9-1 明日あればこそ


     × × ×     


 一六七〇年五月末日。

 命からがら逃げ延びてきた衛兵の口から、パウル公とカミルの拉致が伝えられると、ラミーヘルム城内は大混乱に陥った。

 兵士も女中も雑用係たちも、みんな泣いたり怒ったりで大忙し。


「お兄様が……!」


 イングリッドおばさんはショックのあまり卒倒してしまった。

 カミルの奥さん・エリザベートは現実を受け入れられておらず、子供たちから心配されている。

 お母様にはまだ伝えてないけど、じきに耳に入るだろう。


 城内の市街地では市民がざわついている。衛兵たちは彼らを見張るのに手いっぱい。たまに投石が飛び交っていた。

 廷臣や将校たちは当主不在の評定で対策を話し合っているものの、今のところ答えが出たとの報告は受けていない。

 父親たちを見捨てられない以上は犯人側の要求を飲むしかないからね……ましてや相手はヒューゲルに恨みを持っている人物だ。間を取り持ってくれる共通の親戚も存在しない。今さら対策なんて立てようがない。

 なのに廷臣たちが評定を続けているのは、不安を紛らわすため……なのか。


 父の旅立ちの前からイヤな予感がしていた公女おれとしては、自分とエマだけが冷静でいられてしまうのが心地悪い。

 大広間での夕食に参加しているのも、今日は自分たちだけだった。


「どうするの、井納」

「どうしたらいいかな」

「エマに訊かれても困る」


 彼女はローストチキンをナイフで切り刻む。

 今日の料理は全体的に肉類が多い。

 ジョフロア料理長なりのうっぷん晴らしなのかな。

 さっき厨房で泣いているのを見たから、今回の件では色々と思うところがあるのかもしれない。


 うむむ。お雇い外国人の彼より涙を流せていないのは娘として恥ずかしいな。冷血だと思われかねない。

 あとでみんなの前で泣いておこう。


「井納は冷たいね」

「触ってないのに心を読んだの? 褒められないよ」

「触らなくてもわかる。そんなにショックを受けてない。そもそも、あの二人のことをどうでもいいと思ってる」

「どうでも良くないよ」

「でもエマより大切じゃないでしょ。役に立たないから」


 エマの台詞に心を刺される。

 たしかに彼女の言うとおりで、はっきり言ってしまうと――彼らをかけがえのない家族だと感じたことはない。

 赤ん坊の頃から育ててもらってきたから、いつか恩返しをしてやりたいけど……せいぜい、それくらい。

 自分の中でパウル公の存在を例えるなら、公私ともにお世話になった会社の上司みたいな扱いだ。

 弟は可愛い部下だったけど追い抜かれて上司になっちゃった感じ。

 二人が死んでも公女おれは泣かずにいられる自信がある。寂しさと悲しさは沸いてくるだろうけど。


「……きっと血がつながってないからだね」

「実娘なのに」

「心の話だよ。あの二人は公女おれとはずっと過ごしてきたけど、井納おれとは会ったこともないわけだから」

「そこに差はあるの」

「あるよ」


 俺は手元のローストチキンを口にする。美味しい。

 胡椒の使い方を褒め称えたくなる。

 塩加減も追究されている。さすがジョフロア料理長だ。

 テーブルの向こうでは、エマの眠そうな目がこちらを見つめていた。


「どうしたのさ」

「井納は夢見る乙女だね」

「乙女ではないよ」

「おっぱいが大きい。髪の毛がツヤツヤ。エヴリナに似てる」

「外見の話じゃないか」

「いつか、本当の自分をわかってくれる誰かが、目の前に現れるのを待ってる」

「…………エマのことじゃん」

「そうね」


 彼女はほんのり口元を緩めると、手を叩いて女中を呼んだ。

 赤ワインをご所望らしい。


「こんな大変な時に! 奴隷の分際で!」


 年老いた女中は怒りを隠そうともしなかった。

 普段ならグラスに注いでくれるのに、ボトルをテーブルまで持ってきただけで去っていく。


 仕方ないので、エマは手酌で飲み始めた。


「で、どうするの井納」

「どうしたらいいかな」

「堂々巡り」

「そりゃそうなるさ。本当にどうしようもないんだから」

「まな板の上の鯉?」

「そんなところ。板前さんが話を聞いてくれたらいいのにね」


 こんな時にタオンさんが生きていてくれたら、あの交遊関係とバイタリティを活かして交渉に臨んでくれたはずなのに。

 ……いや、ダメだな。あの人を送り込んでしまうと、むしろケンカを売っていると思われかねない。

 なにせヒューゲル家がトーア侯に恨まれる原因を作った張本人だし。


 ……ラミーヘルム城の城壁に今も残っている大きな割れ目。

 十五年戦争の頃、この城を占領していたトーア兵は、あの割れ目から突入してきた先代公の兵に敗北したという。

 タオンさんが火薬を仕掛けて、城壁に突破口を作り出したのだ。

 城から逃げようとしたマティアス将軍を捕らえたのもタオン兵だったらしい。


 その時の恨みをトーア侯……マティアス・フォン・トーア本人が忘れているはずがない。


「お姉ちゃん」


 考えごとをしながらローストチキンを切っていたら、大広間の入り口から声をかけられた。

 末弟のマクシミリアンだ。

 お腹を空かせているようなジェスチャーを示しているので、俺はジョフロアさんにお願いして追加の夕食を作ってもらう。


 テーブルに出された前菜のマッシュポテトに、マクシミリアンは舌鼓を打った。


「うまい」


 この子はひょっとするとエマより同盟語が拙いかもしれない。

 もう十三歳になるというのに、口から出てくるのは短い言葉ばかり。

 エマみたいに会話を続けられない。感想をポロリと出したら、あとは身振り手振りと表情だけで済ませてしまう。


 仮にも姉たる者としては、弟の将来が心配になってくる。

 以前、エマに調べてもらったら「普通の子」だと診断されたけど。


「ローストチキンもうまい」

「マクシミリアンはお父様とカミルが心配ではないの?」

「けほっ」


 対面でエマがワインをこぼしていた。

 わざとらしいな。自分でも自分自身を棚に上げているのはわかってるから。

 当のマクシミリアンはしばらく考えるような仕草を見せてから、チキンをごくんと飲み込み、


「心配」

「そうね。わたしも心配だわ」

「でも」

「でも?」

「チャンス」


 マクシミリアンは平然と言ってのけた。

 公女と魔法使いは目を見合わせる。

 一体、末弟の彼が何をチャンスだと捉えているのか、あまり深く考えないほうが良さそうだ。


 ただ、万が一にも父親たちに何かあった時には、この子の存在が非常に大きくなるのは間違いない。

 カミルにはまだ男子の子供がいないわけだし。


「……マクシミリアンは、お姉ちゃんが好き?」

「別に」


 そっけない返答は地味にショックだった。

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