8-3 落雷
× × ×
シルム伯ナターリエは生粋の日和見主義者だった。
彼女はヒューゲル兵営に斥候部隊を貸していながら、あろうことかロート伯の旗下にも百名の私兵を参加させていた。
いざという時──ラミーヘルム落城の折には、密かに外部の私兵と合流して自分だけ逃げる算段まで立てていたという。
その際、交渉の材料として公女の妹マルガレータを連れ去るつもりだったようだ。
これらの疑惑を本人が明かすことは当然ありえない。我々が城外に出られない以上、現地で確かめることも不可能。毎度のことながら、情報源はエマの能力だけとなる。
困ったことに(みんな信用しているけど)証拠能力には欠けてしまう。
エマが出任せを言っている可能性は、実は誰にも否定できないからね。
一応お父様には早々に伝えておいたけど、今のところシルム伯は処刑台に送られていない。
念のため、マルガレータの世話役はイングリッドおばさんが引き継ぐことになった。
さしもの自由奔放ちゃんも、ヒューゲルが誇る『教育の鬼』には敵わないようで、あっというまにピアノの前が指定席となった。
「また間違えましたね、何度言わせるのです!」
「やだぁ! 外で遊びたいの!」
「外は敵兵でいっぱいです! さあ、初めから!」
「もうやだぁ」
「先生が納得するまで弾き続けてもらいます!」
ミスタッチをするたびに加えられる「喝」が懐かしい。
エヴリナお母様も愛娘の苦闘ぶりを心配そうに見守ってくれているので、ひとまずマルガレータの安全は保てそうだ。
当のシルム伯については、マルガレータとの別れを惜しんでいたものの、それから特段の動きは見せていない。
足腰の具合が良くないと称して客室で眠っていることが多かった。
「殺すべき」
「気持ちはわかるけど、血の気が多すぎるって」
「井納は獅子身中の虫を放っておくつもりなの。遠回りする自殺志願者なの?」
「証拠もなしに殺すのは不味いからさ」
「…………手を汚したくないならティーゲルにやらせたらいい。そのキレイな指先を鮮血で染めたくないんでしょ」
エマは二人きりの勉強部屋で、しきりにシルム伯の殺害を求めてきた。
殺したほうが安全だという主張はもちろん理解できる。彼女が日本語を引用して「獅子身中の虫」と例えたように、明らかに信用できない人間を身内にしておくのは危ない。
しかしながら――自分が井納純一であるからには、あんなヨボヨボのおばあさんを殺すなんてできっこない。
女中の助けがなければ、まともに歩けないような人だ。
「エマ。今のシルム伯に何ができるのさ。みんなから白い目で見られている、ただのおばあさんなんだよ。お付きの女中はたったの一人、三百人の私兵隊は城内にはいない。彼らを本格的に敵に回さないためにも、今殺すのは不味いよ」
「衛兵に見張らせているだけで安心しているの。バカなの」
「逆に言えば、いつでも殺せる」
「それはそうでも……あのババアはいつか井納に矛先を向けるよ。いつか味方だったはずのコモーレン・クラーニヒ兵をやったように」
「その前に殺せばいいさ」
「今がその時なのに。なんでわかってくれないの。エマは井納を心配してあげてるのに」
「エマこそ、わかっているならわかってよ」
お互いのおでこを無理にくっつける。
彼女はしばらく渋い顔を浮かべてから……ようやく納得のため息をついてくれた。そして二人で見つめ合い、ちょっと笑った。
公女とエマは同い年だ。中身はともかく同じように大人になった。花の二十歳になる日は近い。
なのにやっていることは十五年、いやもっと前から変わっていない。それがおかしくて、笑ってしまう。
いくつかの中断を挟んで……出自がまるで別々の二人が、お互いにわかりあってきた。
これからも、少なくともあと五年はそんな日々が続くことになる。
もちろん、そのためにはロート伯の包囲に耐えなければならない。
「……ラミーヘルム城はあと一ヶ月も持たないのに、井納は何も対策を考えてないね」
「いざとなれば、北に逃げるよ」
「それしかないの」
「前みたいに捕まって軟禁されたら何も出来なくなるし、この城の城壁はありがたいことに割れているからね」
「ふうん」
エマはそこから何か言いかけて、なぜかまた笑ってくれた。
× × ×
雷鳴は北から響いた。
閃光が──晩夏の青空を切り裂く。
一六六九年八月二十日。ここに至るまで半年余り、大砲に火を入れる以外は気楽な旅行客に過ぎなかった敵兵団が、突如として猛攻撃を仕掛けてきた。
パウル公と公女は大広間で粗末な昼食を取っていたので、始めに聴こえてきたのは雷鳴だった。しばらく経ってから、砲撃の応酬が始まる。
「……こんな晴れの日に
お父様の持っていたスプーンが揺れる。また雷が落ちた。
二発、三発。
花火大会のような景気の良さに、彼は異様なものを感じたらしい。
「マリー。エマは雷を落とせるのか」
「あの子からそのような話は聞いていませんけれど、他の者なら可能性はありますわ。天候を操る者には前例がありますし」
「ルドルフの悪ガキめ」
四発目が落ちて、ブッシュクリー大尉が大広間にやってきた。
周りには兵営の将兵を引き連れている。
白髪の大尉は割れたメガネを歪に光らせる。
「パウル公とマリー様。北門が破られました。今は一番街でボルン隊が抗戦しております」
「早すぎないか」
「間違いありません。尖塔から見ておりました。敵は前線の堡塁を……雷で焼いたのです。新手の魔法使いでしょう」
五発目。近かった。
自分の部屋でピアノを弾いていたマルガレータが、イングリッドおばさんに抱えられながら出てくる。
あまりにも怖がっていたので、
お父様はワイングラスを机に戻すと、イングリッドおばさんの名を呼ぶ。
「イングリッド。いつでも逃げられるようにしておけ。マルガレータとマリーを頼む」
「この城が落ちるのですか、お兄様」
「まだわからんが、北門の敵を押し戻すまでは安心してくれるな」
パウル公はいつもように忙しく歩き始める。ただし宛のない足取りではなく、まっすぐに北へ向かっていた。
兵営の面々が彼の小さな背中に続く中で、ブッシュクリー大尉が立ち止まっている。
どこかで尻もちをついたのか、ジュストコールのズボンが汚れていた。
「マリー様。逃げる時には南が空いております。いざとなれば南門の我が守備隊をお使いください」
「あちらにも敵兵団がいるでしょう?」
「ロート伯の主力部隊は北に旋回を始めておりました。南門の前には七百人程度の歩兵梯団が残るのみ」
「敵騎兵は?」
「みんな北に回されつつあります」
それなら突破・逃走できるかもしれない。
自慢ではないけど乗馬は得意だ。二回も訓練したからね。
エマも乗れるし、マルガレータはイングリッドおばさんの後ろに乗せてもらうとして、あとは衛兵の騎兵を貸してもらおうか。
「ティーゲル少尉、七人付けてやる。やんごとなき方々をお守りせよ」
「はい」
こちらの意図に気づいてか、ブッシュクリー大尉は衛兵を大広間に残してくれた。
大尉もまたパウル公を追いかけていく。
「ティーゲル少尉。馬の用意をお願いするわ。どの子でもいいから」
「お言葉ですが、おやめになったほうがよろしいかと存じます」
「なぜです?」
「これは私見ですが……マリー様やマルガレータ様はとても良い囮になります」
少尉の発言に俺は頭を抱える。
あのメガネ野郎。
思い出してみれば、前回だって現状維持のためにカミルやお父様を見捨てるべきと主張していたような奴だった。
あいつの忠誠心は公爵家ではなくヒューゲル政府という体制に向けられているらしい。
北門から少しでも敵兵を引きはがせるなら、公女の命なんて安いものか。
「……かといって、仮に敵兵が大広間まで流れ込んできたら、結局逃げるしかありませんわね」
どうせ逃げるなら、味方の役に立つほうがいいかな。
腑に落ちないけど。
「マリー様、その際は水道橋を渡りましょう」
「目立つわよ」
ラミーヘルム城にはクルヴェ川の対岸から古代の水道橋が接続されている。
人間が渡るための設備は持たないものの、今は敵兵に水自体を止められているから水路を歩くことができそうだ。
ちなみに水不足は三日月湖で補っている。あまり飲みたくないので、公女はこのところ弱い酒ばかり口にしている。もう嘔吐公を笑えない。
「では、水道橋を途中で降りて、船で川を下りましょう」
「相手の封鎖船をどうやって越えるのです」
五発目が落ちた。
女中や使用人たちが「天罰だわ」と騒ぎ出したところに、なぜか銃兵装備の城内教会の牧師が「自然現象です!」と反論を試みている。残念ながら自然ではなかったりする。
「流言や迷信に惑わされてはなりません! 答えは全て聖書にある! 信仰せよ! そして信仰は血で守らねばならない! ペーターの手紙によれば、信仰の試練は『火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊い』のですから!」
彼の父は十五年戦争の際、先代公に命を救われた牧師だったと聞いている。
前回の彼はむしろ降伏派だったはずだから……彼自身の忠誠心は公爵家に向けられているらしい。
あるいは彼の信じる神に。
ティーゲル少尉は牧師の台詞に耳を傾けていなかった。
「……いっそ変装しませんか。路地の奥に隠れていれば、いずれ幸運が降りてくるやも」
「南門から出ます。わたしはエマを呼んできますから、ティーゲル少尉は乗用馬を十頭ほど仕立ててください。イングリッドおばさんはお母様を!」
危険な賭けにはなるけど、どうせならヒューゲルの勝利につながる逃走にしたい。
六発目の雷は以前より遠かった。
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