3-2 帰るまでが遠足


      × × ×     


 この世界の旅行は強烈な時間泥棒だ。

 目的地の低地地方には三週間しか滞在していないのに、往復するだけで四ヶ月以上も費やしてしまう。

 また往々にして旅路とは暇なもので、馬車の中ではまともに本を読めないし、せいぜい独りで考えごとをするか、みんなで話し合うか……エマと古今東西の名曲を合唱するほかなくなる。


「やっぱり『ストロボ』は名曲。次は『ゲレンデがとけるほど恋したい』にする」

「エマ、広瀬香美を連続で歌うのはやめよう……喉がもたないって……サビでつぶれちゃう……」


 そんな体力・気力も一ヶ月も経たないうちに尽きてしまうから子供は辛い。絶え間ない揺れは少女の尻を削り、慢性的な吐き気は脳の考える力を溶かす。

 残り十五年の時間を有効活用するためには、なるべくラミーヘルム城から出ないほうが良さそうだ。


 もちろん旅をしないと出会えないものもある。

 白地区に出向いていたブッシュクリー中尉たちと合流するまで、公女おれたちは同盟北西部のハイセ・クヴェレに数日ほど泊まることになった。あれほどに美しい街は初めてだった。

 特に大聖堂は『同盟芸術の結晶』と称されるだけの値打ちがあった。赤レンガと黒瓦の山門には調和の取れた温かみがあり、礼拝堂の壁一面のステンドグラスは非日常的な魔性の輝きを放っていた。それでいて、どことなく近代的なビルを思わせるデザインなのだから面白い。


それがしが知るところによると、あのステンドグラスは八万枚のガラス片から成立していると伝わる。ゆえに地元の市民からは」

「地元では八万大聖堂アハツィヒタウゼントドムと呼ばれてる」

「某の心を読まないでもらえるか! 何度言わせたらわかるのかね! ドレスの背中に手を入れてこないでくれ!」


 モーリッツ氏の解説も相まって、とても素敵な時間を過ごせたと思う。公女の地位のおかげで他の巡礼者の波に巻き込まれずに済んだのも大きい。

 礼拝堂の中央には数世紀前まで歴代大君が戴冠式を執り行ってきたという空間が残されていた。


「パウルの子女よ。往年の大君たちはこの地で教皇猊下きょうこうげいかから冠をいただくことで、我こそ初代大君と古代文明の『継承者』であると世に示してきた。ここはまさに奥州史の象徴だといえよう」

「存じておりますわ、モーリッツさん」

「そうか」

「わたしにとっての一周目の世界では、この礼拝堂で大君の戴冠式が行われましたから。父と弟が招かれていました」

「そんなことが。敬愛すべき懐古趣味ノスタルギーだ。もしや教皇猊下も二世紀ぶりに来られたのだろうか」

「いえ。あの方は代わりにクレロの教会でヒンターラント大公ルドルフに冠を授けていました」

「ぬかせ、ヒンターラントだと?」


 モーリッツ氏が怪訝そうに訊ねてきたので、自分にとっては大昔の話をすることになった。

 不確かな部分はエマに引っ張り出してもらいながら。

 子供の会話とはいえお坊さんたちに聞き耳を立てられたくないので、礼拝堂の順路を歩きながら小声で説明していたら、いつのまにか大聖堂の外に出ていた。


 モーリッツ氏の反応は面白かった。

 いきなり公女おれの右手をつかんでくると、彼は目をつぶって何かを念じ始めた。さらに肌が赤くなるまで全身に力を入れてみせたり、手と足をぷるぷるとふるわせたり……息を止めてみたり。

 やがて「ぷはっ」と赤茶毛の少女は限界を迎えた。灰色のコートの下で、小さな肩が揺れていた。


「わはは。ダメだ。どうあがいても某には魔法使いの技が使えそうにないらしい」

「モーリッツさん、まさかエマの力を試されましたの?」

「ドーラの肉体にあの力があったなら、お前からもっと効率的に過去の逸話を入手できようが」


 彼はこちらの手を放すと、エマのほうに向かっていった。


「おい。女神カリスのごとき美貌のヒューゲルの魔法使い」

「エマでいい」

「お前の能力にコツはないのか」

「おでこをくっつけると効率が良くなる。チューでも可」

「わかった。やってみるとしよう」


 モーリッツ氏はまた公女の元に近づいてきた。

 エマならともかく、他の娘とおでこをくっつけるのは恥ずかしいし。キスなんてありえない。

 そもそもお互いに中身はおっさんだ! あんた六十三だろ!


 ニヤついているエマをにらみつけてから、俺は赤茶毛の少女を止めにかかる。


「モーリッツさん。お互いにいい年なんですからやめるべきですわ!」

「いい年なら子供のやることを許してやりたまえ」


 公女おれはどうにか大聖堂の庭では逃げきったものの、残念ながら馬車の中では逃げられなかった。

 もちろん様々な接触を試したところで同盟ゲム人には「能力」が使えるはずもなく、二人とも恥ずかしい思いをしただけで終わった。


「……ヒューゲルに戻るまで馬車では何ヶ月もかかります。わたしの口からゆっくりお話させていただけないかしら」

「某としてもそうしてもらえるとありがたい」

「あと今夜のエマの夕食はパンだけにしてもらいますわ」

「当然だ」


 かくしてハイセ・クヴェレ以降の車中では話題に困らなかったものの──やがて気力・体力が限界を迎えたのは前述のとおりだ。



      × × ×     



 八月末日。

 公女おれたちは四ヶ月ぶりにラミーヘルム城まで戻ってきていた。

 クルヴェ川と三日月湖に挟まれた石造りの城は何も変わっておらず、城内町にはのんびりとした空気が流れている。行き交う人の足取りがトロい。低地の賑わいぶりが懐かしい。


 城内の大手門にはエヴリナお母様と弟たちの姿があった。傍らには修学旅行生たちの父兄が並んでいる。


「私のマリー。あなたが戻ってくるのをずっと待っていたのよ。心細くて死んでしまいそうだったわ。マルガレータだけでは寂しくて」

「わたしも母様マトカを忘れたことはありませんでしたわ」

「まあ! 身体は別々でも気持ちがつながっていたのね!」


 お母様に抱きしめられる。おっぱいの圧がすごい。弟たちや妹もくっついてきた。

 わりと平然とウソをついてしまったのもあって、公女おれとしては申し訳ない気持ちでいっぱいだ。


 自分たちの周りでは、他の家族も抱き合ったり、お互いの背中を叩き合って再会を噛みしめていた。

 その様子を興味深そうに眺めている少女が一人。モーリッツ氏だ。

 どうやら修学旅行生たちの父兄──つまりヒューゲル政府の幹部であり、彼にとっての元部下にあたる人々が気になるらしい。


 逆に父兄たちのほうは見知らぬ赤茶毛の少女に「じーっ」と見つめられて、対応に困っている様子だった。

 その中でベルゲブーク卿が(武門の家柄だけに)一番槍で話しかける。


「おい、どこの家の娘だ。拙者が案内してやろう」

「ハーヴェスト」


 少女の答えに父兄たちは目を見合わせた。


 おいおい。まさか初日から正体を明かすつもりなのか。

 どう考えても信じてもらえるはずないし、狂人扱いされるのがオチだから止めにかかりたいけど……いかんせんお母様が放してくれない。エマはまだ馬車で寝ている。


 ベルゲブーク卿はシャーペンの芯みたいなヒゲを引き抜きながら、傍らのバカ息子に訊ねる。


「ヘルムート。この娘は何者だ?」

「そいつは公女様が低地で見つけてきた生意気な家庭教師のガキです。ドーラ・ボイトンとかいってました」

「ボイトン……ハーヴェスト……拙者が若かりし頃を思い出す名前だ。低地に縁者がいたとは」

「うちに嫁入りさせるなら調教が必要になりますよ、父上。旅行中にからかって遊んでやろうとしたら石を投げられました」

「おてんばな子だな」


 ベルゲブーク卿はわずかに微笑み、膝を曲げて、詫びるように少女の頭を撫で始めた。少女のほうは歯ぎしりしている。

 やがて限界を迎えたようで、赤茶毛の少女は公女の元に逃げてきた。

 途端にお母様の目つきが鋭くなる。


「私の愛娘。また新しい女を作ったのね。あの異民族の小娘だけでは飽き足らず……!」


 浮気でもしたような扱いだ。

 抱きしめられる力がどんどん強くなってくるのが地味に怖い。公女が圧死してしまう。


「その子はわたしの家庭教師ですわ。歴史を教えてもらいます」

「あなたと同い年くらいの子供から何を学ぶというの。タオン男爵やハインのような生き字引ならともかく! 本当はあなたの友達なんでしょう! お母さんを放って遊ぶつもりなのね!」

「ドーラちゃんは天才なんです! あのモーリッツ・フォン・ハーヴェスト前宰相の弟子なの!」

「私が知らない名前を出さないでちょうだい! もうやだっ!」


 お母様は公女を軽く突き飛ばすと、泣きながらお城に戻っていった。あれは二時間くらい二人きりで過ごさないと収まらないだろうな。頭が痛くなる。

 今回も妹のマルガレータが生まれているから、お母様の『愛』は二分割されているはずなのに……どうも配分がおかしい気がする。


 それはさておき。

 赤茶毛の少女は父兄たちの注目の的になっていた。もはや子弟との再会を祝う気持ちなど吹き飛んでしまっている。

 公女おれの口からこぼれてきた人名が、みんな気になって仕方ないらしい。

 今度はボルン卿が先陣を切った。


「公女様。今の話は本当でございますか。その子がモーリッツ宰相の弟子というのは。あの方はまだ生きてらっしゃるので……?」

「某から答えさせていただこう。ゲオルク・フォン・ボルン男爵。亡き師匠からあなたの話はうかがっている。牛のように太りすぎているから騎兵を辞めさせたと……つまりはそういうことだ」

「なるほど、あの方の弟子のようだ。不遜きわまりない」

「おわかりいただけて何よりだ。他の者たちの話も師匠から訊いているぞ。お前はブルーノだな!」


 モーリッツ氏は居並ぶ父兄たちを指差すと、次々に過去の逸話をぶつけていく。

 父兄たちのほうはなぜか怒りだすことなく、むしろ『ハーヴェスト卿』の思い出を懐かしむようにうなづき合っていた。

 中には「自分のような小者を覚えてくださっていたのか!」と喜ぶ者まで出てくる。

 さながら先生と生徒の同窓会のようで、ちょっと微笑ましかった。


「おれのオヤジになんと失礼な。あのガキ、何様のつもりだ」

「なあに。所詮は女だ。気にするまでもなかろうよ。デカイ顔をしないように旦那にしつけさせればいい」


 一方で、子供世代には不評だった。

 

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