9-5 破滅


     × × ×     


 公女として、子供の頃から尖塔に登るのが好きだった。

 広大な平原を蛇行する川、起伏のゆるい丘陵、風になびく大麦畑を眺めていると心が洗われた。

 それは公女が二十歳を過ぎた今も変わらない。


 南方向に目を向ければ、キーファーの梯団旗が地平線に消えていく。

 緑色の制服に身を包んだ兵士たちは、敗軍の将ヨハンと運命を共にするつもりのようだ。二列縦隊を組み、多数の梯団旗を掲げている。

 あの行列の中には、うちの兵営から出奔した者も含まれているらしいけど、あえて引き止めたりしなかった。

 他に行く宛がないなら仕方ないし、多少の誤差があろうと約四千人程度ではルドルフ大公には対抗できないだろうから。


 たとえユリアが上空から伏兵を哨戒していても……正面から大兵力で攻め立てられては、逃げ回るのが関の山だ。

 マックス老人、あの風使いにも劣勢をひっくり返す力はない。

 彼らに未来は存在しない。


 ヨハンがアウスターカップ辺境伯に助けてもらうつもりでも、きっと門前払いされるだろうし。

 そもそもアウスターカップ辺境伯領に入る前に、途中で怒れるヴィラバ人たちに殺されてしまうかもしれない。

 北街道にはシュバルツァー・フルスブルクを落としたオエステ兵が待ち受けており、他の街道も敵陣営に押さえられている可能性があるため、ヨハンたちは危険とわかっていながら東街道からヴィラバ・ストルチェクを経由するしかなかった。


 あらゆる状況がヨハンを追い詰めている。

 公女おれには尖塔から見送ることしかできない。してはいけない。する必要がない。



     × × ×     



 勉強部屋では、シャルロッテ・スネルが待っていた。

 包囲が解かれたので城に戻ってきた彼女だけど、また外に出て行こうとしている。

 彼女の涼しげなドレスは歩きやすいように足元の裾が短くなっており、どことなく前世のスカートに近いものを感じた。

 落ちついた色合いはいつぞやの喪服を思わせる。


「おいとまをいただけて、大変ありがたく思っております」


 シャルロッテはふわふわのブラウンヘアを揺らす。足元にはスーツケースが転がっている。

 彼女には家庭教師をやめてもらうことになっていた。


「あなたにはとてもお世話になりましたね」

「とんでもございません。あまりお役に立てず、こんな形で城を失うことにもなり……ああっ。公女様が不憫でなりません!」

「あなたのせいではありませんよ。わたしこそ、匿ってあげられなくなってごめんなさいね」

「でも、きっともっと、私の力なら何とかできることもあったはずなのです」


 シャルロッテはわざとらしく涙を拭う。

 彼女の真意はさておき、そのとおりではあった。

 大商会を築き上げた経験から商談の上手さ、市場の嗅覚に至るまで、シャルロッテの能力の高さは明らかにずば抜けている。

 それを俺は十分に活かせなかった。

 密偵としての仕事は十分にこなしてくれたけど、そんなのは他の者でも代わりが効く。


 彼女にしかできないことをやってもらうべきだった。

 なのに、自分の脳に何もアイデアが思い浮かばなかったのは悔いが残る。


「……何か、餞別を差し上げないといけませんね」

「公女様のお気遣い、胸に染み入ります。不肖シャロは泣いてしまいそうです」

「もう泣いているではありませんか」

「つきましては、こちらの小説をお貸しくださいませ!」


 シャルロッテの手には日記帳があった。

 少し前、井納純一の現代知識を活かすために制作したものだ。

 エマに読み取ってもらった未来の技術や文化が記されている。例えば、鉄道や飛行機、自動車に半導体など。

 本文の半分くらい映画の感想日記になっているのは気にしないでほしい。


 というか、なんでシャルロッテが持っているんだ。


「先ほど部屋でお待ちしている時に読みふけっておりました。空想的なアイデアばかりで非常に刺激的ですが、例えば鉄道、実現できればお金になりそうだと不肖シャロの嗅覚がヒクヒクしてます!」

「まあ……小林一三が証明しておりますものね」

「先駆者がいらっしゃるのですか?」

「何でもありません。もう不要な本ですから差し上げますわ」

「ありがたき幸せ! シャロはもうニッコニコです!」


 シャルロッテは喜色満面でスーツケースに日記帳九冊を詰め込む。

 全部あげるつもりはなかったんだけど、まあ許そう。

 彼女が話したように、あの日記帳に記された内容は『この世界』では空想的な代物だ。

 映画の内容を小説や戯曲に仕上げたら多少の金になるかもしれないけど、技術的な部分は実現性が低い。

 お尻に優しいサスペンションもまともに作れない技術者たちに飛行機が作れるものか。


「では、さっそくチザルピナに行ってきますので、これにて不肖シャロは失礼つかまつります!」

「南方に向かうのですか」

「はい。クレロには腕利きのオヤジがやっている木工や金具の工房が多数ありまして。適当に声をかけておこうかと」

「木工と金具……」

「あとはサンダリオン島の鉱山にも出向くつもりです。今時の鉱山ならトロッコを使っているはずですから、その辺の技師にも話をしちゃったり。いずれ引き抜いちゃったり。楽しみでなりません」


 シャルロッテはすらすらと行程を説明してくれる。

 今の話を低地の借金取りに売ったら、いくら払ってもらえるかな……なんてのは冗談として。


「あなたは本気で鉄道を作るつもりなのですか」

「はい」


 即答されてしまった。

 俺は前世での鉄道の歴史なんて知らないけど、少なくとも蒸気機関車が出てくるのは数世紀後だったはずだ。

 肝心のレールだって、この世界の鉄の価値を考えると敷設するのに莫大なお金が掛かってしまう。そもそもあんなに生産できるのか疑わしい。


「不可能だと思いますわ」

「うふふふ。ビックリしてもらえる日が楽しみですね」


 シャルロッテは不敵な笑みを浮かべながら、意気揚々と勉強部屋を去っていった。

 独特の香水の匂いがゆるやかに薄れていく。

 やがて、女中たちが部屋にやってきて、公女の荷造りを進めつつある中で、窓からの風が吹き込み始めた頃。


 俺はようやく彼女の『本当の使い方』を理解した気がした。

 なんと今さらだろう。



     × × ×     



 一六七〇年七月二日。

 ラミーヘルム城の大広間において、正式に城の明け渡しが行われた。

 公女の手から「宝刀」がオエステ王国のクリサンテーモ伯に引き渡される。


 八百年にわたるヒューゲル家の支配はあっさりと終わりを迎えた。

 代わりに入ってきたのは二千名のオエステ兵たち。

 トーア侯に入城を許したら何をされるか予想できなかったので、オエステ軍に来てもらえて良かった。

 もっとも――世の倣いとして、兵士による市中での蛮行は少なからず行われたみたいだけど、クリサンテーモ老人は市民からの抗議に親身になって対応してくれていた。

 もちろん見せかけだけの善行かもしれない。彼らが「異邦人」のヒューゲル市民を大切に扱う理由は存在しない。シュバルツァー・フルスブルクでは蛮行が起きたわけだし。宗教的にもヒューゲルには新教徒が多いけど、オエステ王国の人々は熱狂的な旧教徒だとされているし。

 どちらにしろ、今の自分たちにできるのは城市を彼に託すことだけだった。


 公女と従卒たちの行列は、廷臣たちに見送られる形で城を出て、南北街道を南に向かった。

 長年過ごしてきた土地が徐々に遠ざかっていく。

 イングリッドおばさんは泣いていた。

 お母様とは別の馬車だったから、あの人の反応はわからない。


 街道の途中で、行列はタオンさんの息子が率いる八百名の「ヒューゲル梯団」とすれ違った。彼らは南部側に供出された兵力であり、南部連合の兵士として北部戦線に投入されることになる。


「我々が戦果を挙げることができれば、お家の再興も叶うはずです! 公女様はクッヒェにてお待ちくださいませ!」


 若タオンはやる気まんまんだった。

 ヨハンについていったベルゲブーク卿やヒューゲル脱走兵たちと刃を交えることになると、本人もわかっているだろうに。


「ご武運を祈っております」

「ありがたき幸せ! 我が父の名にかけて、必ずや武功を挙げて参ります!」


 若タオンの声に合わせて、兵士たちは「おおっ」と掛け声を浴びせてくれる。

 その中にはチザルピナの武辺者など顔見知りの者もいた。




 公女の行列が蟄居先のクッヒェ家に辿りついたのは七月下旬だった。

 もっとも早く馬車を降りたのはエリザベートだ。

 彼女にとっては生家であり、何より愛する夫・カミルが待っている館でもある。


「カミル様!」

「おお、エリザベート!」


 玄関先で抱き合う二人。そこに二人の子供たちも加わる。

 公女やイングリッドおばさんが近づくと、カミルは憑き物が取れたような笑みで迎えてくれた。


「マリーお姉様! イングリッドおばさま! よくぞ、ご無事で!」


 彼の小指は短くなっていた。



     × × ×     



 クッヒェ家での蟄居生活は退屈だった。

 ヘレノポリス近郊にあるとはいえ、蟄居の身では田舎の狭い領地から出られないのでやることがない。

 カミルやパウル公、イングリッドおばさんたちは平和そうに穏やかに過ごしているし、

 お母様は相変わらず部屋にこもっているし。

 ホストのクッヒェ卿も分家筋だけに「監視役」というより身内みたいな扱いだった。ゆえに危険を感じることもない。刺激がない。


 何もない日々が延々と続く。

 何もないのはヒューゲルにいた頃から変わらないといえばそうでもあり、それにしたって何もせずに寝食するだけなのは苦痛だった。

 何となく──カミルやパウル公から「壁」を作られている気もした。

 そりゃそうだ。なにせ俺はすぐに降伏しなかったから。二人の命を見捨てたから。かといって家名を守るためにトーア侯に徹底抗戦したわけでもない。

 マリーの方針に納得してもらえないのは当然だった。

 カミルの短くなった指はいつまでも短いままで、彼は右手を見るたびに姉から見捨てられたことを感じてしまうのだろう。


 そんな穏やかながらもギスギスした日々が──「終わり」まで、終わらなかった。


 一六七〇年十月。

 ルドルフ大公──もとい神聖大君ルドルフ二世は、配下の兵力を北に向かわせた。

 キーファー公ヨハンを匿っている「北の雄」アウスターカップ辺境伯に、ヨハンの引き渡しと自らに従うことを要求したらしい。


 アウスターカップ辺境伯の答えは銃火だった。

 三万人もの兵士たちが南下を始めた。

 彼らは各地の城で降伏せずに持ちこたえていた北部諸侯を助けて回ると、ちょうどヒューゲルのあたりでルドルフの主力部隊と交戦。

 ここでは辺境伯の兵が敗れたものの、アウスターカップからは後詰めの兵士たちが次々と南に送られていった。


 ルドルフもトーア侯、エレトン公、ボーデン侯、フロイデ侯など有力諸侯の兵力をどんどん北に向かわせる。

 ヒンターラント本国やアラダソク王冠領、オエステ王国からも援軍が駆けつける。


 南北戦争は次第に長期戦の色彩を帯びてきた。

 南北の互角の争いは、諸外国の干渉もあって終わりが見えなくなっていった。ライム王国や異教徒トプラク皇帝スルタンにとって、大君同盟の国内が戦乱で衰退するのは「ありがたいこと」だから、彼らは南北のバランスが崩れそうになるたびに有象無象の判官びいきを見せてくれた。

 同盟国内は十五年戦争の頃に逆戻りしていった。


 そんな大いなる世間話の数々は、平穏な田舎の邸宅からは別世界の話のようだった。

 まるで現実感がない。

 もしかしたらクッヒェ卿の作り話なのではと疑ったこともあった。

 しかしながら、たまに手に入る南部の新聞が「正しさ」を証明してくれるから、どうにも信じるしかなかった。


 何よりも信じられないのはアウスターカップ辺境伯が北部連盟の味方になったことだった。

 あんなに北部連盟に参加するのを渋っていたのに、なぜヨハンを助けたのやら。


 その答えは、ある時に行商人の「噂」として流れてきた。


『キーファー公はヨハネスハーフェン港をアウスターカップに割譲したらしい』

『北部連盟が勝利した暁にはアウスターカップ辺境伯の孫が大君になるらしい』

『キーファー家とアウスターカップ家の次女との間に生まれた孫は、新たな大君に相応しい』


 つまりはそういうことだった。



     × × ×     



 一六七五年六月。

 世界は突如として終わりを迎えた。

 北の空に、あの巨大な五角形の魔法陣が浮かんだ。


 あとは井納純一が知ってのとおり。まばゆい光が世界を包み込み、あらゆる物を消滅させていった。

 クッヒェ邸の庭で状況を見つめていた公女おれは、何ら痛みを感じぬままに光を受け──。



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