7-2 立ち話


     × × ×     


 あるところにヤーコブ・ブルという若い牧師がいた。

 彼は澄んだ湖のような心の持ち主で、助けを求める人を見かけると助けずにいられないことから「村人の奴隷」と渾名されていた。

 本人はその名を恥じることなく、むしろ誇りにしていたという。


 彼の利他的なエピソードの数々は、俺が耳にした限りでは宮沢賢治の理想像を焼き写したものだ。

 チビでなければ、みんなに木偶の坊と呼ばれていたかもしれない。


 そんな彼にも等しく不作の年が訪れる。

 東西南北に助けを求める人があふれた。お腹を空かせた子供、脚気で動けなくなった人々、わずかな穀物を巡って殺し合う男たち――ヤーコブ・ブルは純真な心で、全てを救おうとした。

 教会の装飾品を売り払い、私財を投げうって武器を揃えた。村人の有志と『慈悲救済軍』を結成した。不作なのに租税を取り立ててくる役人をマスケットで追い払った。周りの村から「助けてほしい」というメッセージが相次いだ。助けに行った。


 あとは繰り返しだった。

 ヤーコブの『慈悲救済軍』は雪だるま式に膨らみ、すぐに制御不能に陥った。

 七万人の老若男女が明日を生きるために目の前の都市を落としていく。村々から穀物を持ち去っていく。役人・牧師・司祭を平然と殺して回る。

 いくらヤーコブが止めても、七万人が七万人でいるためにはそうするしかなかった。奪わなければ生き残れない。


 ジューデン公領の南半分を食べ尽くした『慈悲救済軍』は、いくつかの支隊に分かれて四方八方に散らばっていった。

 そのうちキーファー公領に向かった支隊は、守りが空っぽのシュバルツァー・フルスブルクを三日で落としたらしい。

 街は炎に包まれた。


 その時、ヨハンの部隊はまだ北街道を進んでいる途中だったという。



     × × ×     



 一六六八年。七月某日。夕方。

 ヘレノポリス近郊の宮殿には同盟北部の有力者たちが集まっていた。

 午前中の大君議会において、ヒンターラントのルドルフ大公が大君ハインツ二世を糾弾するという『大事件』が起きた。これに南部の有力領主たちが追従したため、対立関係にある北部諸侯は今後の対応を話し合うべく会合を設けた……前回と同じ流れだ。

 私的な立食パーティーの形を取っている点も同じ。


 あえて変化した点を挙げるなら、公女の隣にエマがいること、あとは――ヨハンが来ていないことか。

 キーファーの代表はヴェストドルフ大臣が務めていた。


「お久しぶりでございます。インネル=グルントヘルシャフト伯ルートヴィヒ閣下」

「おんやぁ。ヨハンとこの大臣さんやないの。久しいのー」

「変わらぬ美貌、惚れ惚れいたしますな」

「うはははは。ありがたいの。んまーおいには可愛い嫁っこがおるからのー。んで、ヨハンはなへ来ん? あんべわりいか?」

「いえ……」


 ヴェストドルフ大臣はルートヴィヒ伯の問いを受けて、なぜか公女に目を向けてくる。

 すると、ルートヴィヒ伯のほうがこちらを手招きしてきた。


「わあ、ヒューゲルのマリーちゃん。久しいのー。おらほ来なあっ!」


 まだ若い未亡人にしか見えないから、ぴょんぴょん飛んでいる姿も可愛らしい。

 呼ばれたなら行くしかないな。

 公女おれはエマを連れて、彼らのテーブルに向かう。


「こちらこそお久しぶりです。ヴェストドルフ大臣も。ルートヴィヒ伯とは結婚式以来になりますわね」

「会えてうれしいのー。わーのヨハンはなじょした?」

「あの人のことはわたしも知りたいくらいですわ。もう北方の戦いは終わったと聞いておりますが」

「んだのー」


 公女おれとルートヴィヒ伯の目が、老齢の大臣に向けられる。

 ヴェストドルフ大臣はごまかすように笑っていた。どうやら彼の口からは話せないらしい。


 こんな時には我が家の魔法使いの出番になる。

 エマ。あれをやっちゃって。


「あれってなに」


 傍らの彼女が呟く。

 いやいや。宮殿に入る前に打ち合わせしたじゃないか。ヴェストドルフ大臣にお父様のプレゼントを手渡すやつだよ。


「わかった」


 エマは独りでクロークに向かうと、あらかじめ預けておいた赤ワインを持ってきてくれた。

 あくまで召使い扱いの彼女に代わり、公女から紹介させてもらう。


「ヴェストドルフ大臣。こちらのワインはお父様から大臣への挨拶の品でして」

「ほほう。それはありがたくいただきます」


 大臣はとても丁寧にワインを受け取ってくれる。エマの指先はバッチリと彼の手に触れていた。よし。


「……あっ。これはしてやられましたかな」


 それに気づかぬ大臣ではなかったらしい。

 あるいは表情からして、自分の口では言えないけど「知られた」なら大丈夫という扱いなのか。大臣はエマの能力をかなり前から知っているわけだし。ちなみにルートヴィヒ伯もヨハン経由で知っている。


 エマはちょっと咀嚼してから、ヨハンの話をしてくれた。


「……マリー様に合わせる顔がないみたい」

「え?」

「父のヨハン二世が反乱で殺されて、ヒューゲルから送ってもらった公社のスタッフも殺されて、マリーに合わせる顔があるか! って、ヴェストドルフ大臣を殴ってた」


 そういうことだったのか。

 何となく申し訳なくなり、ヴェストドルフ大臣に会釈をさせてもらう。大臣は笑っていた。


 しかし……そうなると『北部連盟』の結成が上手くいくのか、わからなくなってくる。

 別にヴェストドルフ大臣の能力を疑っているわけではなくて、むしろヨハンより遥かに気配り・調整ができる人ではあるんだけど、いかんせん他の当主たちより地位が低いから強気で抗弁できない。

 それが打ち合わせの流れにどのような影響を与えるのか。

 いまいち予想がつかないな。いっそお父様ではなくヴェストドルフ大臣にエマを貸してしまおうか。

 お父様のほうも大変な交渉が控えているから、エマの能力は必要になりそうだけど。


「マリーちゃんはヨハンから愛されとるのー」

「え……ええ。ありがたいですわ」

「んで、おいのワインは?」


 ルートヴィヒ伯はにこやかに赤ワインを指差した。

 これはまずい。エマに取ってきてもらわないと。


「エマ」

「冗談よお。マリーちゃんにいじわるしたかっただけ。むしろ、おいからあげる」


 彼は控えていた従者に目配せすると、公女とヴェストドルフ大臣と、なぜかエマにもやたら年季の入ったボトルをプレゼントしてくれた。

 どことなく土の匂いがする。ラベルはライム語だな。


「これはライムの……ボーンホルムの……かなりの年代ものですな……」

「さすが大臣はお目が高いのー。舌に合うともっしぇぐね!」


 ルートヴィヒ伯は可憐に微笑む。そのへんの男なら一発でノックアウトされそうだ。公女で良かった。

 それにしても、こんな高そうなものをエマにまで渡せるなんて、やっぱり今回もインネル=グルントヘルシャフト伯領はとんでもない金持ちなんだな。

 その秘訣を教えてもらえば、ヒューゲル公領の収入拡大に活かせるかもしれない。


「……エマ、やっぱりワインをルートヴィヒ伯に」

「なにかおいに訊きたいのー?」

「あー……えーと。よろしければ、わたしにお金持ちになれる方法を教授していただけますか」

「んー?」


 ルートヴィヒ伯は目をつぶる。

 キス待ちみたいだ。いやそうじゃないけどさ。たぶん思案してくれているのだろう。


「……わがんね」

「えっ」

「いやの。うちの港の連中、みんなおいに会いにくるたびにお金くれるからのー。マリーちゃんも街の人にお願いしたら? しょしがりでなければの」


 ルートヴィヒ伯は近くの給仕からワイングラスを受け取ると、ウインクを返していた。

 なるほど。一周目の北部連盟を支えた彼の資金力は地元商人から貢がれていたものだったのか。


 公女にマネできるかな……ムリだな。うちの商人たちは口ばかりで金を出さないから。

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