そういえば、そうだった。

 井納の余命は七十五年。あと七年したら自分は死ぬ。 

 忘れていたつもりはないけど、こうして直言されるまで自覚には乏しかった。

 あと七年。

 公女の健康的な肉体が数年で朽ちてしまうとは想像できないものの、管理者の弁では魂の命数が尽きるという。その先に何が待っているのか、未だわからない。

 ……公女わたしだけでなく井納おれとしての自覚まで乏しいとは。我ながらアイデンティティがフラフラだ。


 モーリッツ氏はこちらを指差してきた。


「お前の人生、もう余生を楽しんでもいい頃だろう。アルフレッドのように」

「……温泉にはたまに入れたら十分ですわ」

「実はキーファー領内にも隠れ家的な温泉街がある。死ぬまでヨハン様と……心穏やかに過ごせるとしても、承服できないのか?」

「…………エマを連れていってもよいのなら、考えてあげます」

「それは困る」

「でしょうね」


 お互いにクシャミをして、交渉決裂。


「肌寒くなってきましたわ。戻りましょうか、ヒューゲルまで」

「いや、某はまた入ってくる。風邪を引きたくないからな。老い先短い『誰か』とは違って、ドーラには未来がある」

「……あなたの魂にも余命はあるんじゃないかしら」

「知らん!」


 モーリッツ氏は湯船に飛び込んでいった。後に続こうかと思ったけど、イングリッドおばさんに怒られそうなのでやめておいた。

 飛び込みの水しぶきを浴びたエマが、モーリッツ氏を追いかけ回している。

 俺は湯冷めする前に更衣室に戻ることにした。秋風が冷たい。



     × × ×     



 一六六九年・一月二六日。

 シャルロッテはタオンさんと二人きりで夜空を眺めていたという。

 巨大な彗星が地球をかすめていた。

 ほうき星は古来から「凶兆」とされている。


「信じられん。本当に来るとは」

「何年か経ったら世界も滅ぶそうよ、アルフレッド」

「あの方は本当に……」


 タオンさんはしばらく目を伏せてから、傍らの女性にいくつかの秘密を明かしたらしい。

 それは顔の広い彼ならではの、他では得難い『噂話』だった。



     × × ×     



 同日。

 公女おれはラミーヘルム城の三日月湖で、夜空に背を向けながら、自分が『三周目』を生きていることを家族に明かしていた。

 新年からずっと彗星の接近を予言してきたぶん、公女の告白は多少の信憑性を帯びていたようだ。

 パウル公やカミルは初めて「破滅」の運命を知り、対策のためにタルトゥッフェル公社が設立されたと説明され、唖然としていた。


「ヨハン様が汚名を被ってまでスネル商会の海賊船に協力していたのも「破滅」の未来を回避するためです。南北の超大国に魔法使いが行き渡ってしまえば、何かしらのきっかけで破滅の魔法が解き放たれてしまいますもの」

「破滅の魔法とは何なのですか、お姉様。大地が揺れてしまうのですか」

「まだ原因はわからないけれど、この世が光に包まれて消え失せてしまうわ」

「そんなことが……」


 はたしてパウル公たちは納得してくれたのか。

 エマの読心術によると未だに半信半疑らしい。半分でも信じてくれたらこっちのものだ。


 もうすぐ南北戦争が始まる。破滅を止めるための戦争だ。

 当主の『鶴の一声』で国家の方針を変えられてしまうと非常に困る。公女おれたちは戦争継続のために努力を惜しまない。

 モーリッツ氏は莫大な献金で評定衆を味方につけてくれた。兵営の若手将校たちは与えられた六千名の大兵力と「新兵器」を操りたくてウズウズしている。


 城外の工房地区では日夜、小銃や軍用品が生産され、兵営や公社の武器庫に運び込まれていく。

 穀物類の備えは十分にある。遠征用の荷馬車も揃えてある。


 夜空を切り裂く凶星に、城内教会の牧師は「あれは彗星といって……神の御心の現れです。逆臣にして聖書を信仰せぬ者が成敗されます」と説く。

 末弟のマクシミリアンはストルチェクに送りこまれ、大叔父とシュラフタたちが国王選挙の候補者として推戴する予定だ。


 準備は出来上がりつつある。

 あとはきっかけを待つだけだ。

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