5-4 ルールにも穴はある
× × ×
公女の勉強部屋には静かな空気が流れていた。大広間の喧騒、中庭での笑い声も二階には伝わってこない。
公女付きの老女中も今夜ばかりは酒に敗れていた。部屋の片隅で船をこいでいる。
自分の耳まで聴こえてくるのは、目の前の少女の浅い呼吸だけ。彼女は目をつぶって、こちらの記憶を読み取ることに注力しているようだ。
本当は彼女には訊きたいことが山ほどあるのだけど、いかんせん話しかけると「酒臭いから黙って」「集中させて」と拒絶されてしまうので、仕方なく時の流れに身を任せている。
ベッドの上ではやることがないから、相手の顔を見る。六年前より成長している。もう子供の輪郭ではない。
まぶたから伸びるまつ毛が、妙に印象的だった。
「……井納は阿呆だね」
「いきなり酷いな」
「カミルとエミリアの結婚を逃げ道にすれば良かったはず。本当に出家してしまえば、ずっとヒューゲルにもいられる」
「いや、そんなの許してもられる空気じゃなかったよ。あの結婚の条件だって、ヨハンだから許してくれたわけだしさ。イングリッドおばさんは今もうるさいし」
「井納は人妻、ヨハンの奥さん」
「改めてそういうことを言われると死にたくなるからやめて」
「死ぬのはもったいない」
エマはベッドから起き上がると、なぜか公女の頭を撫でてくれた。
その眠たげな目にはわずかながら敬愛の色が浮かんでいる。彼女なりに褒めてくれているみたいだ……おそらくここ数年のジャガイモ政策のことを。
ちょっと報われた気がした。
ヨハンやタオンさんにビールを飲まされたこともあり、このままベッドにいると眠ってしまいそうなので、エマに続く形で俺も起き上がる。
「エマ、もういなくならないよね?」
「そのつもり」
「というか、すぐに戻ってくるって話してたのに何年かかってるのさ」
「ひげもじゃおじさん(※大叔父)が口下手すぎたから。オジンスカの未亡人とくっつけるのに時間がかかった」
「オジンスカのおばさん……そういえば、さっき大叔父の隣にいたね」
あの女性とはストルチェクにいた頃に何度か話すことがあった。まだ三十代なのに旦那さんに先立たれてしまった方で、たまに大叔父の家まで燻製のおすそ分けを持ってきてくれていた。
大叔父が彼女を連れてきていたのは、社交的なパートナーだけでなく人生のパートナーにもなっていたからか。
「へえ、あのおばさんと大叔父が再婚するなんて」
「なれそめから教えてほしい?」
「ぜひぜひ」
「井納は乙女脳。頭の中が『別冊フレンド』。何度目の思春期なの?」
「いちいち煽るのやめてくれないかな」
肉体の話は仕方ないじゃないか。公女の脳を間借りしている以上は、どうあっても影響を受けてしまうんだから。
もう十六年前の話になるけど、一日だけ井納純一に戻った時にはそういう気持ちが吹き飛んだし、俺の魂まで公女色に染まっているとは思わない。
「そんなことより、本当にエマはどこにも行かないんだね?」
「ひげもじゃおじさんには許可もらってる。伝記も作ってあげたから。三冊くらい。後で井納にも読ませてあげる」
「そっか」
もう逃がさないぞ。
そんな気持ちで彼女を抱き寄せようとしたら、例によって拒否されてしまった。お母様ゆずりの癖が抜け切れていないにしても、今は再会を祝うために思いっきり抱き合いたいので、俺はベッドの上を追いかけ回す。
やがてベッドの隅まで追い詰めたところで、彼女から思いっきりデコピンを喰らってれてしまった。
「痛いよ!」
「酔いすぎ。人恋しいなら旦那さんを抱いてあげて」
「せっかく会えたのに!」
「あと、あそこのおばあさんが起きてるから」
エマが指差した先では、お付きの老女中が目を丸くしていた。
ドタドタと音を立てすぎたみたいだ。
「……あの人には出て行ってもらおうか」
「別にいい。それより井納は身体を洗うべき」
「あ、もしかしてマリーが汗臭いから抱き合いたくなかったの?」
「そういうことにしてあげる」
エマのアンニュイな返答はさておき、余所行きの派手な格好ということもあって公女は朝から汗をかいていた。
夕方には引いてきたけど、汗っぽい匂いはあるかもしれない。自分ではわからない。あのイングリッドおばさんから指摘されたことがないし、特別に体臭がきついわけではないはずだ。いっそ香水でも振っておこうか。
「乙女脳……」
「触れ合ってないのに心を読むのはやめてもらいたいね。というかエチケットの話だからさ」
俺は老女中にお願いして、翠色のドレスを脱がせてもらう。
金細工の髪飾り、被り物のネット、コルセットを外して、柔らかい綿のアンダードレスを脱いでしまえば、石壁の隙間から吹いてくる風が冷たく感じられた。まだ三月だ。
他の女中が持ってきてくれたタライに足を入れると、これまた水が冷たい。心地良いというより痛いほどに。
水気で湿らせたタオルでせっせと肌を拭いて、ちゃちゃっと流せば行水は終わる。水滴は新しいタオルで拭き取る。夏場にはもっと洗うのだけど、三月では風邪を引きかねない。
「エマも洗いなよ」
「井納はあっち向いてて」
「ああ……はい、そうします」
たしかに井納は見ないほうがいいな。ただ何となく得心がいかない気分になるのは、たぶん俺の中にやましい気持ちがないからだろう。
今の肉体ではそんな気が起こりようがないし。公女の肉体を見ていても、さすがに一周目の時みたくドギマギしなくなった。
エマの中では、あくまで
ほんのり面映ゆいのはなぜだろう?
「終わった」
お互いにアンダードレスと柔らかいローブだけになり、俺たちは改めてベッドの上に座る。
エマはきちんとタオルで水気を拭かないタイプなのか、色々と透けているなあと思っていたら、またもやデコピンをされそうになった。ぐへへ。日本時代でも味わったことのないラッキースケベだ。ありがたや。
「……井納は、明日からどうするの」
「え、今までどおりにシャルロッテを活用するつもりだけど」
「それだけ?」
彼女はこちらの顔を覗き込んできた。西洋的な同盟人とは根本的に異なるものの、かなり整った顔立ちをしている。
前回のエマも可憐に育っていたな。
明日からか。
「明日はカミルとエリザベートの結婚式で、それから一年間は何もできないだろうね」
「妊娠するから」
「しないって知ってるだろ。インストールが足りないなら、それこそ抱き合おうか?」
「井納、大凶作はヒューゲルのチャンス」
エマの指摘は鋭いものだった。
一六六六年は大凶作の年だ。すでに現時点で水不足の話が出ている。これから夏にかけて雨が降らず、蝗害も相まって、特に春蒔き小麦・大麦は壊滅状態に陥るはずだ。大君同盟は悲惨な収穫期を迎えることになるだろう。
ただし、タルトゥッフェルを栽培している地域を除いて。
それほど水分を必要としないジャガイモは水不足に悩まされづらいし、中長期の保存も効く。すでに公社には非常用の貯蔵を命じてある。
ヒューゲル領内では冬越しの食料に困らずに済みそうだ。
何なら余った分を他の土地に売ったら、めちゃくちゃ利益が上がるかもしれない。酷い話だけど売らないよりマシだ。
「さっきブッシュクリー大尉と話した」
エマの口から出てきた人物名に、俺は思わず吹き出しそうになる。
ブッシュクリーといえば北門衛兵の中尉から兵営の大尉に昇格したばかりの将校だ。前回は抗戦派の代表格として、カミルとパウル公不在の折にあろうことかクーデターを仕掛けるなど引っ掻き回してくれた。
あのメガネとオールバックの白髪が視界に入ると、今でも身体が強張ってしまう。
「よくあんなのと話せたね」
「正確にはひげもじゃおじさんが話してた。エマは奴隷だから」
「そんなの気にすることないよ」
「そういう話じゃない……ブッシュクリーのお父さんは昔パウル公に従って、ストルチェクに来ていたらしいの」
「へえ。知らなかったな」
考えてみれば、ブッシュクリー家は先方三家に次ぐ譜代家門だ。昔から兵営に人材を出してきたのだろう。
パウル公がストルチェクまで敗残兵を倒しに行った時――約二十年前には、大尉のお父さんが現役だったようだ。
エマは語り続ける。
「その時の思い出話から、ひげもじゃおじさんは『ワシが生きている間はもうクソ戦争なんぞ起きないだろう』と笑った」
「そしたら?」
「ブッシュクリーの奴は『起きます』と断言してた。気になったから、新品のワイングラスを手渡すついでに触れてみたら、あの人はマリーのおじいさんの夢を叶えようとしていた」
「……旧領を取り戻すつもりか」
「そう。だから今年はチャンス。兵営はやる気まんまん」
チャンスって。
たしかにヒューゲル以外の国々が大凶作に苦しんでいる状況ならば、周辺国を平らげることは可能かもしれない。
ヒューゲル=コモーレン伯領、ヒューゲル=シルム伯領、ヒューゲル=クラーニヒ伯領はそれぞれ大昔にヒューゲルから切り取られた弱小国だ。
これら『未回収のヒューゲル』を回収できれば、今より多くの土地にタルトゥッフェルを植えられるようになる。国内総人口も約二倍になり、各政府の兵士たちを吸収できれば兵営も急拡大できる。
まさに二周目のテーマ・富国強兵の道といえる。
問題は武力による現状変更を国際社会が認めるとは思えないこと。
自分勝手な
他国にも通用する言い訳があればいいけど、無謀な挑戦は控えておきたい。
「大尉に毒されすぎだよ、エマは」
「大国に伍せる国を作りたくないの、井納」
「滅ぼされたら終わりじゃないか」
「あと十年しかない」
そこを突っ込まれると答えに困ってしまう。
あと十年でヒューゲルをどこまで伸ばせるか。あの破滅に至る歴史を変えるほどの力を持てるのか。
悩みどころだなあ。
「――おい。まだ眠る時間ではないだろう」
二人の世界を切り崩したのは、勉強部屋に近づいてきた足音だった。
その鋭利な足さばきでドアを蹴り開けると、ヨハンは迎えに出てきた老女中に「外に出てろ」と命じる。
彼の目が次に捉えたのはエマだった。
「なんだ、そいつは」
「わたしの親友です。我が家の魔法使いです。ご挨拶をさせます」
二人の対面は二周目では初めてとなる。この世界における秘密兵器の登場にヨハンは興味を示していた。
「ほほう」
「エマと申します」
「お前は何ができる」
「恐れながら……エマは触れた相手の心を読むことができます」
「であれば、オレの心を読むこともできるか」
ヨハンは迷うことなく右手を差し出す。
エマがこちらを向いてきたので、とりあえずジェスチャーでOKを出しておいた。相手は酔っているみたいだし、下手に断ったら面倒くさいことになりそうだから。
ぎこちない握手。
「……なるほど」
「独りで納得するな。口に出してみろ」
「とりあえず逃げたほうがいい」
エマはストルチェク語で、公女に向けて話しかけてきた。
するとヨハンは、あろうことか彼女をソファになぎ倒してしまう。わからない言葉を出されたからキレたのか。なんてことを。
「ヨハン様、わたしのエマに何をされます!」
「オレの問いにきちんと答えないからだ。キーファーではそういう教育をしている。それに何より答えが気に入らん」
「ストルチェク語が好きではないと仰いますか!」
「逃げろだと! 奴隷のくせにふざけるな」
あれ。もしかしてヨハンもストルチェク語がわかるのか。
考えてみれば、キーファーとは国境を接している国だから、外交・交流のために学んでいてもおかしくない。
そんなことより逃げろって何のことだ。
ソファのエマを見やり、どうするべきか迷っていると――ヨハンは
先ほどみたいに力任せではなかったものの、ベッドに押し倒される。
これは……明らかに条件違反だ!
「ヨハン様。あなたの領地を我が家が手に入れても良いのですか!」
「そうはならん」
彼の顔が目の前に見える。組み伏せられた形だ。
ワインの匂いがこちらまで伝わってきた。かなり飲んでいる。まともに判断できないとなると、これは……マジでまずいんじゃ……。
逃れようにも力ではまるで敵わない。
ヨハンの右手はまず布越しにマリーのたわわな双丘を撫でて、揉むと(痛い)、首元に指をひっかけて強引にアンダードレスを破き出した。
あらわになった乳房が冷気を浴びる。
いかん。こいつは本気だ。というか自分なら、こんなものを見てしまったらアクセルがかかってしまう。
もう舌を噛むしかなくなる。
「おやめください! 舌を噛みますよ!」
「その前に吸わせろ」
「クソですか! 酒に負けるなんて何ごとですか! あなたは酔いに任せて古来からの領地を失うのですよ! うっ……そんなことで大国を率いていけるのですか!」
「女のくせにたわ言を。あの条件、お前からオレを求めたことにすれば丸く収まるだろう、いや求めさせてやろうじゃないか」
「エマ!」
もはや唯一の希望に精一杯の声をかけると、彼女はソファから立ち上がって、ヨハンのお尻に手をやった。
すると彼は……前のめりに倒れた。公女は彼の上半身を受け止めることになり、思わず「ぐえっ」と声を出してしまう。
見れば、ヨハンはおっぱいを枕に、吐息を立てて眠りについている。
「……ありがとうエマ。何をしたんだい?」
「魔法で気絶させた」
「え、そんなことできたの」
「別に読心術しか使えないわけじゃない。あれが得意なだけ。一周目で説明しなかった? すごくお腹が空いたから食べに行っていい?」
「その前にこの不埒者をどかしてくれないかな」
「わかった」
二人がかりでヨハンを公女の上から移動させて、ついでにベッドから落としておく。
はあ。別に信頼していたわけではないけど、あんな蛮行に及ぶような奴だったとは。酒のせいにしても酷すぎる。
明日から「この件」でいたぶってやらないと気が済みそうにない。あと十年間、ずっと言い続けてやる。奥さんに手を出せない苦しみと合わせて、せいぜい苦虫をかみつぶしてもらおう。
くそったれが。
「井納」
「なんだい。ああ、アンダードレスがボロボロだから、別の服を持ってきてもらわないと外に行けないね」
「……そうだね」
エマはホッと息を吐いてから、廊下に控えていた老女中を呼んできてくれた。
老女中はベッドから落ちているヨハンを見やってから、次に公女に目を向けて、ひたすら首をかしげていた。
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