6-7 恋の終わり(中)
× × ×
山岳地方の小都市。
タオンさんは山小屋に毛が生えたような邸宅で余生を過ごしていた。
公女に先んじて再会を果たしていたシャルロッテが、老人の手を引いている。手紙によると長生きのために毎日散歩に連れ出しているらしい。
なだらかな高原が広がる。青空と草むらが映えており、雄大な山岳から心地よい空気が降りてきた。つられてやってきた大きな雲が盆地のあちこちに暗がりを作っている。
やがて二人が邸内まで戻ってきた。
手を引くほうは死ぬほど幸せそうだけど、引かれている老人は険しい目をしている。
「これは……どうやら年貢の納め時のようですな」
こちらに気づいたタオンさんは、うやうやしく
いつものように跪いてくれない。
「タオン卿。あなたともあろう方が礼を欠いておられますわ」
「近頃めっきり足腰が弱ってしまい、ままなりませぬ。ご勘弁くだされ」
「跪いてくださいまし」
「公女様、古希の老人を苛めるものではありませんぞ」
「跪きなさい」
タオンさんは何も言わずに片膝を地面に突く。まだ出来るのは承知の上だ。
「……キスを」
こちらから右手を差し出す。
老人は作法通りに公女の手を取ると、乾いた唇を添えてくれた。
彼の手はわずかに震えていた。
別にタオンさんを苛めたいわけではない。仕返しのつもりなんてない。
これは儀式だ。公女と老臣をつなぐために不可欠な
「タオン卿、ずっとあなたに会いたかった。あなたとお話がしたかった」
タオンさんのほうは対応に困っているみたいだ。こちらから目を逸らしている。
「お戯れを。不忠者と話すことなどありますまい」
「あなたはわたしの恩人です」
「私を処刑されるおつもりでしょう。あの衛兵どもを使役して。この老いた首を切り落とし、パウル公に献上なされば、さぞかし褒めてもらえますぞ」
「わたしがタオン卿を殺すわけないじゃない」
引き抜かれそうになる指先を握り続ける。
心を読むまでもない。タオンさんは公女に怯えている。
目の前の少女ではなく狭苦しい仲間内で語られてきた『忌々しいマリー』『自分勝手な公女様』のイメージ──増幅された虚像を恐れている。だから処刑なんて台詞が出てきてしまうのだろう。
ゆえに彼の震えが落ちつくまで、ひたすら接触を続ける。
タオンさんの認識を現実の
この世の誰よりも他人の心に触れてきた奴の提言だから、きっと上手くいく。汗ばむほどの温もりでわだかまりを溶かしてやる。
すれ違ったまま、終わってたまるものか。
「わたしは、あなたに会いたかったのです」
「わかりませんな。わけがわからん。公女様にとって私は……」
「初恋の人ですもの」
呆然としていたシャルロッテを促し、老人を両脇から引っ張り上げて立たせる。以前より軽くなったな。筋肉の存在を感じられない。
タオンさんは何も言わずに立ったままだ。じぃっと遠くの雲を見つめている。
シャルロッテと二人がかりで山小屋の椅子まで連れていこうとしたら「結構でございます」と固辞されてしまい──奇しくも先程とは対照的に、先に歩き始めたタオンさんを追う形になる。
みんなで来客室に行く流れだな。
「イングリッドおばさま。タオン卿のためにスパイスたっぷりのグリューヴァインを作ってくださる?」
「いいわよ。任せなさい……アルフレッド、台所を借りるわね」
これでおばさんは席を外してくれた。
シャルロッテとモーリッツ氏は同席してもらうとして。うちの衛兵には外を巡回してもらおうか。
「エマは」
「エマを外すわけないよ」
「井納は嘘つき。信じてあげない」
眠たげな目が公女をにらんでくる。
初恋の件かな。
「あはは。大切な人より効くと思ってね。盛っちゃった」
「井納の初恋は別の人なのに」
「えーと。たしか近所のさやかちゃんだ」
「あかりちゃん。さやかちゃんはコンビニのバイト仲間」
「そうだっけ」
ぼんやりとしか思い出せない。
君が言うからには君の答えが正しいのだろう。いつもそうだ。
「さっきタオンがしばらく立ったままだったのは、マリーとシャルロッテのおっぱいを両肘で堪能していたから。タオンはスケベ」
「ええっ……いやいや。エマはここに来てからタオンさんと触れ合っていないよね」
「いつもエマが正しいわけじゃない」
「……それは困るなあ」
などと日本語を交わしているうちに自分たちは山小屋に辿りついていた。
近くで見るとますます素朴な作りをしている。丸太小屋というか。
シャルロッテが持ち込んだらしい舶来品が廊下に並んでいなければ、牧場の用具入れと説明されても納得してしまいそうだ。
タオンさんは来客室の安楽椅子に腰かけている。
シャルロッテが甲斐甲斐しく彼の靴を脱がせていて、世話焼きな娘みたいで微笑ましい。先ほど話を盛りすぎたせいか、たまに鋭くにらんでくるけど。
そんなことより。
おばさんが戻ってくるまでにタオンさんには伝えておきたいことがある。
「タオン卿。わたしの話を聞いていただけますか」
「初恋の件でございますか」
「はい。あなたとわたしが初めて出会ったのは……六十年前の八月でした」
三周目に至るまでの日々を。
一周目ではあなたに学び、助けられ、守られてきた。あなたという後見人がいたからこそ、公女は同い年の女の子たちと比べて自由に動き回ることができた。勉強部屋では『隣の世界』で生きていくための知識を習得させてもらった。暴走しがちな当主カミルの補佐役としても活躍してもらった。
二周目では彼が派兵部隊の指揮官を担ったことで、一周目のように異教徒との無益な戦争に巻き込まれずに済んだ。ベルゲブーク卿と五百名の兵士の命が救われた。他にも要所要所で助けてもらった。
一周目・二周目を問わず、知らない人を見かけた時にはタオンさんに教えてもらうのが常だった。低地の大商人を釣るためのエサにもなってくれた。
……改めて目の前の老人を見つめる。
ひたすらに首を傾げていた。
「つまるところ、わたしは『破滅』を止めるために三度目の人生を歩んでいるのです。前回までタオン卿とは強い絆で結ばれていました」
「わけがわかりませぬ。黄表紙の読みすぎではありませんか」
「作り話ではありませんわ。タオン卿の葬式にも出たことがありますもの!」
「シャルロッテ、やはり公女様は変な病気にかかっているようだぞ。ヒューゲルにいた時、友人たちがそんな話をしていたが。新大陸の小娘に妄想病を移されたと」
「あら。本当の話らしいわよ。例の予知夢が良い証拠じゃないの」
「うむむ……」
タオンさんは訝しげに目を伏せた。このまま眠ってしまいそうで少し怖い。
ドスッ。
そんな彼を叩き起こすかのように、強烈な音が発せられる。
発生源は
「揺れすぎる。実用品ではなさそうだ」
目論見どおり(?)関心を集めたモーリッツ氏は火縄の先端を銃剣で切って捨ててから、華奢な肩に掛けていた外套をタオンさんに被せてみせた。
「ずいぶんと頑迷になったものだな。若い頃のアルフレッドとは大違いだ」
「お前は専売公社の女だったか。出自は知らんが、よくもヒューゲルをめちゃくちゃにしてくれたものだ。許しがたい」
「某がモーリッツ・フォン・ハーヴェストだと名乗ったら、信じるか? 上官の家紋を忘れたわけではあるまい」
「まさか」
タオンさんは受け取った外套を見つめる。
ヒューゲル兵営の冬服には『長梯子』の紋章が縫いつけられており、高級将校用となると持ち主の地位を示すために個別の家紋が刺繍されている。
ツギハギだらけでボロボロの布地からハーヴェスト=ディアモント男爵家の『秋片喰紋』を見つけた老人は、目の前に立つ少女の姿を眺めて、やはり首を左右に振った。
「ありえませんな」
「某がまだヒューゲルの評定を追い出されるより前、お前と二人で自由都市まで女を買いに行ったことがあったな。お前は家財を売ってまで持ち金をこしらえていた。あそこでアフロディテのような美形の商売女を孕ませてしまって、お前は嫁さんには内緒でずいぶんと援助に金をかけていたが、結局合わせていくらになった?」
「……我が子ヴィルヘルムから教わったのでございますか」
「すでに敬語ではないか。頭で受け入れられずとも魂では理解しているのだな」
「何が何やら、もう」
「酒で流し込んでやる。ついでに三十年ぶりの再会を祝そう」
赤茶毛の少女はちょうど作りたてのグリューヴァインを持ってきてくれたイングリッドおばさんに二杯目を求めて、ものすごく迷惑そうな顔をされていた。
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