5-2 気づき


     × × ×     


 ヒューゲル兵営の快進撃は南北の自由都市を落としたあたりで終息を迎えた。

 別に自由都市の抵抗で我が家の兵力が大損害を受けたわけではない。むしろ包囲しただけで落とせたとの報告を受けている。


 ──ヨハンの実家が援軍を求めてきた。

 例によって窮民一揆『慈悲救済軍』が攻め寄せてきたらしい。キーファー兵営のフルスベルク中将からの使者によると、国境線で一進一退の攻防を続けているようだ。


 当主のくせにヒューゲルに滞留中のヨハンは、理由もなく公女おれの勉強部屋で使者との引見を済ませると、たちどころに城外の兵営に走っていった。

 おそらくカミルと交渉したのだろう。

 ヨハンは満足そうな顔で勉強部屋に戻ってきた。


「どこぞの姉様と比べれば、お前の弟は遥かに律儀だな。オレに二千人、三個梯団を貸してくれたぞ」

「それはよろしきことですわ」

「これからオレは北に向かう。父祖の地を犯さんとする似非宗教家を叩きのめしてやる。やってやる。しばらくお前とは会えなくなるな。この部屋で夫の勝利を祈っているがいい」

「そうさせていただきます」


 公女おれは椅子から立ち上がり、恭しく祈りを捧げてみせる。

 二千名といえば現状のヒューゲル兵の七割に相当する。

 それだけ北に送り込むと、もはや兵営は他の土地にまで手を出せなくなるだろう。

 例えばストルチェクとか。

 お母様の圧力で先日の出兵計画は取り止めとなったけど、エマの内偵によれば兵営幹部は未だに野心を抱いているようだ。いつか東の草原を抑えてやろうと。

 その企てがめでたく「ご破算」となった。こんなに嬉しいことはない。


「……ずいぶんと熱心に祈ってくれる」

「えっ? ええ。ヨハン様に死なれては困りますから」

「女房の期待には応えてやらないとな」


 ヨハンは公女のおでこに手を添えると、無造作に前髪を掻きあげ、ほんのひと時だけキスをしてきた。

 公女の肉体は公女の固有財産であり、いかなる侵害も許されない契約だけど……これくらいは見逃してやろう。これから相手は戦地に赴くわけだし。

 ……いや。見逃したら駄目だろう。おいおい。なんで気を許しているのさ。


「どうしたマリー。今日は嫌がらないのか」

「契約違反ですわ」

「嫌ではなかったようだな」


 ヨハンは気を良くしたのか、マリーの頭髪の毛先を捻り始める。

 柔らかな髪がさらりとほどけて、また軽く捻られる。


 彼の指先が頬に辿りつく。冷たくて固い。豆が出来ている。人差し指が公女の肌を滑っていく。あごのあたりで止まる。

 やがて、彼我の間が近づいていくにつれて、お互いの息づかいが生々しく伝わってきた。

 このままでは不味い。


 なのに。

 たしかにヨハンの言うように、なぜか嫌ではなかった。


 口づけ。

 背伸びをしないと届きそうになかったから、ヨハンが降りてきてくれて、そのまま流れでベッドに押し倒される形になる。


 周りを見回せば、すでに公女付き老女中のフィリーネさんの姿はない。

 エマは兵営の依頼で捕虜を尋問している。

 ヨハンを止めるものは何もない。


 ここで公女おれが抵抗しなければ、このまま──。


「……いいのか?」


 不意に彼の手が止まった。

 マリーのドレスは乱れる手前、ふくよかな双丘だけが表に出てしまっている。


 公女おれは答えるつもりになれない。それは相手にとって好都合な『暗黙の了解』なんて生易しいものではなくて、そんなことに気を払っていられなかったから。


 今、気づいてしまった。

 いや、以前から薄々感じていたことが明確な形になって浮かび上がっていた。


 どうやら、もはや自分は男性どうせいに抱かれることに生理的な嫌悪感を覚えていないらしい。


 今までの人生や記憶──矜持が心理的な抵抗を見せるだけで、こうして「なぜか」許せてしまえば、身の毛のよだつほどの気持ちには至らない。


 考えてみれば、今となっては前世よりもマリーとして生きてきた時間のほうが二倍以上も長い。

 自分は井納純一おとこではあるものの、その何倍も公女おんなだった。 


 その上で……さっきキスされたおでこが、ついばまれた唇が、今も口づけされているあたりが、ほのかに熱を帯びている。


 身体は正直だ。

 ヨハンがその若さからマリーを求めたからには、マリーの若さもまた彼を求めていないとは言い切れない。

 常に「破滅」を見つめる井納と、公女マリー・フォン・ヒューゲルを、仮に切りはなして考えてみる。

 これまでの自分の咄嗟の行動や気持ちの起伏を思い起こせば「彼女」が心理的な部分でも相手に惹かれている可能性はある。


 ヨハンがモーリッツ氏の手にキスした時、たしかに公女の脳はモヤモヤした。

 二人が和やかに会話しているだけで胸がざわついた。

 ヨハンの父が死んだ時、もっと上手く立ち回れば、もっとワガママを言い張っていたら、おそらくヨハンとの結婚は回避できた。

 去年、彼がヒューゲルに滞在すると決めた時、心臓の鼓動が跳ねた。


 身体は正直だった。


「……本当にいいのか」


 またヨハンの手が止まる。二周目の彼なら訊ねてきたりしなかった。あるいは酒が足りないのだろうか。

 公女は答えない。


 俺としては、別にどっちでもいい。


「おい、マリー。一体どこを見ている」


 ヨハンと目が会う。

 ひたすらに力強くて険しい瞳だった。


「…………フィリーネさん! 窓を開けてくださるかしら! 大至急!」

「はい! ただいま!」


 廊下に控えていた老女中が大急ぎで部屋に戻ってくる。

 ベッドの横を通り抜けて、窓の金具を外してくれた。


 季節はまだまだ冬の途中だ。

 雪風に耐えかねて、ヨハンは半裸のまま窓のほうに走っていった。


 公女おれはドレスを整えて、ベッドから立ち上がる。

 まだ胸の鼓動が収まりそうにない。火照りは冷めてくれた。


「ヨハン様。遊びはここまでと致しましょう」

「何だと! ふざけるな! このオレをからかったのか!」

「死地に向かう方に餞別として、わたしの固有財産を分けてあげたのです。怒られる筋合いはありませんわ」

「オレの固有財産も分けたことになるはずだ!」

「では、おあいこですわね」


 公女おれは軽く礼をしてから部屋の外に出る。

 ヨハンが身なりを整える前に逃げておこう。

 半裸では出歩けまい。


「……どうしたパウルの子女。ドレスが竜巻にぶつかったかのようにめちゃくちゃだぞ」

「モーリッツさん」


 たまたま通りがかったのか、俺に会いに来たのか、廊下で赤茶毛の少女に出くわす。

 公女おれは彼に見てもらいながら、ドレスの乱れを直すことにした。

 他の人に会う前に気づいてもらえてよかった。だらしない格好なんて許されない。イングリッドおばさんに殺される。


 やがてモーリッツ氏の目が、ドレスの飾りから外れて、別のところに向かう。


「それはあれか、吸われたのか?」

「えっ」


 彼の指が首元を突いてくる。

 自分では見えないけど、もしかして肌が赤くなっているのかな。

 あとで白粉を付けておこう。チョーカーかマフラーでもいけるな。


「ありがとうございます。とりあえず廊下の大鏡で見てきますね」

「おお、そうするといい……」

「わたしに用件がありましたら、夕食の時にでも」


 本当にモーリッツ氏に会えて良かった。

 首にキスマークなんて付けた日には城の人たちに合わせる顔がない。恥ずかしすぎる。変に勘ぐられたくないし。

 何があったのか、訊ねられても困る。


 ……俺は大鏡の前で息を吐く。


 ふう。困ったな。

 エマに会えなくなってしまった。


 さっきのことを知られたくない。

 何より誰よりも井納を知っている彼女がすでに「気づいていた」としたら、もうね。

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