2-6 陽気な少女が世界を回す


     × × ×     


 来客室の天井でお茶の香りとラベンダーの匂いが混ざりあう。

 モーリッツ氏は先代公の言いがかりをに受けているらしく、今でも日常的にアラダソク産の香水を使用しているようだ。低地では手に入りやすいのだとか。

 五年前、先代公の別荘での出来事が思い出される。


「……モーリッツはどこだ、どこにいる!」

「某はここにおるが。お前にはこの少女が花瓶に見えるのか」

「いえ……先代公が死なれる前にあなたの名前を呼んでいたものですから」

「そうだったか」

「あなたにお金と武器と遊女を求めていましたわ」

「いつも足りなかったからな」


 モーリッツ氏は少し天を仰いでから、目線を球戯台の世界地図に戻した。

 どうやってアウスターカップ辺境伯とヒンターラント大公を倒すか。十五年後の「破滅」を止めるために如何に手を打つか。ヒューゲル公領の富国強兵の進め方について。

 かつて兵営中佐を務めた彼にも考えてもらう。


 すでに公女おれとエマの方針は伝えてある──外国の力を借りて、両大国を力を削いでいく。

 さらに公女の末弟マクシミリアンをストルチェク国王に推して、彼らの兵力をもって南北を制圧する。

 公女が二十五歳を迎える年(一六七五年)に両大国が降伏していれば、前回・前々回の再現は不可能となり、このゲームは「上がり」になる。はず。


「いかがです」

「大まかに理解した。それがしに言わせれば、お前たちはサイコロを振ったことがないらしいな」

「わたしも全て上手くいくとは思ってませんわ」

「それならいいが、お前のような王侯は世界を思い通りに回せるものと信じ込んでいる節があるだろう。だから安易に博打を打つ。より妥当な手を探ればよいものを。例えば……」


 モーリッツ氏は地図上にチェスの駒を間配り始める。

 どうでもいいけど、エマが「銀英伝みたいな台詞」と笑っているのが気になった。まだ合流してから十日ほどしか経ってないのに、もう井納の脳内から娯楽作品を引っ張り出し始めているらしい。

 また映画館でポップコーンを食べないで、と怒られてしまうのかな。そんなことよりエマには近代技術を転写してほしい。せっかく死ぬ前に日本で色々と資料を見てきたわけだし。


「なに。エマに言いたいことでもあるの」

「いや別に……エマは可愛いなあって」

「そう」


 彼女は眠たげな目をピクリともさせず、平然と受け流した。

 学生時代に勇気を振り絞って好きな子に似たような褒め言葉を告げたら、ものすごく気まずい顔をされたことがある。あの時と比べたらマシな反応だ……もう何十年も前の話なのに、ふと思い出したのは、身体の脳細胞が老化していないからだな。少し辛い。

 もう何年もしないうちに思春期だって来るわけで、情緒不安定な時期を過ぎると次第に胸が大きくなって動きづらくなる。三周目に至ってもマリーの肉体には苦しめられそうだ。やっぱりカミルになりたかった。


 なぜかモーリッツ氏と目が合う。

 いずれ彼も公女おれと同じ苦しみを味わうはずだから、その時は相談に乗ってあげたい。


「……パウルの子女よ。お前たちの会話はさっぱりわからん。某の前では同盟語を話したらどうだ」

「大した話ではありませんわ。エマの可憐さを称えておりましたの。とても可愛らしいでしょう」

「そうか」

「ええ」

「某はどうだろう?」


 赤茶毛の少女は自信ありげに胸を張る。

 思いもよらない問いかけに公女おれの脳は凍りつきそうになった。おじさんは何を仰っているの……?


「父のボイトンは並の容姿だったが、ドーラはお母さんの血を多分に受け継いでいるようだ。贔屓目抜きに将来性は抜群だとみるが」


 彼はナルシストみたいなことを言い出す。表情が強気だ。

 ドーラについては初めて出会った時から稀代の美少女と評価させてもらっているけど、まさかモーリッツ氏から自薦されるとは。

 公女おれが反応に困っていたら、エマのほうがモーリッツ氏に近づいた。


「エマよりドーラのほうが百倍くらい可愛い」

「いやいや、ありがたいがそれほどの差はないだろう。互いに方向性が異なるからな。例えるならお前は桃色のアネモネ。某はさしあたりサルビアの──」 


 そこまで述べてから、少女は少し気まずそうに地図に目を戻した。


「すまない。忘れてくれ」

「サルビアちゃん」

「無かったことにしような、ヒューゲルの魔法使い。だから、某の心を読もうとしないでくれ」


 モーリッツ氏は利き手で赤面を隠しながら、エマから遠ざかろうとする。

 そうなるとエマは性格的に追いかけたくなるようで、二人は球戯台の回りをグルグルと廻り始めた。本当に子供みたいだ。そのうちパンケーキの材料になっちゃうぞ。


 公女おれは再び地図を眺める。

 各国の兵力に合わせて、図上にチェスの駒が配置されていた。

 例えば、ヒューゲルやシュバッテンなど中小領邦には「歩兵」が一つだけ。

 ヨハンのキーファー公領は「歩兵」二つに「騎士」が一つといった具合だ。前世のボードゲームっぽい。


 こうして状況が可視化されると、自分たちがやろうとしていることの無謀ぶりが改めて浮き彫りになってくる。

 ヒンターラントはまだしもアウスターカップなんて駒が林立していた。五十体以上ある。

 あれをみんな叩きのめすには、やはり。


「パウルの子女よ」


 エマから逃れるために球戯台の下に潜り込んでいた少女が話しかけてくる。ドレスが埃まみれになっている。

 ちなみにエマのほうは追いかけっこに飽きたのか、はたまた体力を使い果たしたのか、テーブルまで茶菓子を取りに行っていた。


 それに気づいたモーリッツ氏は球戯台の下から出てくると、スカートの埃を軽く落としてから、地図を指差した。


「この地図はまだ完成していない。大切な駒が一つ抜けている」

「どこですか?」

「当ててみるといい。こいつを図上に加えてくれ」


 彼はチェスの箱から「王」の駒を取り出した。

 将棋の王将にあたる駒だ。この駒を落とすことがゲームの目的とされる。どれだけ味方の駒を失っても相手の「王」さえ討ち取れば勝ちとなる。


 球戯台の世界地図においては、自分プレーヤーが抑えるべき地点を示すことになるだろう。いわばゴールポスト。

 どこに加えてやろうか。

 モーリッツ氏から駒を受け取り、公女おれは指先を迷わせる。


 政治の中心、ヘレノポリス。

 交易の中心、ブルームホルフ。

 儀式の街、ハイセ・クヴェレ。

 大君の都、コンセント。

 あとはルドルフ大公の居城、エーデルシュタット。古代文明の揺りかご、コンパス市など……。


 俺は悩んだ末に「王」をアウスターカップ辺境伯の居城に置いた。

 あそこを落とせるなら、他の街だって容易に落とせるはずだ。それくらいヒューゲルを強くしたい。


「いかがです、ハーヴェスト卿」

「某とは目の付け所が違うようだ」


 彼は例によって指先を唇に添える。

 やがて「王」を地図から拾い上げると、球戯台に身を乗り出し、ある地点に差し向けた。


 大西洋だった。


「パウルの子女、お前たちの言う「破滅」をもたらすのは直接的には何だ? いわゆる元凶は?」

「魔法使いですわ」

「魔法使いは新大陸から船で運ばれてくる。その船を沈めたらいい。悪夢の源泉を壊してしまおう」


 彼は球戯用の棒で大西洋を叩く。

 なるほど。たしかに有効な手段かもしれない。少なくともヒューゲル政府が奥州を制圧するより遥かに実現の可能性がありそうだ。自分とエマには考えつかなかったな。


 ただ、彼の案には大きな問題があった。


「モーリッツさん、うちの国は内陸国ですわ」

「ぬかせ。お前の靴を舐めているスネル商会にやらせたらよかろう。その辺の海軍より船を持っているはずだ。ただ奴隷ギルドの商船はオエステ海軍に守られているから、そこは厄介ではあるな」

「オエステ……」

「今も昔も大西洋航路を取り仕切っているのは連中だ。十五年戦争の時は敬虔な旧教徒で魔女狩りの伝統を持つせいか、某が知るかぎりでは戦線投入してこなかったが、高価な奴隷としての商品価値は認めていた」


 モーリッツ氏は地図上のオエステ王国を指し示す。

 彼らの海軍『眼福の艦隊アルマダ』を表すようにダーメというゲーム用の丸い駒が並べられている。当然ながら他国より遥かに多い。

 いくらシャルロッテとスネル商会でも、あの大艦隊に攻撃を仕掛けるのは無茶だ。


 彼女は現実主義者だから、たぶん公女が指示しても、何かと理由をつけて断ってくるはず。

 仮に彼女を説得できたとして、もし大失敗したら予言者たる自分の信用はガタ落ちしてしまう。シャルロッテに見捨てられたら、もはや井納に未来はない。


「……そよ風のマックス」


 いつのまにかエマが戻ってきていた。

 そうか。あの老人の能力があれば!


「なんだそれは。当たりさわりのない話しかできないタイプの友人か」

「モーリッツはまだ知らない。マリーの旦那・ヨハンの魔法使い。そよ風を起こせる。どんな方向にも」

「それは……自在に風上を変えられるということか?」

「そういうこと」

「すごいな。まるで北奥神話の風神アネモイだ。海上では一方的に戦える。ふむふむ。風上を気にせず帆船を走らせることができるなら、いっそ相手の船を沈めずに白兵戦を仕掛けて『積荷』を盗むのも手だな……!」


 赤茶毛の少女は笑みを浮かべて夢想する。

 口元に添えられた指先が、次第に小さな力こぶしに変わっていく。


 エマではないけど、何となく彼が考えていることはわかった。

 本来なら他国に渡るはずだった『積荷』たちをヒューゲルのために活用する。いわば「魔法部隊」を作り上げる。魔法使いを戦術兵器として効果的に使役する。


「パウルの子女。某は決心させてもらったよ」


 彼は球戯台の傍らからテーブルに向かって歩き始めた。

 いや。テーブルではなかった。あの大きなカバンを拾い上げている。

 彼が内部から出してきたのは……ボロボロの灰色の外套だった。どう見ても大人用だ。少女が袖を通すとワンピースのようになっている。

 なのにやけに似合って見えるのは、おそらく本来の持ち主だから。

 あの外套はヒューゲル兵営の冬服だった。


「このモーリッツ・フォン・ハーヴェスト、世界を救うために力添えしよう。少女として生きるより、もしかすると甲斐があるかもしれない」

「ありがたい申し出ですわ。ところで約束の日記はどこに消えたのですか?」

「あれは昨日燃やした」


 少女は不相応に老獪な笑みを浮かべてから、己のこめかみを指差した。そこに残っているとでも言いたげに。

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