1-3 旅の始まり
× × ×
翌年四月。
ラミーヘルム城内では大君議会に向けて旅支度が進められていた。
女中たちに指示を飛ばすのは、もちろんイングリッドおばさんだ。
彼女は暇そうな衛兵たちにも荷物を馬車まで運ぶように命令していた。いつの時代も力仕事は男性の役目だ。非力な男性には立つ瀬が無い。
俺も細腕で手伝ってみたら、衣装箱があまりにも重すぎたためにひっくり返ってしまった。
尻もちをついたのは前世以来かもしれない。骨盤がジンジンする。
すかさず、タオンさんが廊下の床から引き上げてくれた。
「いけませんな。初めての舞踏会を前に怪我をされては。御身を大切にしてくだされ」
「どうせ馬車の旅でお尻を傷めますわ」
「まあ、たしかに仰るとおり。イヤになります」
彼は苦笑する。当主の座を息子に継がせてから、ヒューゲル付近を出ていないと話してくれた。
なので、久しぶりの長旅を思うと気が滅入るらしい。
その気持ちは痛いほどわかる。ぶつけたばかりのお尻よりもジンジンするほどに。また一ヶ月も馬車に揺られるなんて考えたくもない。
今月末にはヘレノポリスの街が待っている。
公女にとっては人生初の国外旅行という扱いだ。
ほとんど無知のままでヘレノポリスに向かった前回とは打って変わって、今回の
さらに隣にはタオンさんが控えている。心強い味方だ。向こうではたくさんの友人に迎えられることだろう。
その中に将来的に南部連合に加盟する有力諸侯がいたら――今のうちに、その子供と仲良くなっておきたいな。
いずれ子供が跡継ぎとなった時に、北部側に味方するように働きかけてやる。
仮に味方にはなってくれなくても、この時代の戦争では「敵陣営だけど領主同士が仲良いから攻撃は控える」みたいな美談が発生しやすいし。
ルドルフ大公が「破滅」を引き起こすとわかった以上、彼の手札を減らしていく・使えなくしていくのが、当面の対外的目的になってくる。
対内的目的については、ひとまずヘレノポリス旅行が終わってからだ。
父親の御用商人の話だと、チューリップ・バブルはまだ弾けていないそうだから。
× × ×
出発前日になると、ラミーヘルム城内には見送りのためにヒューゲルの有力者たちが集まってきていた。
公女は「挨拶役」として大手門の前において彼らの応対を任されている。もちろん名目上の話であって、つまるところ領主の娘が自ら出迎えることで「歓迎の意」を示しているのだろう。実際の応対は城内でイングリッドおばさんが行っている。
公女の隣にはタオンさんが立っており、どちらかというと彼のほうが客人たちからチヤホヤされていた。
また一人、お客さんがタオンさんに近づいてくる。
「アルフレッド。君もパウル様に同行するそうだな」
「おお、ゲオルグ。二月の狩り以来だな」
「公女様のお付きとは、引退の身なのによく取り立てられたものだ。羨ましいよ」
ゲオルグと呼ばれた中年男性はこちらを見やると、テキパキと礼をしてくれた。手の甲にキスされる。
かなり太っているわりに節々の所作が鮮やかな人だ。
人当たりの良さと魅力的な笑顔は、さすがヒューゲルでもタオンさんと一・二を争う人気者だけある。
とても、あの陰気な息子さんの父とは思えない。体型だけは似てるか。
「……ボルン卿は留守を任されているそうですね」
「昔から我が家は留守役でございます。ベルゲブークは果敢に攻める、タオンはむやみにかき回す、ボルンは城を守る」
彼のアンパンマンのような顔からは、お家の役目に対する自負心が感じられた。
そういえば前回、ヒューゲル兵がヴィラバに出兵した時もボルン家は留守役だったな。まるで役に立ってなかったけど。
「おい、タオンはむやみにかき回すとはなんだ。先代公はタオンは切り札と仰っていただろう」
「それはアルフレッドのいつもの記憶違いだ」
「ボケ老人扱いはやめんか」
ヒューゲル公領を支える先方三家のうち、二人が仲睦まじい掛け合いをしているのは何とも頼もしい。
このまま
俺はボルン卿に指示を出した。
「ボルン卿。わたしが戻ってくるまで馬に乗らないでくださいませ」
「えっ……我が家は初代辺境伯より騎乗を許されておりますが」
「その巨体では落馬が命取りになります。うちの女中に見張らせますからね!」
ビシッと言ってみせたら、タオンさんが「ははは」と笑い出した。
いつもよりおどけている。
「ゲオルグ。公女様の指摘は正しい。また馬に乗りたければ、しばらく少食に努めることだ」
「落馬などするものか! それに自分は君ほど食べていない!」
「すでに少食を心がけているとなると、やはり歩いたほうがいいな」
「君、我が家から城まで歩けるのかね! 半日かかるのだぞ!」
ボルン卿はタオンさんに涙目で言い返してから、こちらに神妙そうに向きなおる。しかし口元は閉じたまま。
おそらく公女を説き伏せる方法を脳内で考えているのだろう。もしくは公女が折れるのを待っているのか。
こちらとしては、別にダイエットさせたいわけではないから、きちんと抜け道を作ってある。
「ふふふ。徒歩が辛いなら馬車を使われるとよろしいですわ、ボルン卿」
「馬車はお許しいただけるのですか?」
「もちろんです。あくまで馬に乗らなければ大丈夫ですから。よろしいですね?」
公女の台詞に、ボルン卿とタオンさんは狐につままれたような顔をしていた。一応、頷いてくれている。
たぶん高貴な
それが歴史にどんな波紋をもたらすのか、今はまだ想像するしかない。
× × ×
揺れる馬車。酒の匂い。嘔吐公。
二十五日間の旅をまとめるなら以上の三点に尽きる。
ものすごくお尻が辛かった。
前回と変わらない千鳥足の蛇行旅が、終わりを迎えたのは四月末日。
ヘレノポリス中央部の大聖堂が車窓に映っていた。中世末期に当時の大君が建立させたという赤茶色の尖塔は、井納が今までに見てきた施設の中でも上位に入るほど格好良い。一位は平等院鳳凰堂。
父親と廷臣数名とタオンさんが、大聖堂の入口で馬車を降りた。
「私は大君や諸侯にお会いしてくる。お前たちは城外の宿で夜の支度をしていなさい。差配はイングリッドに任せよう」
「公女様、一旦失礼いたします」
父親の後ろをタオンさんが追う。
前日に酒を抜いたのが功を奏したようで、確かな足取りで父親たちは大聖堂の中に入っていった。
俺たちを乗せた馬車は、ヘレノポリス中心部から城壁・堡塁を抜けて、城外の新市街地に向かう。
イングリッドおばさんの話では北通りに宿を取っているらしい。前回も同じだったな。
北通りの街並みは大いに賑わっていた。
酒場から客が溢れてしまっている。どこかの土地の兵士たちの足元では子供が走り回っていた。
子供たちは時として大人からお恵みをいただくと、もらったパンや料理を路地で待っているボスに献上していた。
あれは追いかけっこで遊んでいるわけではなく、色んな客に声をかけて回っていたのか。世知辛いな。
馬車は酒場の前を通りすぎていく。
「待ってください。おばさま、もっと酒場の様子を見学させていただけませんか」
「ダメです。危ないに決まっているでしょう」
「馬車の中から眺めるだけですから。後学のためにも」
おばさんに無理を言って、俺は酒場の人間模様を五分ほど見学させてもらう。
これで「わたしはマリー・フォン・ヒューゲル。趣味は人間観察です」とヨハンに自己紹介できる。しないけど。
よし。そろそろタイミングはズレたはず。
「……もういいです、行ってください」
「盛り場に近寄ってはいけませんよ」
「ちゃんとわかっておりますわ、おばさま」
馬車は酒場の前から目的地の宿場に向かう。
印刷工房では丁稚の少年が、窓際の机で主人の若旦那から帳面の付け方を学んでいる。
必死で目を凝らしている様子は可愛らしい。仕事を覚えようと頑張っている。将来は工房を継ぐのかな。
十年後、この街は戦乱で燃えてしまうけど……彼の未来が明るいことを祈りたい。
「停まりなさい。この宿です」
イングリッドおばさんが御者に声をかけた。
公女は懐かしい宿場の前で馬車を降りる。カミルも一緒に。
近辺に高飛車な女の子の姿はなく、妙なイチャモンをつけられる心配はなさそうだ。
落ちている馬のうんこが、非常に臭かった。
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