8-4 マリーとエマ
× × ×
石造りの城が揺れている。
天井の煤けた梁は時折軋み、砲丸がどこかに当たるたびに足元がズレる。
危うく転びそうになった公女を老衛兵が支えてくれた。ありがとうございます。感謝を伝えたら、老人は自慢気に髭を触った。
エマは私室に居なかった。
公女の勉強部屋には老女中が控えるのみ。
あの子の姿は見当たらない。
かなり目立つ容貌の異邦人なのに、二階の廊下を歩き回っても出会えなかった。
こんな時にどこに行っているのやら……。
「ベーア伍長、本館の二階で回っていない部屋はありますか」
「シルム伯のおられる部屋はまだですな」
七発目の雷が落ちたわけでもないのに、
まさか。そんなことはないと思いたいけど。
あの子なら……やりかねないのか?
シルム伯の部屋の前には誰も立っていなかった。
歩哨の衛兵はどこに消えたんだ。
体格自慢のベーア伍長がドアを突き破る。おばあさん特有の匂いがした。部屋の片隅に置かれたベッドには膨らみがあった。
恐る恐る近づき、声をかけてみる──返事がない。
「……なんてこった」
我が家の衛兵が眠っていた。いや、顔面に殴られた痕がある。唇から血をこぼしている。気絶するまで殴打されたみたいだ。いったい誰に。
「お前ら、ナターリエのババアを探せ! カーキフルフトは医者を呼んでこい!」
公女が指示を出す前に、ベーア伍長が叫んでいた。
どうしよう。医者が来るまで待つべきか。ベッドで気絶している衛兵から話を訊いたほうが探しやすいけど、すぐに起きてくれるとは限らない。
何となく期待を込めて衛兵の衣服に触れていると、彼の腰帯からサーベルが消えていることに気づいた。
我が家の衛兵は上流階級の子弟ばかりなので、騎士身分の象徴として帯刀している者がほとんどだ。
「ベーア伍長、あなたは剣術に自信がありますか」
「は、それなりには」
「行くところがあります。わたしについてきてくださいまし」
「……大丈夫ですか、公女様」
「大丈夫ですから」
二人でラミーヘルム城の居館地区を回る。
歩くたびになぜか気管支のあたりが辛くなってくる。何かがこみ上げてきているかのよう。それが何なのか、自分でもわからない。
そんなことより。
考えよう。もし俺があの部屋から逃げるとしたら、どのルートを使うだろうか。
北門では銃弾が飛び交っている。
南門には守備隊がいる。どちらも脱出には不向きだ。
三日月湖を渡るための小船は将兵の逃亡を防ぐために地下に隠してある。何より城から丸見えだから追跡されやすい。
あとは例の水道橋だな。
居館地区から河岸の城壁に向かうなら、半地下回廊を抜けて西通用門に出たほうが早い。大広間や大手門のような人の多いところを通らずに済むし、あの通用門から大通りを渡れば、すぐに水道施設がある。
おばあさんの足で水道橋まで登れるとは思えないけど……いや。その必要はない。エマは前に言っていた。
シルム伯はいざという時に、状況によっては私兵隊に水道橋を渡らせるつもりだと。
家臣と合流できれば、身の安全は確保しやすくなる。老婆でも男たちに自分を背負わせたら、水道橋の高さまで上がることだって可能かもしれない。
何なら脱出せず、三百名の私兵隊に城内を制圧させてもいい。
ヒューゲルにとっては寝耳に水、内外の兵士たちは総崩れとなるだろう……エマはそこまで読んでいたのだろうか。
「伍長、西通用門に向かいます」
「公女様は南から脱出される御予定と伺っておりますが、あまり遠くに行かれると」
「相棒を探しに行くのです」
半地下回廊。
一周目の初め頃に走り回って以来、ほとんど足を踏み入れた覚えがなかった。
害虫や鼠の温床と化しているほど汚いし、暗いし、石造りのトンネルの分岐を間違えると中世期の地下牢に迷い込んでしまう。
あの時は朽ちかけた人骨を見つけてしまい、日本時代のお骨拾い以来の体験になってしまった。
こんなジメジメした汚いところで死ぬなんて、生前に余程の罪を犯したのだろう──まだ公女の役を務めて六年目だった自分は、呑気に囚人の過去に思いを馳せていた。それは歴史だった。
「…………」
まだ新しい血の匂い。
天窓の光を浴びた女性の姿は、あの服は、なんでだよ、なんで君が。
水たまりと血が混じっているせいで、近づいたら自分の服に血が跳ね返ってきた。どうして一人で追いかけたんだ。
「エマ、なんで」
答えは返ってきてくれない。あのお腹に刺さったサーベルを抜いても、彼女の目を指でこじ開けても、どうしても。
手はもう固くなっていた。両手で包んでも温まらない。おでこをくっつけても、あの愛らしい瞳は井納純一を見てくれない。
彼女は死んでいた。
どうして。なんで一人で。
× × ×
下手人はシルム伯の女中だった。
主君と共に逃げていたところを誰かが追いかけてきたので、暗い中で咄嗟にサーベルを突いたら刺さったらしい。
本人曰く「殺すつもりはなかった」「あの衛兵には鈍器で殴るだけで済ませたでしょう」「むしろ向こうから仕掛けてきた」「正当防衛」と。
シルム伯本人は疲れていたから見ていないと話していたそうだ。
二人とも水道施設に隠れていたところをベーア伍長に見つかり、彼の聞き取りを受けてから兵営に引き渡されたという。
その先のことはよく知らない。
エマの身体は城内教会に運ばれたらしい。明日以降にヒューゲル公の名前で葬礼を執り行うとカミルが話していた気がする。
いつのまにか夜になっていた。
いつのまにか勉強部屋に戻っていた
もはや雷の音は聴こえてこない。
部屋の窓から伝わってくるのは……兵士たちの歌。あまりにも耳障りなのに、毛布にくるまる以外の対策が思いつかない。
吐きそう。
血まみれのドレスは廊下に放り出してある。手についた血はおばさんに拭われた。まだ匂いは残っている。
これは返り血だ。
本当の意味であの子を殺したのは、
あの子の考えを受け入れて、城内の不穏分子を殺しておくべきだった。井納が自分の感覚に固執したせいで、あの子は公女の代わりに「知る者」の役目を果たそうとしてしまった。
そうなるかもと少しも思えなかったのか。自分は。
だとしたら、俺はあの子のことを全くわかっていなかったことになる。
あんなに一緒にいたのに。一方通行だった。
あっちだけがこっちをわかっていたから、あっちだけがこっちに寄り添う努力を強いられてしまった。
わかりあえていなかった。
「…………」
気持ちには起伏があるらしい。波のように寄せては返す。
ふとした時に、まるで自衛のように『仕方がなかった』と思える理由が浮かんでしまうのが、自分でも許せなかった。
もしサーベルが刺さっていなくても、後で敵の砲弾がエマに当たっていたかもしれないとか。
もしかしたら防衛隊を突破してきた敵兵に殺されていたかもしれないとか。
次に生かせばいいとか。
あと一周あるとか。また会えるとか。
そういうことじゃないんだよ。
「……おい」
なぜか勉強部屋の扉から明かりが漏れてきた。
声の主には思い当たるところがある。
追い出すだけの気力が沸かず、俺は気にしないことにした。
全部どうでもいい。
「お前の魔法使いが殺されたそうだな」
「…………」
「オレの家臣も何人か死んだ。レートダッハ、ブロクラット、オーツェアン。みんな役に立つ奴だった」
ヨハンはベッドの片隅を
不作年の大反乱を収めてから、彼は残党狩りと秩序の回復に務めていたらしい。少しでも『慈悲救済軍』との関わりがあった者は処刑し、その家族は焼け野原となったシュバルツァー・フルスブルク城の再建に投入したという。
ほとんど荒れ地となったキーファー公領は未だに不穏な状況で、隙を見せれば反乱が起きてしまう。
時には古参の家臣が一揆勢に加わることもあったらしい。
ヨハンは何度も出兵を行い、そのたびに将兵を失っていった。よもやヒューゲルを助けに行けるような状況ではなかったとは本人の弁だ。
やっと体制が固まってきた今年の六月末に、ヒューゲル家臣ベルゲブーク卿の尽力もあって、ようやく救援部隊を出発できたという。
ヨハン率いる三千人にマウルベーレ伯の部隊も加わり──総兵力は四千人余り。
そして今日の朝。彼らはヒューゲル公領の北にある自由都市まで辿りついた。
「あと半日もあればラミーヘルム城まで到達できる街だ。我が兵の存在にコモーレンの坊ちゃんはビックリしたらしいな。血まみれ伯爵の許可を取らずに攻城戦を始めたそうじゃないか。ルドルフにもらった『迅雷のクリスティン』まで投入したのに、我が兵に蹴散らされて世間の笑いものだ」
コモーレン伯の末子ヨーゼフはまだ子供だった。
ヨハンが北から近づいてきたことを知るやいなや、お家再興と敵討ちの挫折を恐れて、総指揮官のロート伯に相談することなく北門を攻め立てたそうだ。
例の落雷の威力もあって、どうにか北門は突破したものの、市街戦ではタオン隊・ボルン隊の抵抗で前進できなかった。
逆にヒューゲル兵とキーファー兵に挟み撃ちされかねない苦境に陥ってしまった。
南門前のロート伯が慌てて主力部隊を北旋回させたのも、北街道から迫り来るヨハンに対応するためだったらしい。
「相手は名将だ。逃げ道を確保するために戦列歩兵をかなり東西に伸ばしていた。逆にいえば突破しやすい。お前の家臣は命知らずだったぞ」
救援部隊の先鋒を務めていたのはベルゲブーク卿だった。
彼は梯団旗を掲げ、配下の騎兵隊だけでロート伯の戦列に突っ込み、一部を瓦解させた。
さらに馬を捨ててから北門に突入。二百人でコモーレン兵の背中に斬りかかった。
ここに至って、ついにロート伯は全面撤退を決意したらしい。
一部の部隊を北門にぶつけて、味方部隊の城外脱出を手助けしながら、巧みな指揮ぶりでヨハンの本隊と渡り合った。
そして夕方になるまでには南街道に消えていったという。
ラミーヘルム城は救われた。
だから自分たちは勉強部屋にいる。
あの子が何もしなくても。死ぬほどの危険を
外からラッパの音が伝わってくる。
なんで。
ぐちゃぐちゃだ。
「……オレの家臣、アダム・ブロクラット大尉は兵どもから好かれていた。あいつがいないせいで士気が上がりそうにない。困ったものだが、何とかならんか」
「…………」
「オーツェアンは代々外務大臣を務めていてな。親父の城が落ちた時に家宝と書類を持って逃げ延びてくれた。礼を言いたかったが、会う前に出兵先で死んでしまうとは」
ヨハンはずっと話し続けている。
何のつもりなんだよ。どっかに行ってほしい。
「そのような話はけっこうです。わたしは聞きたくありません」
「なら、オレは何をしてやればいい? 女の気持ちはまるでわからん。こうしてやるべきなのか?」
彼の両手がこちらに伸びてきた。
背中を向けたら、そのまま抱きしめられる。ゴツゴツした手が首元まで回ってくる。
こんな時に……と怒りかけて、すぐに気づいた。
あのヨハンがこちらを元気づけようとしている?
あのヨハンが
毛布越しに伝わってくる肉体の重みと、目の前の腕から染みてくる体温が、公女の身体を包み込んでくる。
気管支のあたりから何かがこみ上げてくるのを感じる。まずい。
これは良くない。
「マリー。あまり気落ちしてくれるな」
ヨハンの声が公女の鼓膜に伝わる。
身体を抱きしめられる力が強くなる。
やめてくれ。もう。その腕に助けられたくない。本当に。
こんな時に、優しくしないで。
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