3-3 もう一つの昔話


     × × ×     


 何時間も語り続けた男たちが、今は静かに寝息を立てている。

 俺は乳製品を飲み過ぎたせいか、無性に便所に行きたくなった。大きな花を摘みたくてたまらない。いくら乳酸菌たっぷりでも、たくさん飲むのは胃腸に良くないのは自明の理。

 こちらに抱きついたままの大叔父を起こさないように気をつけつつ、どうにか公女は席を立つ。


 便所。この世界では店内に設けられることは滅多にない。下水道が無いと汲み取り式にならざるを得ないからね……もしあったら、お店の中が大変なことになってしまう。あまり考えたくない。

 幸いにして、この店は酒の匂いに染まっている。外の公衆便所を目指すことになりそうだ。


「便所ならマルチン通りの共同住宅地にあるわよ」


 近くにいた大衆食堂の給仕さんが公衆便所を教えてくれた。

 そうと決まれば、すぐにも出向きたいところだけど……大叔父の家来たちが店内に見当たらないな。

 大叔父たちの所に戻ってみたら、いつのまにか飲み会の末席に加わっていたらしく、ブチョリスキ氏と共に床に倒れていた。

 仕方ない。一人で行くか。もう耐えられそうにないし。


 大衆食堂を出ると、外はすっかり夕日が落ちていた。

 この世界の夜は暗い。

 スワフニ市内の建築物は色彩を忘れて、路地から吹き込んでくる影を受け入れつつある。

 市民の姿はあまり見えない。近くにいたおばあさんも早足で家の中に入っていった。

 路端の物乞いさえも姿を消している。


 察するに、なるべく早めに食堂に戻ったほうが良さそうだ。公女が誘拐されたら各所に迷惑をかけてしまう。これが元でパウル公に気にかけてもらえたら、それはそれで有効な手ではあるけど……ハイリスクすぎるし。

 肌寒い風が公女の服を揺らす。

 何となく後ろを振り向いてみると、先ほどの給仕さんが追いかけてきていた。鬼の形相だ。


「あなた! 夜に一人きりはダメ! 偽巡礼者に捕まって異教徒に売られるって習わなかったの!」

「す、すみません」

「お姉ちゃんがついていってあげるから。早めに済ませること!」


 彼女はこちらの手を引いて、共同住宅地に向けて歩き始めた。

 わざわざ便所まで道案内してくれるらしい。嬉しいなあ。姉ができたような気分だ。

 ああして正面から叱られたのも、思えば前世の居酒屋バイト以来かもしれない。タオンさんとイングリッドおばさんは叱るというより「苦言」に近いものがあるし。ほんのり面映ゆい。


 二人で共同住宅地の一角までやってくると、公衆便所の前で立ち話をしている男女の姿が見えた。

 恋仲なのかな。向かい合って手を取り合っている。


「あの日からやり直したい。どうか受け入れてくれないか」

「無理を言わないで、ミコワイ。あなたもわかっていることでしょ」

「でも君は戻ってきた。また僕たちは会えた」

「あなたの気持ちは嬉しいわ」

「神様が正しい道に僕たちを戻してくれたんだ、エヴリナ」

「ミコワイ……」


 何度聞いてもお母様の声だった。

 二人の影はやけに親しげで、されど磁石のように互いに反発しあっている。

 時に抱き合いそうになりながら、すんでのところで至らない。

 もしかしたら相手はお母様の昔の恋人なのだろうか。幼馴染や元婚約者の可能性もある。暗がりで顔を窺えないけど、声色からして二人が同年代なのは確実だし。


「あれからずっと君のことを思い出さない日はなかった。君を連れていったニェメツの連中を恨まない日はなかった……それが今日君に会えて、全てが報われた気がするんだ」

「ミコワイ、私だって。でも、わかっているわよね?」


 ミコワイと呼ばれた男性は、十数年ぶりの再会に盛り上がってしまっているようだ。

 お母様もまた、拒否を示しながらも手を振り解こうとはしない。ずっと指を絡めたまま。


 この状況を冷静に考えると――井納としては非常にまずい気がしてきた。

 なにせマリーの強みは公女である点に尽きる。お母様がパウル公からミコワイ氏に乗り換えてしまえば、自分はただのストルチェク人の幼女だ。

 せめてミコワイ氏が五大老マグナートの一角を占めているならともかく……ただのシュラフタや庶民だったら、もはや二周目に用はなくなる。


「わかっているさ! でも戻ってきたんだろ! なら、二人でいたいって!」

「ミコワイ……」

「もう君を離さない、僕は二度と!」


 ついにミコワイ氏がお母様を抱きしめてしまった。

 まずいまずいまずい。何とかしないと。キスまでいったら後戻りできないぞ。

 そうだ。エヴリナお母様に駆け寄って「お母様」と甘えてやろう。

 ミコワイ氏が「なんだ子持ちか」と諦めてくれたら万々歳。

 そうなれば、さっそく。


「……あんたら、おじさんとおばさんが公衆の面前で何やってんのよ。やるなら余所でやりなさい。見苦しいわね」


 公女が走り出す前に、給仕さんが話しかけてしまった。


 二人のほうは赤の他人に見苦しいと評されたのが堪えたのか、おじさんおばさん呼ばわりがあまりに身に染みたのか……抱き合うのをやめて、それぞれなりに服を整えたりしている。


 やがてミコワイ氏のほうがバツが悪そうに去っていった。

 また会おうという捨て台詞を残して。


「……ほら。あなた。早く便所に行っちゃって」

「あ、はい」


 給仕さんに言われて、俺はようやく本来の目的を思い出した。

 途中でお母様に「マリー!」と呼び止められたけど、絶対に話が長くなりそうなので先に用を致すことにする。

 はあ。助かった。


「……マリー。あの人は違うの。ただの昔の友達で、私が大切なのはあなただけだから。ねえ、拗ねてないで出てきてちょうだい。私はあなただけのお母さんよ」

「ちょっとおばさん。あの子に静かにうんこをさせてあげてよ。可哀想じゃない」

「さっきからあなたは何なの」

「良心的なストルチェク市民よ」


 どうでもいいけど、トイレの前で言い争いをされると地味に恥ずかしいな。

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