2-2 彼女の追憶


     × × ×    


 エマの脳内インストールが終わるまで一週間かかった。


「はい。エマのために魚介炒めを作ってもらったよ」

「こんな時に優しくしないで」

「ぶん殴るよ?」


 今ではセンシティブな話も出来る。知られたからには仕方ないけど、あの件にはなるべく触れないでほしい。半分は君のせいだからね。


 来客室のローテーブルに低地料理が並べられる。

 シャルロッテは商会本部宮殿の一角をヒューゲル家に献上してくれた。

 公女のために料理人や女中まで付けてくれている。至れり尽くせりだ。

 おかげでエマと部屋にこもっていても困らなかった。イングリッドおばさんと若者たちは低地地方の星形要塞の見学に勤しんでいて不在だから、ここはもはや二人だけの世界となっている。


 俺は魚介炒めをいただいた。軽食のわりには味が強い。ビールが欲しくなる。

 エマはお気に召したようで、しきりにパンと合わせていた。


「今までで一番美味しい」 

「ジョフロアさんの料理より?」

「エマは食べたことない。美味しいなら後で記憶を読ませてもらう」


 そうか。そうなるのか。

 彼女が入手できるのはあくまで井納が見てきた過去であり、彼女自身が前回や前々回の記憶を取り戻しているわけではない。

 だがら今のエマに訊ねたところで、どうしてあの時に独りでシルム伯を追いかけたのか、なぜ死んだのか、教えてもらうことは不可能だ。


 ふと、彼女に右腕を掴まれる。指先が柔らかい。


「え、なに?」

「井納がアンニュイな顔をしてたから」

「そうかな」

「エマがあのおばあさんを追いかけたのは、井納がふがいないからだよ」


 ものすごい直球が飛んでくる。

 ちょうど公女の口の中でムール貝の砂がガリッと音を立てた。抜けそうな乳歯がズレる。


 エマはこちらの手を放すと、またパンを口にする。


「どう考えても殺すべき女を井納は殺さなかった。だからエマが自分の手でやるしかなかった」

「君にわかるの?」

「エマならそうする」

「そっか」


 本人の弁なのにしっくりこない。

 また彼女の手が伸びてきたので、反射的に俺は立ち上がった。

 ちょうどデザートが運ばれてきていた。網目焼きのパイだ。低地南部のオエステ領で作られているものらしい。


「エマ、フラーイだよ。あれ美味しいよね」

「切らなくていいって伝えて」

「一人で一つまるまる食べるのは厳しくないかな」


 なんて話をしていたら。

 女中さんの後ろでメガネが光っているのが見えた。

 ブッシュクリー中尉は私服で来客室に踏み込んでくる。低地に来てから仕入れたという新しいメガネが似合っていた。それでも堅気には見えない。


「失礼。お二人の邪魔をしたくありませんでしたので、デザートまで待たせていただきました」

「わたしにご用ですか、中尉」

「公女様がティーゲルに命じられていた件を代わりに調べておきました。ハーヴェスト卿の手紙にあった店は市内にあります」

「それはどうも。お手数かけましたわ」

「予知夢は万能ではないようで」

「全てを見通せるわけではありませんから」

「なるほど。よろしければ小官がお供致します。いつでもお呼びかけください」


 中尉が来客室から下がっていく。

 やっとリンゴのフラーイを食べられる。どうしてもあの人と話していると身体が強ばってしまうな。

 ソファに座ると、狙っていたかのようにエマが利き手を掴んできた。


「え、どうしたの」

「あんまり井納は食べないで」

「まだ一口も食べてないのに酷くない?」

「エマは体力を付けたいから」


 彼女はフラーイを口にする。

 もしかして前に痩せすぎていると指摘したことを気にしているのかな。何だか可愛らしい。

 かといって、あんまり太られても困るので公女おれもフラーイをいただく。たまらなく甘い。ほっぺが落ちそう。


「……井納、エマは太らない」

「ああ、そういえば魔法を使うとお腹が減る仕組みだったね」

「そんなエマに一週間もずっとくっついてきた奴はどこの誰なの」

「…………」


 公女おれはごちそうさま、と念じながら手を合わせた。



     × × ×     



 軽食が終わったら、二人で球戯台に広げられた世界地図に向き合う。

 スネル商会とエマ。マリー・フォン・ヒューゲルが「破滅」を止めるためには欠かせない駒を入手できた。

 あとはどのように差配していくか。その場しのぎの思いつきだけで行動しないように大まかな方針を決めておきたい。


「シャルロッテにタルトゥッフェル公社の件は伝えてあるから、今回もハーフナーさんの力を借りてヒューゲルの国力を伸ばしていくとして……問題はその先の話になってくるね」

「ヒンターラント大公とアウスターカップを倒せばいいんでしょ」

「そこに行きつくしかないのかなあ」


 地図を見るかぎりでは、とても自分たちだけで両国を相手にできるとは思えない。無謀すぎる。

 ヨハンやルートヴィヒ伯など北部諸侯の力を借りたとしても、ほとんどまともに対抗できそうにない。

 そうなると他に味方が欲しくなる。


「見て」


 エマが地図のライム王国を指差した。同盟全土にも匹敵する広大な領地の中央に王都イル=ド=トリスケルがある。オシャレな街らしい。


「ここは一周目・二周目で北部連盟の味方になった」

「他民族の力を借りるとロクなことにならないってタオンさんが話していたよ」

「ライム人たちに同盟が乗っ取られたとしても、井納が「破滅」を止められたらゲームは上がり」

「そのとおりではあるけどさ」


 他民族とはいっても、ライム王国は大君同盟とは兄弟のような間柄にある。どちらも初代大君の子孫が作った国だ。

 現ライム国王・アンリ五世は大君即位の野望を抱いていた。今回も不作の年あたりで同盟西部に攻め込んでくるはず。

 あれが首都反乱で頓挫しなければ、彼らはどこまで突き進めるのだろう。

 ライム王国の国境沿いにはフラッハ宮中伯、トーア侯、ボーデン侯の領地が並んでいる。

 いずれも大君ではなくルドルフ大公に従った奴らだ。


「……ライン川沿いをライム王国に落としてもらえば、南部連合の正面戦力は激減するかもしれないね」

「井納は売国奴だね」

「そそのかしたのはエマじゃないか」

「ストルチェクの力も借りるべき」


 彼女の指先が、大平原の国に添えられる。

 アウスターカップを牽制するなら、彼らにやってもらうのが手っ取り早い。ストルチェク騎兵の強さには定評がある。しかしながら、今の彼らに協力を期待するのは可哀想だ。

 二周目で大叔父の家に連れていかれた時に学んだけど、あそこは五大老マグナートとシュラフタたちの対立で中央政府が機能不全を起こしてしまっている。

 一六五八年にヒンターラント大公を助けに行ったのも「王冠領」国王の直属部隊だけだ。その国王も不作の翌年に死んでしまう。

 やがて次の国王の座を巡って、五大老とシュラフタの抗争が始まり、そこにアウスターカップが介入してくる。一般市民を巻き込んだ大混乱は「破滅」まで終わらなかった。

 ダメだな。とても力なんて借りられそうにない。


「せめて国王のレシェク三世が「破滅」まで生きていてくれたらなあ。交渉次第で王冠領の兵を借りられるかもしれないのに」

「その人に子供はいないの」

「早くに死んだそうだよ。それにストルチェク国王は選挙で決まる仕組みだからね。たしかレシェク三世は元々スカンジナビアの皇族だったかな」

「ならマリーの弟を据えるべき」

「カミルのこと?」

「マクシミリアンでもいい。あの子たちはエヴリナの子供。ストルチェクの血を引いてる。ヒューゲルとストルチェクは近い」


 エマの指先が図上を滑っていく。

 ヒューゲル公領からシュバッテン伯領を抜けた先にストルチェクがある。

 もしストルチェク国王の座を得られたなら、このゲム=ストルチェク街道を利用することで王冠領の大兵力をラミーヘルム城まで呼び込める。

 シュバッテン伯には申し訳ないけど出て行ってもらうとして。


「これ、上手くいったらすごいことになるよ! 一気に列強入りだ!」

「井納は上手くいくと思っているの」


 彼女の反応は冷ややかだった。

 自分から提案しておいて急に懐疑的になるのはズルいと思う。


「……別に自信はないけどさ。やってみる価値はあるかなって」

「駒が足りないね」

「スネル商会に任せたらいいよ」


 彼らは現代で例えるなら総合商社だ。あの手の会社は諜報部門を持っているとインターネットで読んだことがある。

 あれだけの資本があるのだから、スパイを通じて五大老マグナートの一人や二人は味方にできるはずだ。中小シュラフタならなおさら。


「井納はわかってない。あんまり無謀なことをやらせると、シャルロッテはヒューゲルを見捨てる」

「どうしてさ。あの人は公女に返しきれない恩があるって……」

「マリーの予知夢に恩があるだけ。当たらない予言はただの世迷い言。あの女を失望させるのは危険」


 エマは公女の脇をくすぐってくる。服の下から。

 スキンシップを拒むつもりはないけど、一方的なのは好ましくないよね。


 子供らしくキャッキャとじゃれ合ってみたら……いきなり涙が出てきた。


「井納?」

「ごめん、ちょっと待っててね」


 地図の前から一人でソファのほうに向かう。

 エマとの再会を改めて実感したせいで神経が昂ってしまい、それが元で泣いてしまった……わけじゃない。


 なぜか不意に思い出してしまった。

 前回あの子が友達とじゃれあっていた時の姿を。あの子の存在を。あの子の温もりが如実に。


 こんなにも辛いデジャブは初めてだ。

 あの子のことを忘れたつもりなんて、なかったのに。

 あの子を……。


「……エマ、ずっと前から訊きたかったことがあるんだけどさ」

「なに?」

「君の本当の名前を教えてほしい」


 こちらの問いに彼女は反応を示さない。

 エマというのは「新大陸の原住民の名前は覚えづらい」として付けられた仮名だ。

 前回は別の仮名で呼ばれていたから、彼女自身が決めたものではなさそうだし、本当の名前に由来したものでもなさそう。

 俺は彼女の名前を知らなかった。


「……絶対に嫌。井納には死んでも教えない」

「どうしてさ」

「エマはエマだから。この名前はエマの名前。誰にも渡さない」


 彼女は公女のおでこにおでこをぶつけてくる。

 やっぱり、と笑う彼女に対して、井納おれはどんな顔をしているのだろう。

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