2-2 家族
× × ×
一六五八年六月。
父より一足先にラミーヘルム城に戻ってきた公女を出迎えてくれたのは、お母様だけだった。
別に「だけ」というのは、大広間での廷臣たちの出迎えに気持ちがこもっていないとか、そんな話ではなくて――本来なら彼女の胸元で眠っているはずの存在が見当たらないから。
「寂しかったわ! どうして私を一人にしたの、私の愛するマリー!」
「お母様がヘレノポリスについてこなかったからです」
「だって、見知らぬ人とは会いたくないもの。あなたさえいればいいの! はあ……もう二度とヒューゲルを出てはダメよ、マリー」
エヴリナお母様はぎゅっと公女の身体を抱きしめてくる。
めっちゃ匂いを嗅がれている。
どうもお母様は年を経るごとにどんどん娘に対する感情が重たくなってきており、このままでは前回とは別のベクトルで母娘関係が壊れてしまいそうな気がした。
後ろではイングリッドおばさんが抱き合う母娘の姿を微笑ましい目で見ているけど、ストルチェク語を理解できるタオンさんは明らかに呆れている。
ストルチェク――やはりお母様の周りに「同胞」がいないことが、マリーへの強烈な依存につながっているのかな。
料理が下手な料理長・タデウシュさんはお母様にお願いして実家に帰らせたし。
お母様の実家から女中さんを何人か呼んでもらおうか。
「……お母様、僕も」
「はいはい」
同盟語で近づいてきたカミルを、お母様は左手で抱きしめる。
前回もカミルやマクシミリアンには辛く当たっていなかったな。なぜかマリーだけイヤミばかり言われた。
マクシミリアン。
今回はまだあの子が生まれていない。
この母子の抱擁の中に、今年加わるはずだったのに。
未出産の原因は何だろう。お母様が年中マリーと共に眠っているから? なんてこった。パウル公のチキンめ。娘なんて気にせずにお母様を誘え――あんまり想像したくないからやめておこう。
何にせよ、確実に歴史は変わりつつある。
もしこのままマクシミリアンが生まれなかったら、
逆に生まれたとして、その子を前回のマクシミリアンと同じ存在と捉えていいものか。ヒューゲルの次男という役柄は同じであっても、精子と卵子が別物だし。
妹だったら、我ながらショックを受けそうで怖い。
「お母様」
「なあに、私のマリー」
「お父様と二人目の弟を作ってください」
「んー」
エヴリナお母様は何とも感情のこもっていない笑みを浮かべてくれた。子供の話をごまかす時のあれだな。
後ろでタオンさんが咳き込んでいるのはさておいて。
せっかくだから、もう一つの歴史の『歪み』も正してしまおう。
「あと、わたしも魔法使いが欲しいです」
「チャロジェイ……いけないわ。あれは異端だもの。あなたが魔女を欲しがるなんて。ヘレノポリスで友達に自慢されたの?」
「魔女ではなく、新大陸の人間兵器です。旧教会からも認められています。ヨハン様が持ってらっしゃいました」
「なら、いいわよ。お金は出してあげるわ」
お母様はまるで百均のおもちゃをカゴに入れられた時のような口ぶりで、ごくあっさりと魔法使いの購入を認めてくれた。
うーん。どうやら魔法使いの価値すら知らないみたいだ。あんなの百均どころか正規空母クラスの値段なのに。
前回の彼女は、どのような経緯でエマを手に入れたのだろう。
たしかシャルロッテ商会のエージェントが仲介したはずだった。
あの人に会えば、何かしら判明するかもしれない。
「……おい。イングリッド。公女様は魔法使いを所望されているぞ」
「うふふ。きっとキーファー公がお持ちだったから、自分も欲しくなったのね。あれで可愛いところがあるものだわ」
「エヴリナ様はお買いになるそうだ」
「えっ……まさか。お姉様にそのようなお金があるはずないわよ」
「パウル公は?」
「お兄様が出すと思う?」
「出さんだろうな。あの方は先代公の洗礼を受けすぎていらっしゃる」
「マリー様のために楽器を仕入れたいのに、ちっとも予算をくれないのよ。アルフレッドからも何とか言ってもらえないかしら」
「その件は後にしよう」
タオンさんがこちらに近づいてきた。
母子のスキンシップを阻まんとする存在に、エヴリナお母様は眉間だけで露骨な嫌悪感を示す。
「なんだい、タオン男爵。控えてなさい」
「お言葉ですが……公女様が所望されておられます品物は国宝級の価値があります」
「城下町で手に入らないなら、低地やクレロのポテレ市に女中を出向かせるまでよ。あんたに行ってもらおうか」
「最低でも城館を建てるほどの金がかかるのです」
「なんだって? だったら何だい! あたいの実家に工面してもらうさ」
「……で、あればよろしいのですが」
「失せな! イングリッドも突っ立っていないで、旅の無事を祝うためにあれこれしないかい!」
お母様は相変わらず同盟語では辛辣だった。
公女の家庭教師二人は「失礼致しました」と礼をしてから大広間を出て行く。
自分も続きたかったけど、お母様が放してくれなかった。
「同盟人はいつもああなの。いつも上から私たちに口出しするの!」
「……お母様、お金は」
「安心してね。必ず手に入れてあげるわ。私のマリー。あなたの欲しいものは、私の欲しいものよ」
ものすごくありがたいお言葉だけど、ものすごくダメなお言葉だった。
公女が井納でなかったら、おそらくマリーは茨の道を歩むことになっていただろう。もちろんお母様も。
うう。ぎゅっと抱きしめられているのが辛い。ほっぺをくっつけないで欲しい。
目を逸らすために右隣の弟に見てみると、何やら首を捻っていた。君は良かったね、ストルチェク語を覚えてなくて。
× × ×
ヒューゲルに戻ってきた公女は、さっそく三人目の家庭教師を呼び寄せることにした。
廷臣たちが「バブルが崩壊した」と話していたから、そろそろ頃合いのはずだ。
シャルロッテは逃亡先を探しているだろう。
招聘の手法としては前回と同じく、タオンさんにお願いする形になる。
「タオン卿。シャルロッテ・スネル女史をお城に呼んでもらえませんか」
「な、なぜその名を!?」
勉強部屋でストルチェク語の文法を教えてもらっている時に依頼してみたら、ものすごくビックリされた。
いけない。また段取りを省いてしまった。
「失礼。海外交易や新大陸に詳しい方から学んでみたいのです。さしあたってはタオン卿の甥に交易商がいましたね」
「たしかにおりますが……あの者は勘当の身でして」
「では、シャルロッテ女史を」
「そのシャルロッテが私の甥を低地商人にしたのです。もう、あの二人と会うことはできかねます。ご勘弁くだされ」
「うえぇぇ……」
「うおおお……ああもう。泣かないでくださいまし。わかりました。私から甥に連絡を取ってみましょう」
タオンさんは公女の頭を撫でながら、慈愛を含んだため息をついてくれた。
相変わらず子供の泣き落としに弱い人だ。ちょろいぜ。
「……アルフレッド。あまりマリー様を甘やかさないでくださる」
「仕方なかろう。エヴリナ様に娘を泣かせたと伝わったら、下手したら殺されかねん」
「それもそうだわね……」
げんなりした様子のタオンさん、イングリッドおばさん。
そんなつもりはなかったんだけどな……彼らからワガママで気にくわないガキとは思われたくないし、今後はなるべく泣き落としを控えよう。
もう少し成長すれば、彼らも公女の話を「子供の戯言」とは受け取らなくなるはずだ。
× × ×
ホルガー・フォン・タオンはタオンさんの弟の忘れ形見にあたる。
早くに亡くなった弟の代わりに、タオンさんはホルガーを一人前の「郎党」に育てようとした。
タオン家を支える柱になってほしい。あわよくば自分の息子の足りないところを補えるだけの存在になってくれ。
タオンさんの子弟教育は苛烈を極めたそうだ。
タオンさんの息子から見ても、ホルガーのしごかれ方は凄まじかったらしい。
今の彼からは考えられないけど、他家のように
「それだけ、父上はあいつに期待していたのですよ」
その期待は思わぬ形で無に帰した。
古くからの友人だったスネル商会の大旦那が、ある時にタオン邸まで次女を連れてきた。
次女・シャルロッテは女だてらに独自の商会を立ち上げ、すでに本家を凌ぐほどの大商人となっていた。当時彼女は十五歳。マリーがまだ生まれたばかりの頃だ。
タオンさんはシャルロッテとは初対面ではなかったけど、ホルガーは彼女の容貌に一目惚れしてしまった。
やがて彼女の誘いに乗る形で、彼はタオン家を出ていったという。
ちなみにタオンさんの息子も何とかシャルロッテを口説こうとしたらしい。
しかしながら、彼女はまともに取り合ってくれなかったそうだ。
「きっとシャロさんは恋愛に興味がないのでしょうね。なにせ低地の天才大商人ですから。私のような陪臣では釣り合わない。ホルガーの件で、もう会うこともないでしょうが……」
「そのうちヒューゲルに来られますわ」
「それは……本当なら、ブッシュクリー家の娘と婚約したのが惜しくなりますなあ」
若タオンは父譲りの端正な笑みを見せてくれた。きっと冗談だ。
どうでもいいけど、こんなところであの白髪の大尉の名前が出てくるとは思わなかった。今はまだ北門衛兵の中尉をやっているみたいだけど、今のうちに手を回しておけば公女の
……いや、やめておこう。あの手の人を操縦できるほどの「器量」は俺にはない。相対するだけで独特の緊張感が発生するから身が持たなくなる。前に
「ホルガーは元気にしておるのでしょうか。シャロさんと三人でまた飲みたいものです」
若タオンのほのぼのとした台詞に、俺はあえて何も答えなかった。
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