9-1 愛憎
× × ×
罰を受けたかった。
理不尽に打ちのめされたかった。
自分自身が許せないから、誰かになぶってもらいたかった。
体罰を求めていた。
「マリー」
ヨハンが首元で公女の名を呼ぶ。
彼の若さが公女を苦しめる。もっと苦しめてくれ。もっと。
この肉体の奥にある、俺の魂に刺さるまで。
× × ×
呪いの名は××となった。
イングリッドおばさんに抱き上げられた「それ」が、ベッドに横たわる
涙が出てきた。きっと周りの誰にも理解されない水滴は、拾われることなく公女の頬を伝い、まだ泣くことをやめない「呪い」の頭をわずかに濡らす。
ここに至るまで……日に日に身体が重たくなり、老婆のように歩きづらくなっても、俺は舌を噛まなかった。
死んで楽になりたくなかった。
やがて、ごくごく自然な成り行きで、××が泣き止む。
「……ありがとう、カミル」
「はい?」
「良い名前を」
名付け親を務めてくれた弟カミルに礼を言わせてもらう。
呪いの名が××でなければ、自分はいずれ肉体の奥底から沸いてくる感情に呑まれていた。役割に抗い続けるのは困難だったはずだ。確信をもって言える。とてつもない。
「よくやった」
ヨハンが珍しく手放しの賛美を送ってくる。こんな人でも涙することがあるらしい。
その隣ではエヴリナお母様が破顔していた。
パウル公、イングリッドおばさん、末妹マルガレータ、カミル夫人エリザベートも喜んでくれている。
けれども、人垣の中をいくら探しても、あの子の姿は見つからず。
彼女の名前を呼んだとて、もはや誰にも伝わらない。
× × ×
エマが死んでから約一年が過ぎていた。季節は晩夏だ。
もうすぐ二年ぶりの収穫祭が行われる。
ロート伯との争いでボロボロになったというヒューゲル公領だけど、タルトゥッフェル専売公社代表・シャルロッテの説明によると、来年の収穫頃には「包囲戦」前のジャガイモ収穫高を取り戻せるらしい。
もっとも穀物引換券の清算が待っているため、公社の倉庫にはほとんど残らないそうだ。
肉体の疲れもあって、彼女の話をぼんやりと聞いていたら、なぜか楽しげに笑われてしまった。
「いやはや! 不肖シャロには経験がありませんから失念しておりました。マリー様、やはり今はお子さんのことで頭がいっぱいであられますね!」
「そんなことはありませんが」
「このところ、いつも上の空ですよ。××ちゃんはお母さんにそっくりで可愛らしゅうございますから。シャロにも夢中になる気持ちはわかっちゃいます!」
ベッドで寝息を立てている赤ん坊にシャルロッテが近づいていく。
彼女特有の香水の匂いが気に障ったのか、××は大声で泣き始めた。
「おほっ。お元気であられる。このように泣きに入るとヨハン公に似ておりますね……なぜ自分をにらまれるのですか、マリー様。私は小心者なので立ちすくんでしまいます」
「無駄に泣かせないでください。モニカ、その子に乳をあげて」
こちらの指示を受けて、
クッヒェ家の傍流出身の彼女は子育てについては手練れと評される人物で、ヒューゲル家の子供たちはみんな彼女の世話と授乳を受けてきた。
あの人に任せておけば、あの子のことは何とかしてもらえる。
けたたましい泣き声が消えた。
シャルロッテはモニカさんをしばらく眺めてから、ベッドの
「……マリー様におかれましては、不肖シャロにもモニカ女史のように何かしら新たな役目を与えていただけませんか」
「あなたもお乳をあげたいの?」
「そう命じていただければ、どうにか致しましょう。例えば以前いただいた『妄想帳』にありました代用母乳。あれを形にするのはいかがでしょうか」
彼女が話した『妄想帳』とは井納純一の脳内から読み取った、近代日本社会の様相をエマが文章に仕立てたものだ。
前回も似たようなものを作ったけど、ほとんど活かせなかった。
今回は以前から少しずつシャルロッテに渡してあるものの……やはり近代とは技術レベルが離れすぎているせいか、公社の尽力をもってしても具体的な成果には乏しい。
根本的な原因は『一六六六年の不作』『一六七〇年の包囲戦』により二度も公社の資金力が吹っ飛んだ点にある、とは公社幹部の弁明だ。
目の前のシャルロッテにしても、今の前向きな提案には「そのためのお金をください」という末尾が付いている。
マリーの手元には多少の金がある。
いわゆる祝儀というやつが、あらゆる方向から送られてきていた。
ルートヴィヒ伯は言うに及ばず、ストルチェクで知り合った方々、トーア侯の娘で文通友達のコンスタンツェからも。
死んで楽にならないと決めたからには、いずれこの金の使い道を考えなくてはならない。
もっと言えば……
今回で「破滅」を止めてしまえば、もう二度とあの子には会えないわけで。
逆説的には、あの子に生きてもらうためには二周目の「破滅」を受け入れる以外の選択肢が存在しないことになる。
かといって残り五年間を無為に過ごしていると、
実際、一周目では二十歳あたりで田舎に軟禁されてしまったせいで、今でも一六七〇年から先の世情には疎かったりするからね。
前回とは歴史が変わっているとはいえ、二回連続の「不作」で証明されたように気候など変わらないことも多い。
どんな些細な話でもヒントになる。しっかり収集していかないと。
それでいて耳を澄ませているだけではダメだ。
いずれ同じ失敗を繰り返さないためにも、今のうちに失敗を経験しておきたい。
少しでも次に生かすために。
次こそは絶対にあの子と生き残るために。
ヒューゲルの『富国強兵』政策は進めていく。そしてルドルフ大公に対抗する。
一方で今の公女には支障がある。今後のことを考えると、たぶん今までのように自由には動き回れなくなる。
自分の代わりを務めてくれる、自由きままな人間がいると助かるところだ。
井納より有能であれば尚よし。
「……シャルロッテ女史はあの雷を見ていましたわね」
「はい! あの時は公社のスタッフたちと前線に弾薬を送り届けておりましたから、しっかり目に焼きついておりますれば! あちこちで焼け死んだ兵士たちを見ました!」
「その節はご苦労様でした」
「なんと! マリー様に褒められてしまいました! 恐悦です!」
彼女は多少なりとも
あの時はエマの件で必死だったから知らなかったけど、公社のメンバーもラミーヘルム城を守るために非常に努力してくれたらしい。
公社幹部のハーフナー卿などは私兵を率いてコモーレン伯と対峙していたそうだ。雷が落ちるたびに民家に逃げ込んでいたらしいけど。
「キーファーのフルスベルク中将のお話によれば、あの雷を落とすために一発あたり千五百個のパンが必要になるそうです」
「千五百……たったそれだけであれほどの……シャロはビックリです!」
「あのような特異な能力を持つ者、強力な魔法使いをルドルフ大公はたくさん抱えています。天変地異を巻き起こす者たちが手を組めば何が起きるか。わたしはかねてから不安を抱いておりました」
「不肖シャロも怖くなってきました!」
「ふふふ」
たしかな未来として話さず、あくまでありえるかもしれない世界の終わりの一つとして。
そして今まで自分が指向してきた『富国強兵』は全て打倒ルドルフのためにあったと明かしてから……改めて彼女が求めてやまない指示を下してやる。
「あなたには彼らを倒してほしいのです、シャルロッテ女史」
「え?」
「ヒンターラント大公を倒しなさい」
シャルロッテは目を丸くしていた。
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