インターリュード
× × ×
× × ×
× × ×
時計の音がする。
女性の声が流れてくる。自分に向けた声ではない。穏やかな話し方。
何を話しているのか、なかなか聞き取れなくて、布団をめくりあげて起き上がると……目の前にテレビがあった。
色彩が眩しい。目が焼ける。
おのずと思考が冴えてくる。
左上の数字は時計だったはず。八時二十五分。朝方だ。
女性は地図上の数字を読み上げていた。熱帯低気圧。
日本語だな、これ。
布団の周りにはアルミ缶が散らばっていた。
中身はない。飲み口の匂いからしてビールだとわかる。缶の表面の漢字を思い出せない。何だっけ。
無性に喉が乾いてきた。
空き缶をひっくり返しても水滴すら出てこない。
布団から立ち上がる。
台所の蛇口をひねり、コップ一杯の水を飲み干したあたりで、俺はようやく目の前の状況を受け入れた。
これ、どう見ても俺の部屋だな。
× × ×
二十五年ぶり(?)に歩く街は非常に近代的に感じられた。
足元にはよだれの出そうなアスファルトが打設されており、馬に依存しない自走車両が『親不孝号』以上の速度で駆け抜けていく。
内燃機関の排煙は容赦なく吐き気を催してくる。くそったれ。こういうのは車両に乗っている奴が吐くべきだろうに。馬糞より臭いぞ。
大通りに出てくると、歩行者の姿も見えてきた。
当たり前だけど『隣の世界』より垢抜けている。服の生地もツギハギやボロばかりではない。これだけでも近代の進歩を感じられる。
例えば女子高生。目元には歪みのないメガネがあり、茶色の革靴は光沢を放っている。
学校指定のカバンも……あの世界にはないものだ。
交差点で久しぶりに信号を見つけた。
地下鉄の出入口にはプラスチックの屋根が付いている。さすがにあの世界では地下鉄は作れないだろうな。
シャルロッテはあれから鉄道事業を進められたのかな。実を結んでいたら新聞や噂で流れてきたはずだけど。
あの世界は夢だったのだろうか。
夢にしてはやけに生々しかった。
ほんのさっきまで視界の下にあった
エマもタオンさんもイングリッドおばさんも……あの「破滅」も……睡眠中の脳が、記憶を扱う過程で生まれただけの存在だったのかな。
もしも夢だったら、いずれ思い出はいつものように消えてしまう。
夢日記をつけておけば良かった。
まあ、二十五年間の全部を記せる自信なんて無いけど……。
うーん。目的もなく歩いているだけだと、どうしてもあっちの世界のことを考えてしまう。
逆に今日、
たぶん予定があったはずなんだけど。
「……ん?」
ジーパンのポケットがぶるぶるしている。
右手を突っ込んでみたらスマホが入っていた。あったなこんなの。あっちでは無かったから忘れていた。
とても便利な品だということは覚えているし、何なら触っているうちに使い方も思い出してきた。
よし。指先を滑らせたら、電話に出られたぞ。
『おっすおっす。今は大丈夫か?』
男性の声だった。
画面には「佐藤」とあるから佐藤だ。ああ佐藤か。大学時代の友達だったはず。
「大丈夫でござんす」
『ござんす……今は出先か?』
「へいへい」
『夕方には例のアレを持っていくから、それまでには家に戻ってろよ』
「例のアレ?」
『ああ。お前楽しみにしてただろ。じゃあな』
相手からぶつんと電話を切られてしまった。
例のアレって何なんだ。まるで見当がつかない。とりあえず早めに帰宅したほうが良さそうだ。
横断歩道に足を延ばしたら、右折の車に思いっきりクラクションを鳴らされた。
運転手のおばさんがこちらをにらんでいる。ごめんなさい。頭を下げたら余計にクラクションが飛んでくる。早く
こんな調子で明日から生きていけるのかな……だんだん不安になってくる。
そのうち元に戻るとは思うけどさ。
× × ×
夕方になるまで、アパートでぼんやりと映画を観ていた。
ヒューゲルを出てから破滅までの五年間、クッヒェ家から出られなくてあまりにもやることがない時、自分はたまにエマに「映画の音読」をやってもらっていた。
井納の脳内にある映画の記憶を読み込んでもらい、そのまま話してもらうというもので、マクシミリアンやイングリッドおばさんにも好評だった。
もっとも声だけでは効果音なしのラジオドラマみたいなものだから、やはり映像や効果音付きのほうが断然に楽しい。
エマには悪いけど、テレビには勝てない。
二本目の『スピード』が終わったあたりで、玄関からベルの音がした。
ドアを開けると、佐藤が立っていた。いかにも日本人という顔の若者だ。
「おう! 持ってきたからな!」
「ありがとう、しゃとー」
「どうした井納。電話の時から呂律が回ってねえぞ。また昼から飲んでやがるな」
「うんうん」
「ほどほどにしとけよ。アル中で死ぬぞ。ったく、そんなんで捌けるのか、こいつをさあ」
彼が持ってきてくれたのは発泡スチロールの箱だ。
ガムテープとフタを外すと、中には釣られたばかりのサバが入っていた。
ああ。なるほど。
そういうことだったのか。だいたい思い出した。
今日は井納純一が死んだ日だ。
佐藤からもらったサバを自分で捌いて「お造り」を口にした。吐きまくって死んだ。あまりにあっけない終焉だった。
俺はその直前に戻ってこれたらしい。いや戻ってきたというより、あの夢はある種の警告だったのかも。
サバに当たったら死ぬぞ……きっと神が教えてくれたんだ。
ならば、自分がとるべき選択肢は決まっている。
佐藤に突き返してやればいい。
「いやあ。美味そうなサバだね。さすが佐藤。さっそく捌くよ」
おいおいおいおい。
なんでお断りできないのさ。
おかしいじゃないか。自分の身体なのに勝手に返事をするなんて!
あれよあれよという間に、佐藤は立ち去ってしまい、俺は手に入れたサバを箱から取り出していた。
そしてまな板の上でウロコを取り始める。まるで過去の行動をなぞるかのように、居酒屋仕込みの手さばきでどんどんサバが解体されていく。
半身は冷蔵庫に入れられて、残りが刺身の形でお皿に盛りつけられた。
ここまではいい。ここから食べなければいいんだから。
何とか身体を抑えてやる。絶対にサバなんて食べたりしない!
「いただきます!」
ああくそ! もう!
だから食べちゃダメなんだって! ああ! もう三枚目じゃないか! めっちゃ美味しい!
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