2-4 君は
× × ×
モーリッツ・フォン・ハーヴェストはハイン宰相の前任者にあたる。
六十三年前(一五九七年)、彼はヒューゲルの下級騎士の家に生まれた。
エマによると子供の頃は
彼を気性が荒いだけの問題児から大人に成長させたのは学問だった。いわゆるフォン持ちだけが受講できるラミーヘルム城の学問所に入ると、身体に有り余っていたエネルギーが勉学に注ぎ込まれた。
学問所で
やがて元服を迎えて、モーリッツ氏は下級役人として父の役目を継ぐことになった。十八歳だった。
彼は持ち前の知恵でラミーヘルム城の財務部門で頭角を示すと、四年後には先代公に目をかけられ、カスターニエ村の徴税官に抜擢される。当地でも脱税や横領の取り締まりなど目に見えた成果を挙げたため、ラミーヘルム城の衛兵や町役人を経て、ついに先代公の側近・廷臣の列に加えられた。
平時には異例の立身出世を果たしたといっていい。当時まだ二十代前半だったというから恐れ入る。
だが、彼の出世街道にも赤信号は設けられていた。
当主の側近となったモーリッツ氏は大広間の評定での発言権を認められた。
彼は並み居る群臣や有力者に物怖じせず、あらゆる議題で率直に私見を述べたので、非常に煙たがられたようだ。
それどころか、いわば自分の「後ろ楯」にあたる先代公の政策に対しても強烈な反論を行ったため、評定に加わってから数日も経たないうちに主君の
「モーリッツ。お前の見識は認めてやるが……そんなことよりお前の口は臭すぎる! 余は耐えられそうにない! 二度と大広間に入ってくれるな、いやラミーヘルム城に来ないでくれ!」
彼は先代公の言いがかり(?)で登城禁止となり、ついにはヒューゲル公領から追放されるはめになった。
当時のモーリッツ氏の日記には『ご当主のおかげで自由になれた』とある。
これは必ずしも強がりではなかったようで、元々モーリッツ氏は役人ではなく学者になりたかったらしい。
下級官吏の嫡男として仕方なく家業に就いていたけれど、先代公の命令で辞任するなら先祖や家族にも申し訳が立つ──彼は晴れやかな気分で遊学の旅に出た。ヘレノポリスやクレロの学者に教えを乞い、時に裕福な荘園の家宰から領地経営のいろはを学んだりした。
『至急戻れ』
そんなモーリッツ氏の元に先代公から急使が送られてくる。時に一六二五年。新教派のフラッハ宮中伯がヴィラバ人から「新皇」に推戴され、同盟各地で新教派と旧教派の抗争が始まった年だ。
当時の先代公は新教派連合に協力することで「未回収のヒューゲル」を取り戻そうと企んでいた。自ら兵を率いて各地を荒らしまわり、有力諸侯に恩を売れば必ず旧領回復を認めてもらえる。そう信じていたようだ。
モーリッツ氏には当主の出征を本拠地から支える役職が与えられた。宰相および軍事総監・兵営中佐。彼の出世街道は青信号を経て行き止まりを迎えた。
一六四〇年。十五年戦争が終わった時、ラミーヘルム城には何も残っていなかった。
代々受け継がれてきた宝物や茶道具・掛け軸は売り払われ、武器や穀物に姿を変えて前線に消えていた。
大広間のステンドグラスや城内教会の祭器さえもモーリッツ氏の指示で売却されていた。
例のトーア兵に城を占領された時期を除けば、ほぼ矢面に立つことがなかったモーリッツ氏に対して、執拗な遊撃戦で勝ち続けたのに「戦勝」できなかった家臣団の目は冷たかった。
『命懸けで働いてきた。帰宅したら家が空っぽだった……誰が悪いんだ? 旦那か、嫁か?』
当時の酒場で流行った文句だという。
失脚の日を待つよりも早く、モーリッツ氏は再び遊学の旅に出た。
そして九年後の一六四九年に低地地方の
「……
一六六〇年。六月十九日。現在。
かつてモーリッツだったとされる少女は、部屋のふかふかのベッドに座り、ミルクコーヒーを冷ましている。
ふぅふぅと砂色の水面に吹きかけている姿は子供そのものだ。エプロンを付けて大人ぶっているから、余計に可愛らしい。
「あの日、お父さん……ボイトン元伍長から奴隷ギルドの
「方違え?」
「迷信だよ、パウルの子女。占い好きの従者がうるさかったのだが、今となってはあの者は正しかったのかもしれない」
ドーラの目が机上の日記に向けられる。
そんな彼女の背中に手を突っ込む者がいた。いわずもがなエマだ。
いきなりの蛮行だったから、ドーラはコーヒーをこぼしそうになっている。
「やめい、イタズラのつもりか!」
「……モーリッツはボイトン邸で『交換のユーリ』と引き会わされた。ユーリは他人の魂を入れ替えられる。さっそく試してみたらモーリッツは床に倒れて死んだ」
「なぜお前が某の代弁をする! 先ほどから伝記作家のごとく!」
「まどろっこしいから」
エマは蛮行を続ける。
年端もいかない少女たちが絡んでいる様子を紅茶のつまみにするような嗜好は持たないつもりなので、俺は日記帳に目線を戻した。文字が汚くて読みづらい。耳だけはエマに向けておく。
それにしても人間同士の心を入れ替える能力か。古典映画の『転校生』みたいな話だ。一周目の頃なら必死でユーリさんを探したかもしれないな。今もその人が生きているか、定かではないけど。
「井納は気にならないの。モーリッツが死んだ理由」
エマが日本語で話しかけてきた。
たしかに他人と入れ替わる能力で死に至るのは不可解だ。
「気になってるし、君が話してくれるのを待ってるよ」
「当ててみて」
「エマもまどろっこしいじゃないか……ええと。いったん死体と入れ替わっちゃったとか? このマリーみたく魂が抜けた肉体と」
「無能純一」
彼女は自分が居酒屋でバイトを始めた頃に店長から付けられた安直な蔑称を口にする。
さらにドーラの服から右手を引っこ抜いて、指先の匂いを少し
「死体の匂いには程遠い。
「そりゃそうだろうね」
「母親に『種』を仕込まれたのもエマたちと同じ頃」
「仕込まれたって……」
ああ、そういうことか。
やっとわかった。
「そう。モーリッツはボイトンの奥さんと入れ替わるはずが、奥さんの胎児と入れ替わっちゃったの」
エマがやっと答えを示してくれる。
なるほど。どうりで二人の生きている年代が被らないわけだ。
まだ自我が芽生える前の胎児と入れ替わってしまったモーリッツ氏の肉体は、おそらく糸の切れた人形のようになってしまったのだろう。
胎児になったほうも胎児だから母体から生まれ落ちるのを待つしかない。
「モーリッツの肉体はすぐに息をしなくなった。だから元に戻すわけにもいかなくて、今に至るみたい」
「なるほどね」
エマのおかげで因果がわかり、ようやくドーラとモーリッツ氏の存在がつながってきた。
立派な成人男性だったのに少女として生まれなおすことになるなんて、我ながらシンパシーを感じずにはいられない。
大変だったろうな。
「お前らの話している言葉はまるで東方の騎馬民族のようだ。某にはまるで理解できん。今のラミーヘルム城にはフーヘト人でもいるのか?」
少女は独りで訝しげにしていた。
ずっと日本語だったからね。
彼女が彼であったならば、こんな遠方で暮らしてもらう理由は存在しない。
「ハーヴェスト卿。大体の話はエマから訊きました」
「某の人生を他人から教わらないでくれないか。某の言葉で語らせてくれ。死人のように扱うな」
「あなたさえよければ、またヒューゲル家のために働いていただけないかしら?」
「!」
こちらの申し出に、彼女はわずかながら喜んだように見えたけど……すぐに目を伏せてしまった。
「……少し考えさせてくれ」
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