3-5 エヴリナとパウル


     × × ×     


 エマとの再会から二ヶ月が経った。

 ほとんどの空き時間を「インストール」に回したおかげで、彼女はすっかり一周目の記憶を吸収できている。

 あまりに触れ合いすぎたせいか、「毎日は疲れる」「急かさないで」と五月病みたいな症状を訴えられたのは内緒だ。前回はあっちから求めてきたのに。


 もちろんお母様との交遊も欠かしていない。

 大叔父と三人で森に出かけたり、街の琥珀工房に出向いたり。

 六月のストルチェクは心地よい空気が流れていて、外出するにはピッタリだった。どこまでも広がる草原の緑は萌えて、地平線で空と混ざり合っている。世界を問わない、きっと人類全般の原風景。


「井納はバカなの」


 外出を許されないエマのために琥珀の工芸品を持ち帰ってきてあげたのに、彼女の反応は辛辣だった。

 眉間に「川」の字が出来ている。眠たげな目は変わらない。


「世界の『破滅』まであと十五年しかない。でも、のんびりエヴリナとピクニックしてる。バカでしょ」

「わかってるよ」

「とっととヒューゲルに戻るべき」


 彼女の指先が公女おれのおでこを突いてくる。

 そうするべきなのはわかっているけど、子供だけで旅ができるほどこの世界は甘くないよ。

 数世紀前、聖地を目指した子供巡礼団が、笛吹男に売られて奴隷にされたという寓話を知らないのかい。


「なら、大人も連れていけばいい話」

「お母様の許可がないと使用人たちは手伝ってくれないよ。お母様はずっとここにいるつもりだし」

「本当にそう言ったの!」

「痛い痛い。指先でグリグリしないで。前回のエマはもっと大人しかったのに……えっ。どういうこと?」


 まさか、お母様の心を読んだのか。

 あの人だってエマの能力は知っているから、大叔父と同じく安易に触ろうとはしないだろうに。どうやったんだ。まさか寝床に忍び込んだとか。


「たまに見えないところでエヴリナに殴られてるから」

「それは…………なんかごめん…………」

「別に平気。この世界では殴られない子供のほうが少ない」

「そうかもしれないけど」

「心配しなくていい。エマは新大陸にいた頃、移住者たちにしこたま殴られてきた。エヴリナなんてあれに比べたらクソザコ」

「エマ……ぎゃっ」


 思わず抱きしめようとしたら、彼女にまたおでこをグリグリされてしまった。

 どうも今回はスキンシップを拒絶されてしまいがちだ。


「ノン。井納は一周目より七倍くらい抱きしめられているから、井納の中で抱き合うのが当たり前になっているだけの話。他にも愛情を示す方法はあるのに」

「ああ、なるほど。我ながらお母様に感化されてたのか……納得だな……ところで何の話だっけ」

「ヒューゲルに戻る!」


 デコピン。おでこに穴が穿たれそうになった。

 そっちこそ変な人から感化されているんじゃないのか。小鳥遊六花の旦那とか、ロボトミー手術の研究者とか。

 三歩ほど後ずさりを強いられて、俺は自室のベッドに座る。

 埃とお母様の匂いがした。いつも一緒に寝ているせいだ。


 エマは右手で口を抑えてから、くしゃみをする。


「エヴリナはここに戻りたかったわけじゃない。逃げたかっただけ」

「お父様から?」

「ヨハン公から」

「…………そういうことか」

「そういうこと」


 合点がいった。

 お母様にとって、マリーはかけがえのない存在になってしまっている。もはや半身扱いといってもいい。

 そんな宝物もいずれヨハンと結ばれてしまう予定だ。

 だから、彼女はマリーを連れて逃げ出した。半身を引き裂かれないために。


 一周目の時には娘の政略結婚に何も口出ししてこなかったのに、ずいぶんと執心されているもんだ。改めて思い知らされた。


「一周目のお母様とは、まるで考え方が違うなあ」

「井納が甘やかしたせい」

「甘やかしたって……こっちが子供なのに?」

「井納は何年生きてるの」

「ぐうの音も出ないや」


 ともあれ、お母様の件は何とかなりそうだ。

 あとはお父様が帰国を許してくださるか。

 手紙の一枚すら送られてこないあたり、向こうから母ともども見捨てられている可能性もあるだけに、予断を許さない。


 こちらから手紙を送れたらいいんだけど……ストルチェクは同盟郵便ブンテスポストの範囲外だから、自前の飛脚を仕立てることになる。いくらかかるのやら。

 やっぱり嘔吐公からの手紙を待つしかなさそうだ。


「パウル公からの手紙、ここにある」

「なんでエマが持ってるの!?」

「ひげもじゃおじさん(※大叔父)はヒューゲルと文通してる。エヴリナと井納には秘密で」

「なんでエマは知ってるの……」

「おじさんにも殴られているから」


 あまりにショッキングな話が出てきて、内心で反応に困っていると、彼女は「冗談」と笑ってきた。

 本当は、たまに頭を撫でられているらしい。子煩悩な大叔父に似つかわしい話だった。ああ良かった。


 エマから手渡された封筒には、パウル公の率直な想いが封入されていた。お母様に逃げられたことを自省するわけでもなく、お母様を攻撃するわけでもなく。

 何も言わずに出ていったことに困惑している。


『なぜエヴリナが出ていったのか、まるで想像できません』

『決して円満な家庭ではないにしろ不足のない生活をさせてきたつもりです』

『もしエヴリナから理由を聞き出せたなら、手紙に記していただければ幸いです。可能なかぎり対応させていただきます』

『両家の今後のためにも、彼女とは夫婦でありたいと考えております』


 俺は読み終えた手紙を封筒に戻した。

 大叔父の判断は正しい。お母様や娘に読ませるものではない。これは家庭内の手紙ではなく「商品の生産者に向けたビジネスメール」だから。


 別にパウル公に愛がないとか言いたいわけではなくて……手紙には送り先があるという話だ。

 自分の中から肉体由来の若干アンニュイな気分を取り払い、とりあえず俺はエマに手紙を返しておいた。


「お父様は受け入れてくれそうだね」

「あとは井納が『ヒューゲルに戻りたい!』『でもヨハンとは結婚したくない!』と泣きだせば大丈夫。エヴリナは受け入れる」

「……その手はなるべく使いたくないけど、そうさせてもらうよ」


 悲しいかな、二周目になってから泣き落としはプロレベルまで上達しつつある。だって効くんだもの。



     × × ×     



 その夜。

 公女は理性的に泣きわめいた。



     × × ×     



 二ヶ月後。一六五九年八月。

 大叔父の居館を囲む森の入り口に『長梯子』の旗が立てられた。

 旗と馬車を守る衛兵の数は三十名ほど。濃灰色の制服を衛兵の証たる袖章で飾り、革のベルトから騎兵用サーベルを下げている。衛兵は領内騎士や上流階級の子弟が中心なので、実家で騎乗を学んだ者が多い。

 彼らの大半は初めて訪れる外国に興味津々な様子だった。

 森の草花に触れている者や、鳥の鳴き声に耳を澄ませている者、近所の奥さんたちに流し目をくれている者までいる。


「風紀が乱れておるぞ! ライスフェルト少尉!」


 そんな若者たちの浮つきぶりに、馬車から出てきたばかりの初老の男性が短い「喝」を入れた。

 タオンさんだ。


 俺は居ても立っても居られず、居館の窓から外に出る。はしたないけどスカートの裾を摘まんで、彼の元に駆け寄った。


「タオン卿! 無事だったのですね!」

「おお、公女様」


 タオンさんはその場で跪いてくれる。周りの衛兵たちもそれに続く。この感じがとても懐かしい。


「お久しぶりでございます、公女様。おかげ様で、我々はほとんど戦果に挙げられぬまま戻ってきてしまいました。申し訳ございません」

「それで良いのです。その様子ではベルゲブーク卿も死なずに済んでいますね」

「あやつなら、今頃は奥方と乳繰り合っているでしょうな」


 タオンさんのしょうもない軽口に、衛兵たちがわざとらしい笑みを浮かべている。

 よしよし。

 例の出兵の件は何とかソフトランディングできたらしい。どうしても出兵にかかったお金がもったいなく思えてしまうけど、有能な将兵を犬死させるより遥かにマシだ。

 タオンさんの話では、ヒューゲル兵は本音では公女との約束を守る形で、建前ではパウル公の体調が良くないとの情報が入ったために、エーデルシュタットの手前で引き返してきたらしい。


 ルドルフ大公の逆侵攻自体は、ヒューゲル抜きでも前回の歴史通りに進んでいるみたいだ。アラダソク王冠領もルドルフ大公の手中に収まる予定だという。

 いっそヒューゲル兵だけでなく、他の同盟軍も引き返してくれていれば、あの男が逆侵攻に成功して広大な領地を手にすることはなかったかもしれない。

 自分にそんな次元の計略を成功に持ち込めるだけの力があるとは思えないけどね。配下にヤン・ウェンリーやオーベルシュタインがいてくれたらな。彼らだけで世界を救えるだろう。


「タオン男爵」


 背後から冷たい同盟語が聞こえてくる。

 エヴリナお母様だ。


 タオンさんと衛兵たちは跪いたまま、されど面持ちが固くなる。


「エヴリナ様。相変わらず美貌は健在でいらっしゃる」

「御託はいいから城に戻るよ……あの人は?」

「公務にて。ラミーヘルム城でお待ちです。お手紙を預かっております」

「寄越しなさい」


 お母様はパウル公からの手紙を受け取ると、公女おれの手を引いて迎えの馬車に入っていった。

 ヒューゲル家で使われている御用馬車なので(他家と比べると安物だけど)大叔父の馬車より内装が凝っている。

 座席の座り心地なんて比べものにもならない。


 隣のお母様に視線を向けてみれば、彼女は夫の手紙を白けた目で読み込んでいる。こっそり脇から覗こうとしたら、先に折りたたまれてしまった。


「……マリー。本当に、本当にキーファー公の息子とは結婚しないのね?」

「お母様が生きている間は延期します。ラミーヘルム城でお母様と一緒に生きていたいですから」

「ああ、私の愛娘。長生きさせてもらうわ、あなたのために」


 いつものように抱き寄せられる。

 体温はドレスを越えてこない。


 不意に視線を感じたので、窓の外に目を向けてみると――大叔父とエマが笑顔で手を振ってくれていた。

 大叔父には大変お世話になったから、ちゃんとお礼を告げておかないとな。


 エマは……え、エマは?


 公女おれはお母様の懐から抜け出して、馬車を降りる。


「ちょっとエマ、あなたは馬車に乗らないの? こっちじゃなくて他の馬車?」

「エマは残るみたい」

「えっ」


 大叔父に目をやると、なぜか彼から頭を撫でられてしまった。


「すまんなマリー。ワシはこいつをヒューゲル公にお詫びとして献上するつもりだったが、お前たちが戻るなら『手土産』はいらんだろう?」

「わたしの相棒です! 連れて帰ります!」

「そう言わんでくれ……お前たちがいなくなると、ワシも寂しい。この娘なら話し相手にはピッタリだ。実はワシのクソ伝記を作ってもらおうと考えていてな」


 大叔父は町工場を一代で立ち上げた引退社長みたいなことを言い出した。

 たしかにエマの能力なら、本人が忘れているエピソードも拾い上げられるけど。


「では、では大叔父様もヒューゲルに行きましょう。ラミーヘルム城にはたくさん部屋が余っていますから!」

「ワシがいなくなったら、この土地は誰が管理する? 奉公人に任せたらコメダ家に乗っ取られかねん」

「親戚の方に任せたら」

「……もうリシェツキの本家にはワシとエヴリナしか残っておらんわ。ライム王国に移住したクソ分家筋に相続させるのは勿体なかろう。あとはあれだ、ワシが不在ではヒューゲル公との穀物融通契約が果たせなくなる」

「ぐぬぬぬ……」


 穀物の件を出されてしまうと反論できなくなる。

 大叔父の穀物抜きには、六年後の凶作を克服できない。ヒューゲルが餓死者だらけになってしまう。


 万策尽きた。

 ここでエマを手放すほかないのか。でも彼女がいないと非常に困る。

 二周目はここからが本番だというのに。

 やるべきことがたくさんあるのに。


 肉体が泣きそうになってきた。このまま泣き落としに持ち込もうか――ダメだな。あれは大叔父には通用しなかった。子煩悩なわりに子供のワガママを許してくれないタイプの人だ。育児方針としては正しい。


「井納、大丈夫だよ」


 エマにぎゅっと指先を握られる。

 お互いに子供だから、触感がプニプニしていた。

 彼女がなぜか日本語だったので、こっちも日本語で返す。


「なにが、大丈夫なのさ」

「任せて。すぐにそっちに行ける」

「根拠はあるの?」

「ある」


 エマは珍しく笑ってみせると、その眠たげな目を大叔父に向けた。

 大叔父の脳内が根拠だというわけか。

 証明するには乏しいなあ。


「……わかった。早めにしてよ」

「甘えんぼ」

「そうだよ」


 俺は彼女の手から指先を抜き取ってから、改めて大叔父に半年間の礼を告げる。


「大叔父様、お世話になりました」

「またいつでも来るといい。エマにも会えるぞ」

「はい」


 その台詞にちょっとムッとなりそうになったけど、おそらく大叔父自身には悪気がない。

 ひょっとすると――公女やお母様が「会いに来る」ことを期待して、彼はエマを手元に残したいのかもしれない。


 何にしても今は彼女を信じるしかなさそうだ。


 振り返ると、お母様が河豚ふぐみたいにほっぺを膨らませていた。


「マリー。その奴隷のことは忘れなさい」

「忘れられませんわ」

「どうしてそんなことを言うの、私のマリー。良い娘でいてくれないの?」

「だって、あの『優しい優しい』お母様が、夜な夜な殴るような娘ですもの。どんなイタズラをしでかしたのか気になりますし、わたしの反面教師としなければなりませんわ」


 お母様のほっぺは割れた。

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