5-1 春雨


     × × ×      


 一六六六年。十二月。

 日照り、凶作、蝗害、飢餓、抗争、地獄。

 衣食足りて礼節を知るという古典的成句は君主が夜ごと泣きたくなるほどに正しく、大君同盟の各地で明日の穀物を巡って血みどろの争いが繰り広げられていた。


 雪原が流血に染まり、血液の沼が吹雪に消えていく。

 血染めの鍬を携えた青年が、なけなしのライ麦と薪を抱えた老婆を殴り殺し、どうにか長い冬を越えようとする。

 追い剥ぎ同然の徴税官から逃れるために百姓たちは生家を捨て、行く宛もなく雪原を進む。夜の酷寒に耐えかねて自由都市に逃げ込もうにも余所者は迎え入れてもらえず、郊外の教会には何も残っておらず、彼らは絶望の中で静かに野垂れ死んでいった。

 自由都市でも穀物不足は深刻であり、市民は飢えていた。徒党を組んだ百姓たちに城壁を突破された町などは、筆舌に尽くしがたい惨状に陥ったようだ。


 公女おれの耳に伝わってくる「風説」はどれを取っても悲惨だった。


 そんな地獄絵図の渦中を灰色の兵士たちが突き進んでいく。その数は三部隊合わせて三千名。

 任務は領地の回収。


 曇天に掲げられた『長梯子』の梯団旗には地元民が助けを求めてくる。

 ベルゲブーク卿からタルトゥッフェルを与えられたコモーレン伯領の小作人たちは、自ら尖兵の役目を担いたいと申し出てきた。

 若タオンの部隊には二百名のシルム領民が加わり、ブルネン隊にはクラーニヒ伯の家臣たちが助太刀するとして陣借りにやってきた。


 もはや交戦する前に勝敗は決していた。

 いわゆる「未回収のヒューゲル」の領主にあたる三人衆のうち、シルム伯とクラーニヒ伯は早々に降伏を決めてくれた。


 一方で、コモーレン伯爵家の当主ユリアンだけは徹底抗戦を挑んできた。

 報告によると数年前の挑発事件以来、彼は君臣の支出を切り詰めて城館の防備を固めてきたらしい。

 ライム王国製の青銅砲五門に小銃千挺、ラミーヘルム城と遜色ない堡塁の数々が、ユリアンに自信を持たせていた。

 ところが肝心の兵士たちには満足な食べ物を与えていなかったようで、空腹に耐えかねた傭兵隊に反乱を起こされてしまい、あえなく城館は落城。

 ユリアンと一族郎党は再起を目指して西に落ち延びようとしたものの、状況を読みきっていたブッシュクリー大尉が衛兵隊を率いて立ちふさがり、交戦の末に──コモーレン伯爵家は末子ヨーゼフを除いて「全滅」したという。


 こうしてヒューゲル公領はほぼ兵を失うことなく、年をまたぐ前に旧領回復を成し遂げた。前回より三ヶ月ほど早い。新記録だ。

 敗者の当主や家族には(申し訳ないけど)新大陸で新しい生活が待っている。もうナターリエおばあさんに翻弄されたくないからね。あの人と顔を合わせたら自分が何をしてしまうかわからないし、せめて遠くに行ってもらいたい。


 二周目ではルドルフ大公の支援を受けて大がかりな復讐戦を仕掛けてきた少年・コモーレン伯の末子ヨーゼフは、ヒューゲル家に対する呪詛を吐きながら港町に連行されていったという。


 クラーニヒ伯ベルンハルトは「子供たちを母方の親戚にあたるフロイデ侯の元に送ってやってほしい」と手帳に書き残し、自刃した。

 この手帳は座敷牢の世話役から兵営の若手将校に預けられ、将校から報告を受けたブッシュクリー大尉によって密かに処分された。

 よってベルンハルトの死は表向きには「不徳を恥じた結果」とされており、クラーニヒ伯の子弟は予定どおり新大陸に送られている。


 ……新年祭と戦勝祭の祝宴続きで酔いつぶれた白髪の大尉が、ひょんなことから我らがエマに介抱されていなければ、俺たちが真相を知ることはなかっただろう。やっぱり今回も信用ならない男だ。

 他にも様々な非公開情報が手に入り、俺は祝いの席にいながら不安を覚えずにいられなかった。



     × × ×     



 新年を迎えてもヒューゲルの戦争は終わらない。

 かねてからの計画どおり、世の中が乱れているうちに切り取れる土地は抑えておく。


 ヒューゲル兵営は雪解けを待つことなく東側のシュバッテン伯領に攻め込んだ。作戦案は大不作の前に完成していたため、たった二日ほどで全土を抑えることができた。タオン家と交流のあったシュバッテン家臣の街道守を造反させておいた点も功を奏したようだ。


 シュバッテン伯のおじいさんは三日目に投降してくれた。山裾の居城には約千名の兵が残っていたけど、後詰め(援軍)の来ない持久戦は無益だと判断したらしい。


 この老人もナターリエおばあさんと同じく油断ならない方だ。

 かつて先代公に擁立されながら、先代公が遠方に出兵してから一年も経たないうちに旧教派に鞍替えした件は、約四十年後の現在でもヒューゲル家臣団の記憶に焼きついていた。

 特にモーリッツ氏は当時ヒューゲル政府の宰相だっただけに、シュバッテン伯の日和見ぶりが許せなかったらしい。


 占領完了後、彼は古びた外套を身につけて、公女の部屋まで直談判にやってきた。


「あの変節漢だけは生かしておけぬ。いずれ我らの仇となる。パウルの子女よ、お前の弟にあの者を処断するよう進言してもらえないか」

「お断りします。無茶を言わないでくださいまし」

「某のガトリング砲を試射させてくれ。あの老いぼれが役立つ方法は他にないぞ」

「大君陛下の直臣を殺せるわけないでしょう」

「それはわかっているが……夢の中でお前の祖父が某に語りかけてくる。シュバッテン伯だけは許すなと。まるでうわ言のように」


 モーリッツ氏に両手を掴まれた。

 ラベンダー系の香水と少女の匂いが混じりあい、どこかふわふわした気分になってくる。

 まだ色香と呼ぶには早すぎるけど……ともすれば、惑わされてしまいそうな……。


 公女おれは読書中のエマに声をかける。


「エマ、ついでにモーリッツさんの夢を読み込んでもらえるかしら。いけない悪夢を見てらっしゃるの」

「それには及ばない。ただの例え話だ」

「でしょうね。わたしたちに嘘やごまかしは通用しませんもの」

「……少しトゲがあるな。何が言いたい」

「モーリッツさん、あなた、わたしに内緒でカミルやブッシュクリー大尉を焚きつけているでしょう」


 こちらの問いに彼は反応を示さない。おそらく続きを待っている。

 公女の手首も掴まれたまま。ただ少しだけ相手の力が強くなった気はする。


「──ヒューゲル兵をあちこちに赴かせて、どんどん攻めよ、どんどん広げよと。公社の穀物を餌に出兵を促していますわね」

「それはそのとおり。某はお前たちの計画を進めている。あの日、低地で球戯台の地図に示されたとおりにな」

「わたしたちに内緒で?」

「報告するまでもないだろう。故人曰く、よき役人は「いち」の意向を受けて「じゅう」の結果を出す。正しき忖度というやつだ」

「では訊かせてもらいますけれど、なぜストルチェク本土まで兵を出すつもりなのです。わたしたちの計画には無かった話ですわ」


 シュバッテンの向こうにはストルチェクの大平原が控えている。

 いずれ味方になってもらう予定の大叔父と友人たち──シュラフタを敵に回すなんて、根本的にありえない判断だ。


 赤茶毛の少女は気まずそうに目を逸らしている。


「お前の魔法使いが嗅ぎつけたか。ブッシュクリーめ、脇が甘い。所詮は田舎騎士だな」

「それはあなたも同じでしょう、モーリッツ・フォン・ハーヴェスト卿」

「……ストルチェク国王のレシェクが死んだとの報告が入った。あの国は混乱を極めている。またとない好機ではないか」

「彼らを敵に回して何の利益があるのです」

「ストルチェク西部を占領できれば、小麦や大麦が手に入る。これは公社の危機管理だ。芋の一点張りでは病害が出た時に崩れてしまう。お前の計画も成り立たなくなるぞ」

「前回まで芋の病害は出ませんでした」

「何もかも前回をなぞるわけではあるまい。そうだろう、エマ」

「モーリッツはヨハンに褒めてもらいたいだけ」


 エマは読んでいた『情念論』の本を閉じた。

 彼女の台詞が頭に入ってこない。


「はあっ!?」


 当のモーリッツ氏はわかりやすくビックリしていた。

 エマのほうは椅子を立ち、いつものように眠たそうに公女おれたちに近づいてくる。


「ヨハンはヒューゲル兵の活躍を楽しんでる。公社の兵站支援にも拍手を送ってた。モーリッツはもっと頭を撫でてもらいたいはず」

「訳知り顔で喋ってくれる。ここ数ヶ月、お前とは触れあっていないはずだが。某の名誉を貶めたいのなら証拠を示すべきだろう」

「今?」

「せんでいい! まるで北方神話のロキのような奴だ!」


 モーリッツ氏はものすごい早足でエマから遠ざかっていく。

 エマが追いかけていくものだから、そのまま二人とも勉強部屋を出ていってしまった。何度も見てきた流れだけに笑ってしまいそうだけど、なぜかマリーの唇は強ばっていた。


 とりあえずストルチェク出兵作戦は公女おれからパウル公やカミルに中止するように進言しておこう。ついでにエヴリナお母様に言いつけておけば、猛反対してくれるはずだ。

 兵営も当主の意向には逆らうまい。

 それにしてもストルチェク出兵とは……相手は内紛で中央政府が不在とはいえ、仮にも超大国なのに。

 想定外に勝ち進んでしまったから、ヒューゲルはみんなイケイケドンドンになっているのかもしれないな。

 気を引き締めないとミッドウェーを喰らいかねない。何か対策を考えておこう。

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