1-4 ヘレノポリス


     × × ×     


 一六五八年。四月末日。

 馬車の窓から風を浴びていたら、赤茶色の尖塔が見えてきた。

 ヘレノポリス大聖堂は如何なる時も威風堂々としており、まるで足元の来訪者を見定めているかのような独特の風格を伴っている。

 八歳になったばかりの公女は当然ながら立ち入ることを許されていない。これが十年後(不作の後)になると若者だろうが奴隷扱いの少女だろうが、はばかることなく二階の傍聴席に入れたりするのだけど……今はまだ社会の規律が保たれている。


「私は大君や諸侯にお会いしてくる。お前たちは城外の宿で夜の支度をしていなさい。差配はイングリッドに任せよう」


 パウル公と廷臣たちは御用馬車から降りると、たしかな足取りで大聖堂に入っていった。その列にタオンさんの姿はない。


 見送りを終えて、衛兵が馬車の扉を閉めてくれた。

 中心街から堡塁と堀を抜けて北通りに出る。前回と同じ行程だ。

 車内では公女の弟たちが街の様子を眺めながら、おばさんに無邪気な問いをぶつけている。


「イングリッドおばさま。あの屋敷には誰が住んでいるのですか?」

「あれは大昔の大君陛下が作られた大学です。古代公用語で『カリダ学問所』だったかしら。カミル様のおじい様の時代には卒業生がヒューゲルにもいたそうですよ」

「お祭り」

「あれは酒場です。マクシミリアン様。シュテーゲン本店というヘレノポリスでもっとも古い店になります」


 おばさんは窓から酔っぱらいたちの荒れた様子を眺めて、わずかに顔をしかめた。

 カミルたちには見せまいと、彼女はわざとらしく反対側の煉瓦の建物を指差す。


「…………」


 特に語るところのない民家だったらしく、車内にはしばらく静寂が流れた。

 何となく気まずい。僭越せんえつながら助け船を出してあげたくなる。


「おばさまは以前にもヘレノポリスに来たことがあるのですか?」

「ええ。もちろんです。ヒューゲルに来るまで同盟各地を旅していましたから。ここだけでなく色んな街に行きましたよ」

「すごーい!」「すごい」


 公女おれの代わりにカミルとマクシミリアンが反応してくれる。

 おばさんは彼らに向けて、いくつかの地名を挙げてみせた。そのたびに甲高い歓声が上がる。

 コンセント、ハイセ・クヴェレ、エーデルシュタット、ポテレ、ブルームホルフ、ハフニア……。

 名前だけは知っている街ばかりだ。


「あの人を亡くして、スカンジナビアの実家にいられなくなって……この街には三ヶ月いたかしらね」

「次はいつ旅に出るのですか。僕もご一緒したいです」 

「そうねえ。カミル様が大きくなったら行きましょうか。もちろんマリー様やマクシミリアン様も」


 おばさんは隣に座るカミルの頭を撫でる。


 不意に車輪が段差を越えた。座席が揺れてお尻が擦れる。長旅には付きものとはいえ、やっぱり辛い。早くシャルロッテに『汎用馬車』を開発させないと。

 疼痛とうつうが公女の顔に出ていたのかな。対面のおばさんと目が合った。


「もうすぐですよ」

「はい、おばさま」


 彼女の弁は正しかった。すぐにあの宿屋が見えてきた。

 ヒューゲル家が大昔から定宿にしているだけにかなり快適な部屋なんだけど、十年後には燃えてしまっているのが虚しい。

 そんなことを考えながら、馬車の外で荷物を待っていると──近くの女の子と目が合った。


 ずいぶんとめかしこんでいる子だ。ほっそりとした顔立ちが兄のヨハンに少し似ている。人形みたいに可愛い。

 子供用に仕立てなおされた緑色のワンピースからは、レースやボタンに並々ならぬこだわりが感じられた。たしか元々はキーファー家の奥様が使っていたものだったはず。緑色はキーファー兵営の制服にも通じるな。


 さて、エミリアだ。

 他のことに頭がいっぱいだったのもあって、俺はここで彼女と出会うことをすっかり忘れていた。

 二周目では到着のタイミングをズラすことで回避できたのに。

 どうすれば穏便に「さようなら」まで持ち込めるだろうか。


 イングリッドおばさんが背中を叩いてきたので、とりあえずこちらから挨拶させてもらう。


「こんにちは」

「へえ。そちらから声をかけておいて自己紹介もないの? どこの田舎から来られたのかしら。ぜひとも家名を伺いたいわね」

「わたしはヒューゲル家の娘、マリーです」

「ヒューゲルぅ? はあぁ? どこの田舎娘かと思ったら、領地の小さい辺境伯の……じゃなかった? どうでもいいわ。相変わらず領民は湖で溺れてるのかしら?」


 まだ公女の名前しか出していないのにめちゃくちゃ言ってくるなあ。二周目でルートヴィヒ伯の弟さんが殴りかかってしまったのも理解できる。

 後ろを振り返れば、カミルが俯いたまま両手を握りしめているのに対して、末弟マクシミリアンは道端の馬糞を拾っていた。やばい。早めにケリをつけないと外交問題になる。


「あたしは由緒正しき譜代の家柄、初代大君ルドルフ・デア・グローセの側近にして、異母弟シュテルンビルトの嫡流、今の大君陛下の姪、エミリア・フォン・キーファー。あなたとは格が格段に違うわ!」

「エミリアちゃん……すごく可愛い!」


 弟が凶行に走らないように、公女おれはエミリアに抱きついた。

 さすがは名門の娘だけあって高価な香水を使っているらしい。とても良い匂いがする。

 相手は当然ながらビックリしていた。


「何するのよ! 田舎者がうつるじゃない! あんた新教徒でしょ、私までバカになりたくないんだけど!」

「ヘレノポリスに来てよかったわ、都会にはこんなに可愛い子がいるのね! ねえ、エミリアちゃんは何歳なの?」

「恐れ多くも七つになったわ! あんなこそいくつなのよ! 年下ならご無礼だから離しなさいよ!」

「なら、わたしの妹になるのね! よろしくね!」

「全然話が通じないんだけど!? そこのおばさん、こいつのお守りでしょ! 取り急ぎ大至急で助けなさいよ!」


 エミリアはイングリッドおばさんに助けを求めた。

 おかしいな。この子は自分より目立つとにらんだ子を「攻撃」しているわけだから、てっきり外見に自信がないタイプの子だと思っていたのに。

 こうやって褒めちぎれば、仲良くなれるはず……とはいかないらしい。


 当のおばさんはなぜか公女おれのほうを唖然とした様子で眺めていた。今までこんなマリーの姿を見せたことがなかったからか。

 エミリアにまた「ちょっと!」と声をかけられて、やっとおばさんは反応を見せる。


「あ、ああ……失礼しました。エミリア様が妹になるのは本当ですよ。あなたのお兄様、ヨハン様は我が家と婚約を結んでいますから」

「嘘でしょう!?」

「そうだったわよね」


 おばさんに問いかけられて、キーファー家の衛兵たちは「そのとおりです」と口をそろえた。

 エミリアはものすごく辛そうな顔をしている。愛らしい唇が不味いものを食べた時の大叔父みたいになっている。この例えはお母様以外に伝わらないから、今後は使わないようにしよう。

 彼女の抵抗ぶりが強くなってきたので、抱きしめるのをやめてみると、相手は早足で逃げていった。全力疾走しないあたりに家庭教育の成果が感じられる。性格面の教育には失敗しているけど。


 路地から風が吹いてきた。俺は自分のほっぺが赤くなっているのを自覚する。ちょっとテンションが上がっちゃったな。


「……おのれ! 俺様を田舎娘と見間違えるなど! 失礼にも程があろう!」

「なによ! どこをどう見ても女の子じゃないの!」

「ふざけるでないわ! インネル=グルントヘルシャフト伯爵家の家名にかけて成敗してやる! 貴様に決闘を申し込む!」

「仮に男なら女子に手を出すのはどうなのよ!」


 向こうの道から子供同士のケンカが聴こえてくる。

 野次馬になろうとしたら、イングリッドおばさんに手を掴まれてしまった。おばさんは首を左右に振っている。


「すぐに舞踏会のドレスの用意を始めますよ」


 そう言われると逆らえない。あれってめちゃくちゃ時間がかかるから。

 くそう。ルートヴィヒ伯の弟さんを見てみたかったのに。



     × × ×     



 夕方。ヘレノポリス近郊の宮殿には神聖大君同盟の諸侯や家族が集まっていた。

 大君議会の開催を記念した舞踏会。長旅を終えたばかりの貴族たちにとっては「お疲れ回」のような扱いだ。

 つまりテーブルに並べられた料理に舌鼓を打っている老婦人も、広間の中央でダンスに興じている婚活男女も、みんなお尻は傷だらけになっている。


 公女おれは焼き魚を一切れだけ食べてから、ヨハンに会いに行くことにした。針金入りのスカートのせいで歩きづらい。


「お姉様」


 なぜか末弟マクシミリアンがついてくる。別にいいけどさ。

 カミルのほうはパウル公に連れられて、あちこちで挨拶を交わしていた。お父様もどうせなら末弟のほうも紹介してあげればいいのに、こうして差を付けることで跡継ぎの座を明確にしていく方針なのかもしれない。兄弟での家督争いなんて、洋の東西を問わずに行われてきたものだし。

 イングリッドおばさんは昔の知り合いと旧交を温めている様子だ。

 二周目ではタオンさんが人々の中心で大笑いしていたから、ちょっと寂しい。


 歩いているうちにトーア侯のテーブルを見つけた。あそこの娘さん・コンスタンツェとは前回仲良くさせてもらったので、今回もそうしたいところだけど……マティアス侯にまた怒られるのは避けたい。あとで女中さんに手紙を渡して、明日の茶会に招待させてもらおうかな。


「あの子可愛い」

「マクシミリアン、やめておきなさい。あそこのおじさんはヒューゲル家の人に会うとワイングラスを床に落としちゃうの」

「足が汚れる?」

「使用人の方々に迷惑がかかるでしょ」


 コンスタンツェに惹かれそうになったマクシミリアンの手を引いて、人並みを掻き分けていく。

 ふと、小太りの少年とすれ違った。

 ヨハンの弟・フランツだ。相変わらず自信なさげに背中を丸めている。

 彼の傍らにはキーファー公ヨハン二世の巨体があった。どうやら次男坊を誰かに紹介しているみたいだ。

 相手は……礼服に縫いつけられた杏の紋章から察するにマウルベーレ伯オットーか。どこにでもいそうな風体のおじさんだ。


「オットー。我が子フランツをよろしく頼むぞ。腑抜けた奴だが、お前のやりたいように厳しく鍛えてやってくれ」

「わかりました。よろしければフランツと少し話をさせていただいでも?」

「もちろん快諾させてもらう。初めての親子の語らいをジャマするものか」


 マウルベーレ伯はフランツを連れて、控え室に消えていった。

 マクシミリアンが追いかけていったので、仕方なく公女おれもついていく。もちろん何かしらの用があるように見せかけながら。


 控え室にはワインが並んでいた。ここでも飲めるみたいだ。老人たちがへべれけになっている。

 オットー・フォン・マウルベーレ伯はフランツの背中を叩いていた。


「これから君の人生を預かることになる。いずれ君に我が家を任せるつもりだ。だからフランツ、君には厳しくさせてもらうよ」

「……はい、父上」

「まずは背中を正しなさい。君は私にとって自慢の息子だ。そのように卑屈になることはない」

「はい。気をつけます」

「フランツ・フォン・マウルベーレ」


 オットーは近くのワインを手に取ると、二つのグラスに注ぎ始めた。赤ワインだ。


「……このオットーも昔は君のように卑屈に生きていた。先の十五年戦争で兄たちが死ななければ、今でも人生に絶望していたかもしれない。だからこそ君には伝えておきたいことがある。どれだけ引け目があったとして、自分で自分をおとしめるのはやめておきなさい」

「はい」

「百歩ゆずって自分を貶めたとして、それを名分として他者を貶めることを自分に許すな。自分を切り捨てるのはいいが、君に助けを求める人を決して切り捨てるな。自分を誇らなくてもいい。みんなから誇りとされる男になれ」

「?」

「ははは。いずれ、わからせてやるさ。乾杯だ」


 二人はワイングラスを交わす。

 ひょっとするとこの世界に来てから、初めてまともっぽい親を見たかもしれない。パウル公はマシなほうではあるものの、カミルだけを溺愛している節があるし、エヴリナお母様については言及するまでもない。

 ヨハンなんて父親に殴られまくっていた。


「……フランツはあそこか」

「わっ」


 ビックリした。

 いつのまにかヨハンが隣に立っていた。やはり子供の頃から背が高い。

 公女おれが変な声を出してしまったせいか、彼に目をつけられる。


「お前は……ほう。どこの家の女だ?」

「ヒューゲル家のマリーです。こっちは弟のマクシミリアンになります」

「するとお前がマリーか」


 年長の少年は床に跪くと、こちらの手を取って指先にキスをしてきた。定型的な礼。

 マクシミリアンがそっと手を差し出したのに対して、ヨハンはそれをにらみつけてから手の甲で弾いてみせた。なぜか末弟はビックリしている。わかった上でやったわけではないらしい。

 ヨハンは立ち上がると、オットー伯に断ったうえでフランツを呼び寄せた。

 形式的な自己紹介が交わされる。

 ちなみにエミリアは前回同様に別邸で休んでいるらしい。


「……マリー。少し二人で話さないか」

「ぜひ」


 ヨハンに手を引かれる形でベランダに向かう。

 残されたフランツとマクシミリアンは楽しそうに会話を弾ませている。今回はあまり年が変わらないからかな。いつも単語しか話さないマクシミリアンが、やたらと口を動かしまくっているのが気になる。何を話しているんだろう。

 その二人にオットー伯とイングリッドおばさんまで加わっていて、ベランダに来たのにもうあっちが気になって仕方なかった。


「おい! せっかく誘ってやったんだから、オレを楽しませてくれ。オレに気に入ってもらえるように努力しろ!」

「どうせもうわたしのことが好きなんでしょう?」

「は?」

「……失礼。お話させていただきますわ」

「おう……」


 俺は改めて歴史をなぞらせてもらう。

 今回は前回みたいな失態には至らないつもりだ。ヨハンとは付かず離れず、一周目のように結婚せずに彼の軍事力だけを利用してやる。絶対に。

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