インターリュード

 

     × × ×     



     × × ×     



     × × ×     



 時計の音がする。

 男性の声が空間を包んでいる。自分に向けられた声ではない。特定の人物を痛烈に批判するための辛辣な語り口。

 布団の周りに散らばったアルミ缶から酒の匂いが漂ってきた。

 その中にツンとする腐臭が混じっているのは、おそらくコンビニ弁当の残飯が腐りつつあるからだ。


 もう昼なのに、布団から起き上がる気持ちになれない。

 本来なら以前から想定していたとおり、井納純一は図書館に出向くべきだ。自宅でインターネットを使ってもいい。


 あの世界に近代文明の叡智を持ち込めるのは、今日がラストチャンスになる。

 こうして布団にくるまっている間にも、自分に与えられた時間は刻々と失われていく。

 そうわかっているのに、ちっとも起き上がれない。


 色々ありすぎた。


 枕元がぶるぶるしている。右手で探ってみたら赤色のスマホが出てきた。こんなに薄かったかな。

 画面には日本語で「佐藤」とあった。

 受話器のボタンを押す。


『おっすおっす。今は大丈夫か? 返事がねえな。夕方には例のアレを持っていくから、それまでには家に戻ってろよ! じゃあな!』


 あっという間だった。

 井納をあの世界に送りつけるためにサバを持ってきてくれるらしい。夕方まで時間は残っている。


 逃げようか。

 いっそ空港で飛行機に乗り込んでしまえばいい。物理的にこのアパートに戻ってこれない状況を作れば、三周目に入らずに済むかもしれない。

 そしたら、これから先の残り二十五年を井納おれは──どう生きたらいいんだ!

 死ぬまでずっとあの甘い匂いを、あの子の温もりを忘れられないまま息を吸って吐き続けるなんて、まさにうってつけの地獄だな!


 ……ずっと自分はあの子のことを遠ざけていた。なるべく関わらないようにしていた。いずれ「破滅」であの子を失うことを恐れてしまわないように。ほとんど乳母や女中たちに任せて、滅多に話しかけることもしなかった。

 まるで一周目のエヴリナお母様だ。

 ネグレクトの相続なんて笑い話にもならない。


 なのに、あの子はつたない足取りで母親おれに近づいてきた。

 公女の肉体は「破滅」したはずなのに、彼女を抱いた時の感覚が未だに残っている。指先に胸元に。別に守れなかったことを悔いているわけじゃない。あの終わりはずっと待ち望んでいたものだった。早く終わってほしかった。終わるべきだった。

 だからといって、自分の子供を突き放してどうするのさ!

 むしろ……きちんと向き合って、きちんと喪失するべきだった。愛する娘を失った悲しみにくれていたほうが今より何倍も苦しかったはずだ。

 俺はエマを殺してしまった時から「罰」を求めていた。

 自分が心底苦しむことが彼女に対するつぐないになると信じていたじゃないか。

 母親になるべきだった。


「…………」


 布団から出られない。

 何もしないまま三周目に突入したほうが、俺にとって不利になるから?

 そんなことをしてもエマに許してもらうための材料にはならない。今さらだけど井納が苦しんだところで本当にエマの慰めになるとは思わない。むしろ「バカなの?」と言われるのが目に見えている。

 これまで自分自身を痛めつけてきたのは、突き詰めれば公女おれ井納おれを許せなかったからだ。

 心理的に受け入れられない出来事の連続を自分の中で消化するために率先して苦しもうとした。

 エマのためと称しながら行いが自分の中で完結している。

 形式的にはオナニーと同じだ。


 こうして気持ちや感情を切り分けすぎると何が何なのかさっぱりわからなくなってくる。

 気分にメスを入れて、原因や理由を取り分けていくうちにもはや実態が見えなくなってしまった。解剖と似ている。気がする。

 時計の針は二時を指していた。


 俺は何をするべきなんだ。

 逃げる。そもそも佐藤のサバを避けても飛行機が落ちるだけの話だろう。巻き添えになる人間の数を考えると選択肢には入れたくない。

 三周目に備える。今度こそ「隣の世界」を救う。エマに会う。あとは……。


 布団から立ち上がると足元がふらついた。

 いつもより身体が軽かった。おっぱい、ないからね。

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